
最終日の今日は、ラフマニノフの唯一の親友と言われた、
20世紀を代表するロシアの名歌手、
フョードル・シャリアピンとのエピソードです。
ラフマニノフとシャリアピンは1873年生まれの同い年。
ラフマニノフが作曲家として自信喪失し、
指揮者としてオペラを振っている時に知り合い、
終生親友として励まし合う仲でした。
ストラヴィンスキーが「6フィート半のしかめっ面」
と評したラフマニノフ。
社交性がなく、いつも不機嫌で、とっつきにくい人でしたが、
ラフマニノフを笑顔にさせる唯一の男と言われていたのが
シャリアピンでした。
ちなみに「シャリアピン」という名前。
今の日本では、往年の名オペラ歌手としてよりも
「シャリアピン・ステーキ」の方が有名かもしれませんね。
これは彼が来日した時、
帝国ホテルでリクエストして作らせたステーキのことだそうですが、
それはさておき、ラフマニノフとシャリアピンのお話、進めましょう!
2人の出会いは、ラフマニノフが、交響曲第1番の
初演の失敗による自信喪失で、曲が書けなくなっていた時期。
ラフマニノフが指揮を務めるオペラに、
シャリアピンが出演したのがきっかけでした。
その後、同じボリショイ・オペラの専属アーティストとして舞台を務めたり、
一緒に演奏旅行をしているうちに、公私を超えてすっかり意気投合した二人。
ラフマニノフはシャリアピンのためにオペラを書いたり、
結婚式の介添役もしました。
ラフマニノフがアメリカに亡命した後、
シャリアピンも亡命してパリに住みます。
そんなシャリアピンの元に、
ラフマニノフから届く手紙にはいつも
「体調が悪い」などのグチが書かれています。
なぐさめるためにシャリアピンは
しょっちゅうアメリカツアーに出かけていました。
1938年にシャリアピンが亡くなって、
すっかり意気消沈したラフマニノフ。
その5年後、70歳を目前に、彼を笑顔にできたもう一人の人、
妻ナターリャに見守られながら天国に旅立ちました。
幼少より音楽の才能を認められ、ヨーロッパ、アメリカ、東南アジ ア諸国への演奏旅行に参加し、絶賛を博す。
桐朋学園大学ピアノ科に入学と同時にデビュー。
年間60本を超えるコンサートで、全国各地を訪れる傍ら、ライフワークとして「学校コンサート」や「病院コンサート」も行っている。