今回、ご紹介するのはジャズレーベル【澤野工房】。実は、大阪にある 街の履物屋さんが手がけるジャズレーベルです!澤野工房のオーナー、澤野由明さんにお話をうかがいました。

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大阪、通天閣のお膝元にある【さわの履物店】。その4代目、澤野由明さんがお店の仕事を始めたのは1973年のことでした。では、ジャズレーベルを始めるきっかけは、、、?

「私は男ふたり兄弟なんですが、ふたりともジャズが好きなんです。私が大学を出て履物屋をついだのも、当時、世間の大卒初任給が6万円くらいで、『履物屋に就職すると1日に1枚レコードが買えるぞ。』と父に言われて、そっちのほうがええな、と。それで、就職せずに履物屋に入った次第です。近くに大きなレコード屋があったので、お店を閉めた後、毎日1枚ずつレコードを買いに走っていました。でも、長いことそれをやってると、日本で出てる主な名盤とかジャズのレコードは兄弟でほぼ全部買ってしまいまして、買うレコードがなくなったんです。そこから、人の聞いてないもの聞きたいとか、あんなん知らんやろう?というものを知りたいという欲求がふつふつとわいてきまして、当時、まだ弟は大学生だったんですけど、ヨーロッパに派遣して、見たことのないレコード、聞いたことのないジャズを集めさせたんです。商売で稼いだお金でヨーロッパ行きの資金を作っていたんですが、そうしているうちに弟がヨーロッパじゅうの大きなレコード屋さんを全部走破したんです。行くたびに珍しいレコードをダンボールに2箱3箱買って帰ってきて、うちじゅう知らないレコードだらけになるという状況でした。」

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ヨーロッパで仕事をするなか、弟さんはフランスの女性と結婚。これがひとつの転機となります。

「弟は日本のすべてを投げ捨てて、フランスへ嫁さんを追いかけて行ってしまったんです。仕事も繋がりもなく、ヨーロッパで生活する術がなかったんですが、そこでジャズの知識と日本のレコードの知識を強みとして、ヨーロッパじゅうの大きなレコード屋さんに売り込んでいくと、注文が集まってきたんです。それで『兄貴、何とかしてくれ』と言ってきたのが、ジャズのレコードを輸出する仕事を始めるきっかけになりました。うちの兄弟はハマると歯止めがきかなくなるので、とんでもないレコードの買い方をしていて、一時は生活費までつぎ込んだことがあるくらい。その時代のことを話すと、うちじゅう空気が寒くなりますね。」

最初は、ジャズのレコードを輸出するビジネス。でも、それだけにはとどまりませんでした。

「はじめは輸出するだけやったんで、フランスのでっかいFNACという大きなチェーン店とかベルギーとかイギリスのお店に輸出してたんですけど、そのうちに、一方通行じゃおもしろないから、向こうから運んだろかと思ったんです。その矢先に自分が探していたレコードのプロデューサーと弟がレコード店で出会って、『うちの兄貴はずっとあなたの作ったあのレコードが欲しかったんです。でも日本では手に入らないんです。』と伝えてくれて。そしたら、プロデューサーが『ほなら作ったろか』と言いはって、『え、作ってくれんの?』『うん、作ったげるよ』1000枚から作ってくれるという話だったので、『1000枚やったら全部僕とこ売ってくれる?』『いいよ』って。それが澤野工房の最初のきっかけです。」

フレディー・レッド・トリオのアルバム『Under Paris Skies』を皮切りに7枚の復刻盤を制作。さらに、オランダのクリスクロスというジャズレーベルの代理店にもなりますが、ここで、こんな問題が持ち上がります。

「自分とこの資金力のなさと流通経路の確保ができなかったということで、一回在庫の山になって倒産しかけたんです。レーベルを起こす方というのは普通はレコード会社から独立したり、業界のことや流通のことをご存知でやられる方がほとんどだし、多いと思うんですけど、私の場合、レコードの小売りすらやったことのない人間がレコード会社もどきを作ったわけですから、流通が一番難儀な点でした。」

流通経路、という壁にぶつかったとき、かつて六本木にあったCD・レコードショップ『WAVE』から依頼がありヴィンテージレコードのコーナーへの作品提供を担当。これが およそ10年続きました。しかし、六本木ヒルズ建設のため、六本木WAVEが閉店。澤野工房にふたたびピンチがおとずれます。手を差し伸べてくれたのは、ひとりのフランス人でした。

フランス人のデザイナー兼プロデューサーのフィリップ・ギルメッティっていう人に出会って、最初はその方から『復刻するアルバムを日本で売らへんか?』と言われたので、じゃあ一緒にやろかっていうことで、もう最後の最後で、それで打ち止めにしようかなと思っていました。Georges Arvanitasの『3AM』と『カクテルフォースリー』というアルバムの復刻を一緒に手伝ってCD化して、そのとき"澤野工房"というシールを貼ったんですが、バイヤーに聞くと850枚くらい売れたので『よく売れたね』ということだったんですが、1500枚くらいプレスしたので僕としては失敗やったなと。もうこれで終わるかなと思ったんですが、4枚目につくったウラジミール・シャフラノフの『LIVE AT GROOVY』という作品が澤野工房最初のヒット作となって、"澤野工房"の名前が認知されるようになりました。」

澤野工房の作品は、【アトリエ澤野(Atelier Sawano)】の頭文字、A Sというアルファベットと 数字で 番号が振られています。9作品目、AS9番から、スタイルが大きく変わりました。

「ひとつ問題がありまして、それは音源の確保。CDは作って売れるけど、じゃあその次何作るの?っていう不安が常につきまとってまして、『ないからつくらなあかん!』ということになったんです。それで、ついにAS9番、9枚目から初めてアーティストにギャラを払ってレコーディングしてCD化するという作業に入ったんです。最初のアーティストはやっぱりウラジミール・シャフラノフで、スタジオもアーティストもキープしてくれました。で、費用がこれだけ必要やからということで送って、レコーディングしてこっちに音源を送ってくれる、という作業をした最初の作品がASの9番やったんです。それからはレコーディングがメインになりましたね。」

澤野工房は、『広告なし、ストリーミングなし、ベスト盤なし』。最後に、その理由をうかがいました。

広告なし、っていうのは、正直、広告費にまわすお金がなかったからです。ストリーミングなしというのは、私はミュージシャンと一緒に共同作業でアルバムを作っていて、そのアルバム1枚に込めた想いというのは流されたらあかんと、形で残るべきやと思うんですね。コンピレーションは作品のバーゲンセールのような気がして、いいとこばかりの切り集めも、私がレコードを買っていたときの聴き方からするとそうじゃないでしょうと。下駄屋もそうですけど、『残す』という作業が非常に大切にしたいところで、どんな形で残ったらいいのかというと、アルバム単位で残ってくれたら一番嬉しい。これはもう制作者のエゴかもしれませんけど、初めに出た形で残るのが一番美しいと思っています。」

澤野工房

https://www.jazz-sawano.com