今回は、アイナ・ジ・エンドさんのHidden Story。

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アイナ・ジ・エンド、という名前の意味は、《それまでのアイナを終わらせる》。2015年、〔楽器を持たないパンクバンド〕BiSHで活動をスタートする時にアイナさん自身がつけた名前です。

BiSHでは、ほぼ全ての曲で振り付けを担当してきたアイナさん。歌より先に、子どもの頃に始めたのは ダンス でした。

「4歳の時にジャズダンスを習わせてもらって、そこからもうずっとやってるんですけど。お母さんが元々アイドル歌手みたいなことをやっていて、当時バブル時代っていうんですか?その時期に歌手を目指して上京して、いろいろあって夢を諦めて子育てに専念したというお母さんの人生があったので...何て言うんでしょうね、お母さんが叶えられなかった夢をちょっと追っている感覚で幼少期はやってたとこもあります。もちろんダンスは好きだったけど、お母さんが喜んでくれるんですよ。自分が踊ったり歌ったりすると。自分事のように手をたたいて喜んでくれるもので嬉しかったですね。お母さんは洗濯物とかも全部歌にするんですよ。♪洗濯もん、洗濯もん、洗濯もん、洗濯もん、洗濯もん、洗濯もん、洗濯もん~って言いながら干したりとか、犬の歌もあるとか。なんか全部歌にするんですよ、それは最高でしたね。歌を歌うっていうことに対して何のハードルもない。喋るように歌うっていうか、それはとても良い環境でしたね。」

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そんな幼少期を経て、思春期のアイナさんは...

中学2年生までダンスやったんですけど、ちょっと高校受験をしっかりやってみようと思って、高校1年生まで1回ダンス辞めてるんですよね。それでめちゃめちゃ勉強して、第1志望落ちて第2志望の高校行くんですけど、その学校が10時間授業とかで。進学校に入っちゃって。勉強頑張ってたんですけど、なんか突然ダンスやりたくなるもんなんですかね、10時間授業を早退して6時間目ぐらいで切り上げて、高校1年生の終わりからまたダンスを習わせてもらって。そこからもう学校行かなくなっちゃうんですけど、そういうブランクがあって、またダンスにのめり込む人生で。すごい、めちゃくちゃずっと踊ってて、気がついたら裸足で難波の駅とかも踊り歩くみたいな。ジャズダンサーって裸足で、結構コンテンポラリーダンサーさんも多分踊りはると思うんですけど、高校生なんでまだ足の裏がそんな強くなくてターンとかの練習し続けてると血だらけになっちゃうんですよ。私やりすぎてその豆が潰れてみたいな。でもどんだけ練習しても3回転以上回れなくて、それが悔しくて、もうずっと足の裏を強くしたいと思って、外で裸足でよく踊ったりして鍛えてましたね(笑)」

大阪の難波駅のあたりで裸足で踊っていたほどダンスにのめり込んでたアイナさん。では、歌はいつから始めたのでしょうか?

「高校3年生の時に大阪でとある舞台のオーディションがあって、それはダンスと歌のオーディションがあったんですけど、ダンスで受けようと思ってて。で、一緒に受けようと思ってたダンスの相方の子とその時期にカラオケに行ったんですよ。普通にいつも一緒に踊ってるめっちゃ仲いい親友みたいな子で"オーディションも一緒にダンサーとして受けような"みたいな言ってたんですけど。カラオケ行って私が歌った時に、"アイナは多分歌でやっていった方がいいと思う"って真剣に言われたんですよ。"初めて尊敬した"って言われて。ずっと一緒に踊ってて、外で踊ったり、コンテスト出たり、一緒に涙も、苦楽を共にした親友にそんなこと言われたら歌の方がいいんかもって本気で思っちゃって。で、その受けようと思ってたオーディションも歌で受けることにして。そうですね、そこから結構歌にシフトチェンジしていくっていう感じでした。」

歌への思いを強くしたアイナさん、大阪から東京へやってきます。

「高校3年生卒業して、やっぱり進学校だったんで本当は大学に合格しないといけなかったし、大学に進学率100%ぐらいの高校でとりあえず行かなきゃみたいになって入学金払ったんですけど、どうしても夢が諦められなくて。ちょっと「東京にしかボイトレってないらしい」みたいな嘘ついて(笑)、お母さんに「やっぱ行きたい、上京したい」みたいな、めっちゃお願いして、"もういいよ"ってなって上京したんですけどね。18歳で上京してから色んなライブハウスをノックして、"私をステージに立たせてもらっていいですか。どうやったらライブってできるんですか"っていう日々が始まって。で、ちっちゃいコミュニティですけどちょっとずつ友達も増えて、ちっちゃいライブステージで人様のカバーでライブをできるようになったんですね。やっていったんですけど、やっぱカバーでライブしててもダメなんだってことに気づいて。アーティストになるにはオリジナル曲を作らなあかんねや...って。その時にやっと気づいたので、焦るようにして家で作り始めたのがきっかけで。それが18歳の時ですね。」

さあ、東京で作曲を始めたアイナさん曲作りは上手くいったのでしょうか?

とりあえずその当時、中野駅の近くの野方っていうところに住んでたんですけど、野方を散歩しながら頭にメロディを浮かべて、ずっと歌うんですよ、もう大声で。衝撃やったんですよ。もっと簡単に歌手になれると思ってたんです。なめてました、ほんとに。全然うまくいかないし、CDショップに自分の曲が並ぶっていうのは夢のまた夢でしたし、だからこんなに大変なんだみたいな、それを感じながら作ってたんですけど。曲を家に持ち帰って、それもずっと歌って、これだっていうメロディが出てきたら、それをパズルのピースを組み合わせるみたいに、Aメロはこれかなみたいな。で、当時AメロBメロサビっていうJポップの鉄則があるとか知らなかったんで、このメロの後はこのメロがいいかもっていう、ほんと感覚で作った曲が【きえないで】って曲で。もう声だけで作ったのが始まり。」

18歳の時、アイナさんが初めて書いた曲が、【きえないで】。2018年にソロデビューシングルとしてリリース。のちにアルバム『THE END』にも収録されました。

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東京での、なかなかうまくいかない日々を越え、 BiSHとしてデビュー。現在は、ソロアーティスト、アイナ・ジ・エンドとして大活躍中です。

加えて、岩井俊二監督の映画〈キリエのうた〉では初主演。日本アカデミー賞で、新人俳優賞を受賞しました。アイナさん、すごいところまで来ました!

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「えー、ほんまですか。それ言ってくれるのパパだけだったんですけど、初めて言われました(笑)"いや、来るとこまで来たな"ってよう言われます。"どないすんの、ほんま。アカデミー賞とかも取って。もうやることないんちゃう"とか言われます。パパにしか言われないですけど。でも、そんな感覚自分にはないんですよね。なんて言うんですかね、ずっと飢えてるとこがあって。私はもっとできるとか、もっともっと色んな人に自分の音楽を知ってほしいとか、ライブでもっとこの曲を育てたいとか、願望が結構強くて。だから全く満足してなくて、だからこれからどうしようとか考えてる暇があんまないんですよね。もう思い当たることが多すぎる。もっとこれブラッシュアップしないと、とか。ダンスもっと上手くなりたい。だからこれからも多分この気持ちのままで頑張ると思います。」

アイナ・ジ・エンド

来週は、最新アルバム『RUBY POP』のお話を中心にお届けします!