DAIWA HOUSE Secret Notes

2018/04/12

セルゲイ・ラフマニノフと、その側にいた人々-4-

最終日の今日は、ラフマニノフの唯一の親友と言われた、
20世紀を代表するロシアの名歌手、
フョードル・シャリアピンとのエピソードです。

ラフマニノフとシャリアピンは1873年生まれの同い年。
ラフマニノフが作曲家として自信喪失し、
指揮者としてオペラを振っている時に知り合い、
終生親友として励まし合う仲でした。

ストラヴィンスキーが「6フィート半のしかめっ面」
と評したラフマニノフ。
社交性がなく、いつも不機嫌で、とっつきにくい人でしたが、
ラフマニノフを笑顔にさせる唯一の男と言われていたのが
シャリアピンでした。

ちなみに「シャリアピン」という名前。
今の日本では、往年の名オペラ歌手としてよりも
「シャリアピン・ステーキ」の方が有名かもしれませんね。

これは彼が来日した時、
帝国ホテルでリクエストして作らせたステーキのことだそうですが、
それはさておき、ラフマニノフとシャリアピンのお話、進めましょう!

2人の出会いは、ラフマニノフが、交響曲第1番の
初演の失敗による自信喪失で、曲が書けなくなっていた時期。
ラフマニノフが指揮を務めるオペラに、
シャリアピンが出演したのがきっかけでした。

その後、同じボリショイ・オペラの専属アーティストとして舞台を務めたり、
一緒に演奏旅行をしているうちに、公私を超えてすっかり意気投合した二人。
ラフマニノフはシャリアピンのためにオペラを書いたり、
結婚式の介添役もしました。

ラフマニノフがアメリカに亡命した後、
シャリアピンも亡命してパリに住みます。
そんなシャリアピンの元に、
ラフマニノフから届く手紙にはいつも
「体調が悪い」などのグチが書かれています。
なぐさめるためにシャリアピンは
しょっちゅうアメリカツアーに出かけていました。
1938年にシャリアピンが亡くなって、
すっかり意気消沈したラフマニノフ。
その5年後、70歳を目前に、彼を笑顔にできたもう一人の人、
妻ナターリャに見守られながら天国に旅立ちました。

西村由紀江 (ピアニスト/作曲家)

幼少より音楽の才能を認められ、ヨーロッパ、アメリカ、東南アジ ア諸国への演奏旅行に参加し、絶賛を博す。
桐朋学園大学ピアノ科に入学と同時にデビュー。
年間60本を超えるコンサートで、全国各地を訪れる傍ら、ライフワークとして「学校コンサート」や「病院コンサート」も行っている。

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