
第18回ショパン国際ピアノコンクールで2位に入賞した反田恭平さん。実は昨年、自身が手掛けるオーケストラを株式会社化。そしてさらに、その先に思い描いていることがあると言います。反田恭平さんにお話をうかがいました。まずは反田さんとオーケストラの出会いを教えていただきます。それは反田少年、12歳のときの出来事でした。
「僕は12歳までサッカー少年でしたので、ワールドカップに出たい、という一心でサッカーをやってました。だけど、腕を試合中に骨折してしまって、ものすごい激痛だったんです。『無理だわ、痛い職業無理だわ』と思って。怪我しない職業何かな?と思って、当時趣味でやっていたピアノがあったので、ピアノなら骨折しないなと思ってピアニストになろうと思ったのがひとつのきっかけです。結局ピアノでも怪我しました。グランドピアノの屋根があるじゃないですか、腕がすべって屋根が左手の指に落ちちゃったり、怪我するんかいって。(笑)
で、12歳のときに本格的に指導してくださる音楽教室に入り直して、そこで小林愛実さんと同期になるわけなんです。その12歳のときにたまたま音楽教室の先生からもらったちらしに【指揮者は何者だ】というワークショップがあって、そこで最終回で『(指揮を)ふってみたい人?』って言われて、半ば母に強制的に腕を挙げさせられて、指揮台に立って腕をふりおろしたときの感動は、何にも変えられない感動で。それがクラシックがかっこいいと思えた瞬間だったんですね。指揮者の先生に、『ピアニストより指揮者になりたい、どうすればなれますか?』と聞いたら、『ピアノやってるんだったらオーケストラに作用するからピアノをやりなさい。ピアノを極めてから指揮を勉強したらすごく助けになるんじゃない?』と言われてピアノを極めようと思って、ここまで来ました。」
反田恭平さん、現在、Japan National Orchestraをプロデュースされています。反田さんは去年、このオーケストラを、DMG森精機とタッグを組んで、株式会社にしたわけですが、そもそも、工作機械大手の『DMG森精機』と反田さん、最初、どうやって接点を持ったのでしょうか?
「あるとき、福島でレコーディングして帰京してきて、夜12時くらい、日付まわるくらいで、Cook Doのチャプチェを作っていたんです。で、やっとごはんだ、って席について食べようと思ってお箸持った瞬間にマネージャーから連絡が来て、『明日、ドイツ旅立てますか?』と言われて。『明日って言われても、この9時間後の9時?』『いやー、9時間後の9時です』『ドイツのどこ?』『ドイツの田舎』って。ベルリンとかミュンヘンとかそういうのをイメージしてたら知らんところで、『DMG森精機ってところから来てるんだけど』って言われて。株主コンサートにラフマニノフを弾くピアニストが決まっていたんですけど、怪我をされた、ということで代役を探す、ということで、たまたま僕のことを知ってくださっていてオファーをいただいた、という話です。」
反田さんはDMG森精機の依頼を受けてドイツへ飛び、演奏をおこないました。
「あらためてコンサート後に会食で森さんとはじめましてしまして。『ありがとう』と。要はDMGという会社と森精機が合併して、DMG森精機になった、その、株主コンサートみたいな。こんな田舎だけど共同の会社とか工場だったりとか、昔から親しくしているから大切なコンサートだったんだ、と。何かお礼を、と言われて、僕はちょうどオーケストラを作ろうと思ってるんですけど、学校もやりたいんですよね、とエレベーターピッチみたいなプレゼンをしていったら気に入ってくださってみたいで、『オーケストラ作ってみようか』となったのが4年前でした。」
2021年5月、森精機の創業の地でもある奈良に、Japan National Orchestra 株式会社、設立。オーケストラの活動が本格的に始まっています。
「日本にはたくさんのオーケストラがあるんですけど、そこにあえてなぜ日本で作るか、僕には理由があるわけです。世界で呼ばれてツアーを作るようなオーケストラになりたいなとも思いますし、ただ何よりも、僕は20代で思い描いている人生の最終目標は、学校を作るということで、それは形態もわからないし、大きさもわからない、まあ、とりあえず学び舎を作れたらなと。そのためにはオーケストラが必要なんじゃないかなと思ってオーケストラを立ち上げたわけですよね。プロでありながらも後輩の指導もしていける、未来の音楽家のサポートもしていけるオーケストラ。しかもオーケストラが世界に有名になればこのオーケストラと共演したいと思ってもらえるし、そのオーケストラどこにあるの?へぇ、あの学校の中にあるんだ、となるし、世界が日本に留学してくる、という環境を作りたい。」
夢は、学校をつくること。反田恭平さんの挑戦は 続きます。

「2016年に『学校を作りたい』と思い始めてから、それを基準に考える思考が増えてきたので、その学校を作ることのためにずっと走ってる。だからこそ、僕はショパンコンクールに出る必要があったわけなんですよね。やっぱり、学長なのかわからないですけど、学校を建てると言っている人だったり、オーケストラを作るという人、しかもジャパン・ナショナルという名前にしちゃってるので、リーダー・キャプテンが有名じゃないと来ないよね、というのがわかっていたので。だからこそ、ショパンコンクールに出て賞をとる必要があったので、まあ、いろいろ背負っているものは大きかったですね。」
Japan National Orchestraウェブサイト