
今日は、常に彼を立て、支え続けた妻ナターリャとのエピソード。
ラフマニノフがいとこのナターリャと結婚したのは1902年、29歳の時でした。
いとこ同士の結婚は、ロシア正教会では正式には認められておらず、
司祭と親しかった叔母さんの手助けで、実現したそうです。
でも、気難しく、社交性のないラフマニノフにとっては、
彼を理解してくれる唯一の大切な人でした。
ラフマニノフと、いとこでもある妻ナターリャは、
幼い頃、ペテルブルグにほど近い故郷の町で一緒に遊んでいた間柄。
9歳の時、ラフマニノフがペテルブルグに引っ越して以来、途絶えていましたが、
2人は思わぬことで再会を果たします。
ピアノの師匠ズヴェーレフに反発し訣別した彼が、
行き場を失くして身を寄せたのが、父方の伯母の嫁ぎ先であるサーチン家。
ここでナターリャと8年ぶりに出会ったのでした。
以後、彼は毎年夏になるとイワノフカのサーチン家を訪れるようになります。
ラフマニノフにとても親切だった彼ら。
当時、自信喪失して作曲ができなくなっていた
彼に、ダール博士の診療を勧めたのもサーチン家の人たちでした。
ダール博士の治療に勝るほどの貢献をした、ナターリャの愛情。
1902年、ラフマニノフは心の病を取り払ってくれた彼女と結婚し、
この時に書いた「ここはすばらしい場所」という曲を、ナターリャに捧げました。
「ここはすばらしい。ここにはただ神と私がいるだけ。
咲き誇る花と、年老いた松の木と、そして君……私のあこがれ」
ロシア革命を嫌って1919年にアメリカに亡命した後、
ピアニストとして大成功を収めたラフマニノフですが、
曲は書けず、祖国への思いは募るばかり。
どんどん気難しく、ふさぎ込む、彼の心を癒していたのは
妻ナターリャと、2人の娘の存在でした。
幼少より音楽の才能を認められ、ヨーロッパ、アメリカ、東南アジ ア諸国への演奏旅行に参加し、絶賛を博す。
桐朋学園大学ピアノ科に入学と同時にデビュー。
年間60本を超えるコンサートで、全国各地を訪れる傍ら、ライフワークとして「学校コンサート」や「病院コンサート」も行っている。