今は亡き ジョン・レノンさん。生前、ここ東京で眼鏡を作ったことがあります。今朝は、まさにジョン・レノンさんと会って、眼鏡を作ったその人、白山眼鏡店の白山 將視さんにお話を伺った模様をお送りします。

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白山 將視さんが、ジョン・レノンさんと出会ったのは、1979年。まずは、白山さんが彼の眼鏡を作ることになったきっかけを教えていただきました。

「私の友達が原宿で洋服屋さんをやっていたんですね。その彼と私、仲がよかったものですから、僕が作っている眼鏡を知っていて、気に入ってくれて、原宿の自分のお店に眼鏡を並べてくれたんです。そこでジョン・レノンさんがそれを見て、これいいね、ということで始まりました。」

当時、白山さんは29歳。明治16年、1883年に創業した眼鏡屋さんに生まれ、1970年代前半、眼鏡の仕事をスタート。それまで白山眼鏡店は、仕入れた眼鏡を販売していましたが、75年からは、オリジナルフレームの製作を始めます。白山さんがデザインした4つ目の眼鏡、【MAYFAIR】が、原宿で ジョン・レノンさんの目にとまったのです。

ジョン・レノンさん、原宿のブティックには以前からたびたび訪れていて、白山さんの友人でもあるお店の方とも知り合いでした。そのご友人に、「あの眼鏡を作りたい」と連絡が入ります。 そして、、、

「うちの方にブティックの彼から連絡があって、白山さん、お店に行った方がいいかね?ということで最初は上野のお店に来店される組み立てをしたんです。でも何日かしてセキュリティのことを含め、むしろ来てくれるんならブティックの彼と眼鏡の僕と一緒にホテルオークラに来てくれないかと。結局はブティックの彼と僕が、僕は眼鏡を持って、彼はいつものように生地見本とかを持って、ペントハウス、一番上の部屋があったんですけども、そこに伺いました。私もすごく緊張していたんですが、ヨーコさんが『久しぶりね』と彼に言って、『いらっしゃい』と僕にも言ってくださって。で、『ちょっと前からジョンがお昼寝をはじめたんで、ちょっと待ってくださる?』と聞かれたんで、僕らは『全然待たせていただきます』という事で、30分くらい待っていたら、ジョン・レノンさん出てきたんです。『Hi、I'm John』と。短パンを履いてましたが、僕は初めてだったんで、すごい緊張しました。」

白山さんは、【MAYFAIR】も含め、合計14~5本の眼鏡を持っていき、ジョン・レノンさんはほとんどのフレームを試着しました。最終的に選んだのは、やはり、最初に気に入った【MAYFAIR】。白山さんはこの時のほか、レンズの色を決める時、さらに納品の時と合計3度、ホテルオークラに足を運びました。完成品を渡す時には、こんなことがあったそうです。

「眼鏡なので僕の方も調整をしなければならないんですが。もともと一番最初と2度目のレンズの色決めの時も同じフレーム=メイフェアを持ってジョン・レノンさんにかけていただいていたので、眼鏡のコンディションがどこをどうすればいいかわかっていました。だから、あらかじめなおして持って行ったんですね。例えば、耳までの距離がもうちょっと後ろで曲げたほうがいいとか。前もっての状況でやって行ったんでほとんどそのままでよかったんですが、眼鏡をあっためる道具も持って行っていたので、最終的にはベッドルームだったんですが、コンセントをつながせてもらって、少しの微調整をしてお納めしました。その時の様子、お二人ともベッドに入られていたんですね。寝室でお二人が横になっているところで、ここで調整してほしいと言われて。ジョン・レノンさんは体は起こしていただきましたが、とても特殊な状況でやらせていただきました。そして、眼鏡をかけて、僕の顔を見て『Good』と。大変気に入っていただいた感じで、きっとかけてくださるな、という感触はありました。」

このあと、ジョン・レノンさん一家は、軽井沢へ。そこで撮影された家族写真、ジョン・レノンさんの顔には購入したばかりの【MAYFAIR】がありました。

翌年、アルバム、『Double Fantasy』リリース。しかし、その直後、12月8日、ジョン・レノンさんはマーク・チャップマンの凶弾に倒れ、帰らぬ人に。数ヶ月後、レコードショップを訪れた白山 將視さんは、衝撃を受けました。 ヨーコさんの新作のジャケット写真に、血に染まる眼鏡【MAYFAIR】が写っていたのです。

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「渋谷のタワーレコードに行った時に『シーズンオブグラス』という、今ではヨーコさんの写真が有名ですが、その『シーズンオブグラス』の予告のポスターが貼ってありまして、それをみて、「あれ~」と思って。血を浴びたメイフェアが写ってたんですよね。最初は、割れてるのかなと思ったんですが、近づいてみたら、これ血を浴びているんだと、血の気が引くというか、独特のざわーっとしたような、そんなことがあったんです。これ、事件当日、チャップマンにサインをしてあげますね、その時は濃いレンズをかけているんです。朝は濃いレンズの入った黄色いフレームをかけてサインをしてあげるんです。撃たれた時は透明フレームの薄いブルーレンズが入ったものをかけてますが、帰ってきた時間は夜だったので、夜には薄い色のレンズに掛け替えた、というのが後からわかるんですね。」

この事件以後、白山眼鏡店は先ごろ復刻するまで、【MAYFAIR】の販売を取りやめ。デザインを変更したモデルを作ってきました。1979年の夏、ジョン・レノンさんに眼鏡を作ってから、40年と少し。白山 將視さん曰く、その経験は、この上ない誇り。ちなみに、ジョン・レノンさんが手に取る前から付いていた、【MAYFAIR】という名前。その理由は...

「自分が作った眼鏡は番号で呼びたくないので名前をつけるんですが、自分は英国好きで、それまでも英国にちなんだ名前をつけることが多かったんです。メイフェアは、メイフェア地区。ロンドンの地名ですね。メイフェアという響きと、その地域がしゃれていて私自身が好きなところだったので、自分でつけてすごく気に入っている名前です。」

ロンドンのメイフェア。そこは、偶然にも、ジョン・レノンさんとオノ・ヨーコさんが出会ったインディカギャラリーのあった場所からも すぐ近くです。

白山眼鏡店ウェブサイト