第二次世界大戦中、ユダヤ人の大量虐殺が行われたアウシュビッツ強制収容所。戦後、その場所は、博物館として保存され歴史の中で起こってしまったことを伝え続けています。

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そして、そのアウシュビッツ博物館には、日本人のガイドがいらっしゃいます。今朝は、アウシュビッツ博物館でガイドを務める中谷 剛さんのHidden Story。

まずは、なぜ、中谷 剛さんがアウシュビッツ博物館でガイドを務めることになったのか?その理由を教えていただきます。

「アウシュビッツ博物館でガイドをするためにポーランドに来たわけではないんです。ただ今から考えるといくつかきっかけがありまして、その一つは小学校6年生の時に学校の講演会にいらっしゃった学者さんの言葉に『ヨーロッパでは昔、よそ者という理由だけで何百万人もの人を殺してしまった歴史がある』というのがありまして。

私は兵庫県の神戸市の生まれで、その後、父の転勤の関係で栃木県の足利市に住むようになりましたが、いじめられはしなかったけれど、よそ者扱いされた感じがあって、そのよそ者というキーワードがあった。

その後、学生時代、ポーランドを旅して、学者さんが言っていたアウシュビッツも見てみようということで行ってみたんですが、その時の見学した印象も強かった。

そして、ポーランドに住み始めて最初に得た安定的な仕事がワルシャワの日本料理店での仕事だったんですが、そのレストランでクロークをやっていたおじさんがポーランド人だったんです。私もそのおじさんと仲良くなって話をするようになったんですが、1年くらい経った時に『私はアウシュビッツの生還者で』という話がいきなり出てきて。」

現在54歳の中谷さんがポーランドに渡ったのは、25歳の頃。ワルシャワのレストランで働いたあと、通訳の仕事、そして、1997年、アウシュビッツ博物館のガイドの仕事を始められました。

「第二次世界大戦がヨーロッパでは1945年の5月の初旬に終わったんです。その時に生還された方が、アウシュビッツ強制収容所に数千人いらっしゃった。

その生還された方が戻ってきて、収容されていた仲間が殺されたわけで、彼らを追悼する場所を残してほしいということと、こういったことが2度と繰り返されないように保存してほしいということを国に働きかけたんです。

結果として戦後2年、1947年にポーランドの法律で永久保存が決まりました。それで博物館がスタートして、館長も生還者、ガイドも生還者が伝えてきました。

アウシュビッツの博物館にはガイド部以外に歴史を調査する部署、保存部と言いまして、アウシュビッツの遺品なり建物を修復する部署があって、この3つの大きな役割を抱えているんです。」

主にユダヤ人を対象とした強制収容、そして、虐殺。

決して繰り返してはいけない出来事はどんな理由で起こってしまったのか?これは研究者の間でも議論が続いていて、結論が出ていません。ただ、歴史としてはこのような背景がありました。

20年以上にわたり、アウシュビッツ博物館でガイドを務める中谷さん。日本から訪れる方には、どんなお話をされているのでしょうか?

「どうしても戦争の傷痕が大きすぎて、そこに立ちむかえないこと。これを日本人の方には重点的にお伝えしています。私達も同じ時期に戦争を経験しているのでその感情が邪魔をして正面から立ち向かえないタブーな部分、こういったことにつなげてもらうような案内が日本人にはわかりやすい。というのは、こういった歴史を繰り返さないためにどうすればいいか考えやすくなると思います。」

中谷 剛さんに 最後にうかがいました。ガイドの仕事の中で感じること、そして、中谷さんが伝えようとしているのは どんなことなのでしょうか?

「日本でもそうでしょうけど、こうした歴史を伝えていくのはどこの地域でもむずかしいんですよね。それはやっぱり戦争中に傷を負った人もいるでしょうし、宗教感、民族意識もあるでしょうし、だから決して世の中から称賛されている訳ではないんです。

その中でも歴史を伝えていく使命感、これが伝わってきますし、だから、こうした歴史を伝えるむずかしさとその目的、伝えることが何を意味するのか、そこから何が得られるのか、そういったことをいろいろ教えてもらえるので、その学んだことを日本の方に還元すれば、私の役割はそこで果たすことができるかなと思っています。」

アウシュビッツ・ビルケナウ博物館ウェブサイト