昨年11月、こんなニュースが飛び込んできました。『日本フットボールリーグJFLの奈良クラブは 新しい会社を設立。その代表取締役社長に中川政七商店 会長の中川政七さんが就任する。』
日本の工芸を元気にする!という想いのもと 幅広く生活雑貨を扱う 【中川政七商店】を率いてきた方が、サッカーチームの社長に就任。そのHidden Storyをご紹介します。   

日本フットボールリーグ JFLの奈良クラブ。
元 Jリーガーで奈良県ご出身の矢部次郎さんが
2008年に地元のチームを【奈良クラブ】と名称変更。
いま、Jリーグを目指すチームとして活動しています。
そんな奈良クラブに、中川政七さんが関わるようなったきっかけとは?

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「2010年、忘れもしない南アフリカワールドカップの日本初戦、カメルーン戦の日に矢部さんと初めて晩ご飯を食べたんです。もともと僕もサッカーをやっていたんですが、その時は随分サッカーから離れてしまっていました。そんなとき、矢部さんが『奈良クラブで子ども達のサッカー教室をやっているので、遊びに来ませんか?』と言ってくれて、そこに行って子ども達とサッカーをしたんです。そのときに矢部さんから『サッカーでJリーグに上がるだけが目的じゃなくて、奈良の街をよくしていきたいんだ。』という話を聞きました。そのサッカー教室の子どもは小学3年生くらいだったんですが、フットサルが終わったあと、大人達に『ありがとうございました』って挨拶しにくるんです。自分が小3だったら絶対やらなかったなと思ったし、そういうのも矢部さんが志していることの体現だったので、これは面白いなと、手伝おうと思ったんです。矢部さんはそのとき、選手 兼 監督 兼 GM 兼 経営者、という感じでひとり4役くらいやっていたので、それは無理だろうと。経営的なところは多少アドバイスできるといいなと思ってお付き合いが始まりました。」

2011年、中川さんはブランドマネージャーとして奈良クラブに参加し始めます。

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「僕も当時は仕事ががっつりあって、やれることがほとんどないなかで何かやれることはないかな?と思った時に思いついたのが、ユニフォームのデザインだったんです。これが面白くて、みんな速そう、強そうという感じで直線的なんですね。僕らのデザインを分析する視点でみると、ある一カ所にデザインが集まっていて、他は誰もいないという感じだったので、全然違うデザインにすればいいんだと思いました。なので、正倉院におさめられている宝物のデザインをリソースにしながらサッカーチームのユニフォームを作ってみようと思って、初年度は蔦唐草を持って来て作ったんですが、最初は矢部さんはじめ、『え?これ着て戦うの?』という感じ。でも、これが結構評判になりました。2年目はあられ小紋といって、大小の形が違う水玉、それがカラフルに村上隆さんみたいなになったデザインを作ったら大いにバズって、天皇杯で戦った当時のセレッソのクルピ監督が『あのユニフォームがどうしてもほしい』みたいなことになったんです。そこから奈良クラブ=ユニフォームみたいな感じが続いて。」

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奈良クラブにユニフォームのデザインを提供し続けてきた中川さん。
本業の中川政七商店で、中川家の13代、中川政七を襲名。
その後、奈良クラブでさらに大きな一歩を踏み出すことになります。

「2016年に中川政七商店は創業300年を迎え、そのときちょうど上場準備をしていたんですが、結局、それはやめたんです。いろんな一区切りが来たタイミングでもあり、かつ、2016年の襲名披露のときに、僕は『これからは奈良をやります。』と宣言したんですね。『日本の工芸を元気にする!』というヴィジョンを掲げてやっていますが、工芸を生き残らようと思うと、工芸は分業されているので産地という単位で生き残らないと、ある工程がつぶれると産地全部がくずれるんです。みんなが強くならないと残れないから、産地単位で物事を考えようと言い始めていました。それなら、まずは言ってる自分達がやらないと、ということで、奈良という産地をなんとかするんだ、それがここから10年僕がやることだと思って、襲名披露のときに宣言したんです。その辺が重なって、奈良をどうやっていこうかということと、中川政七商店ではある程度道すじをつけられていい後継者もいた、そして奈良クラブが停滞して困っている。そこに、僕が個人的にやりたいキーワード"教育"というのが出てきて、それがごちゃっとタイミングよく混ざって出てきたのが、奈良クラブへの転職、だったんです。矢部さんに、『俺、中川政七商店を一歩退くことになって、まあまあいい経営者だと思うけど、どうかな?』と話したら、もっと喜んでくれるかと思ったのに、わりとあっさり『ああ、いいですね。』みたいな。オファーをもらえたのかどうか分からなくて、『こないだの話、どうなったかな?』と言ったら、『いいと思いますよ』って。(笑)だから押し掛け気味ではあるんですけど、奈良クラブの社長になりました。」

2018年の秋、株式会社 奈良クラブ 設立。
中川さんが最初の社長に就任しました。
『サッカーを変える 人を変える 奈良を変える』
これをヴィジョンに掲げ、新生・奈良クラブが動き始めました。
さらに、中川さんはクラブのGMに、ポルトガルでサッカーのコーチングを学んでいた林舞輝さんを抜擢します。

「GMというのはサッカーチームにおけるサッカー部門のトップなので、事業部長のようなポジションに彼を置いているんですけど、まだ24歳で新卒みたいなものなんですよ。新卒社員をいきなり事業部長に据えるという暴挙みたいな感じです。(笑)彼の経歴が面白くて、高校まで日本にいて、サッカーを教えるコーチングを学ぼうということでイギリスに渡り、イギリスで4年やるなかで学問としてのサッカーの最高峰はイングランドではなくポルトガルだと知って、大学院はポルトガルに行くんですね。そこで学びながら執筆活動するなかで、僕がfootballistaという雑誌で彼の記事を読み、『こいつで間違いない』と文章だけで感じて、ポルトガルまで連絡しました。林君としてはそろそろ日本に帰ろうと、日本のクラブからオファーがあればいいなと思っていたときに中川政七商店からオファーが来たので、『何のオファーだ?モデルか?』と思ったらしいです。(笑)いやいやモデルなんか頼まないわと思いながら、奈良に来てもらって。」

そして、中川さんが新しく始めたことのひとつに、【水曜勉強会】があります。毎週水曜日、選手たちに『学びの場』を提供しているのです。

「Jリーグって選手の平均引退年齢が24、25歳くらいなんです。若くて体力もある、礼儀も正しい選手たちを企業さんにかえす、ということができるんじゃないかなと思ったんですよね。これだけ人がとれない時代、とくに奈良の中小企業は人がとれません。サッカーを学びながら、学びの型を叩き込むことで、それを注入した選手を育てておけば、セカンドキャリアみたいな問題は発生しないと思って。そのための水曜勉強会というのをやっています。サッカーど真ん中じゃないサッカー周辺のこともやっているんです。サッカーだけ学んでいると学びの型が見えてこないので、学びの型が見えてくれば、サッカーもうまくなる、ということです。」

目指すのは、今年JFLで優勝してJ3昇格。
5年以内にJ2、10年以内にJ1であっと言わせること。そんな目標を胸に、奈良クラブの新シーズンが開幕しますが、中川政七さんが、奈良クラブのさらにその先に思い描くのはどんな未来なのでしょうか?

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「もちろん奈良クラブでJ1にいってあっと言わせるということも大事なんですけど、教育が力を発揮するということを分かりやすく伝える場だと思っているので、対象は中学生からおじいちゃんおばあちゃんまで門戸を開いていきたいと考えています。具体的に公認会計士の資格とかそういうことではなく、学びの型を多くの人に伝えていきたい。新しいことをどうやって習得していくかということを伝えていきたいんですよね。例えば将来、めちゃめちゃ美味しいパン屋をやりたいと思った方が出てきたときに、そういうサポートを僕らがして、学びの型も注入して、それが奈良でできていく。そういうのがぽこぽこ起きていく、というのが目指すところです。ちょっと手前みそな言い方ですが、中川政七商店クラスが奈良に50社あったら奈良の町が変わっていくと思うんですよ。今、奈良って世界でそんなに知られてないですが、ちっちゃな都市でも世界に名が響き渡るって起こると思うんですよ。最近だと、ポートランドとか、サンセバスチャン。それは狙って起こせると思うんですよね。世界で『奈良って面白いらしい』と言わせたい。そのときの奈良のテーマは学びだと思っていて、学びの都・奈良として、学都・奈良として世界にとどろく町にする、というのが僕の残りの仕事人生の大きな目標。その第一歩が奈良クラブなんです。」

奈良クラブ ウェブサイト