J-WAVE「JK RADIO TOKYO UNITED」~Quest For Peace、ここで、「山の手空襲」を経験された、泉宏さんにお話を伺った模様をお送りします。

1945年5月25日の夜から26日の未明にかけて、表参道一帯を含む都心から杉並区あたりまで山の手西部を襲った「山の手空襲」。
464機のB29が大量の焼夷弾を投下、3000人を越える方が亡くなったとされています。この空襲を経験されたのが、泉宏さんです。
今回は、表参道にある山陽堂書店という本屋さんで泉さんに取材させていただきました。

実は、この山陽堂書店、1931年から、今と同じ表参道の交差点近くにありました。鉄筋コンクリートの建物だったので、山の手空襲でも燃えず、多くの方が逃げ込んだ場所でした。

泉さんのお母様も 空襲の日、この本屋さんに入れてもらって助かった、という、、、そんな本屋さんです。1945年当時、15歳だった泉宏さんにお話をうかがいました。
JK:泉さん、おはようございます。
泉:おはようございます。
JK:どうぞよろしくお願いします。
泉:こちらこそ。
JK:1945年、終戦の年。敗戦の年とも言えますけれども。お住まいがこの青山。
泉:そうです。
JK:当時15歳ということは、中学生
泉:そう、中学3年生。
JK:で、実際に空襲があったのが。実は1942年の実は4月にもアメリカ軍空襲がありました。それは覚えてらっしゃいますか。
泉:あのね、あんまり覚えてないんですよ、僕たちはね。
その空襲っての意識したのは、3月10日の下町空襲。
JK:東京大空襲。
泉:そうそう。それがね、ものすごく印象に残って。それからなんですよ。で、その時はね、僕たちは2階の屋根に登ってね、向こう眺めると空が赤く見えた。
で、あれはどこだ。うん。だから、あれは本所深川じゃねえかって、みんなで話して見てたわけ。それが3月10日です。で、5月25日に自分たちがまさか燃えるとは思ってないんで。みんなで見てた。
JK:ただ3月10日の東京大空襲、被害の状況というのは伝わってきたんですか?
泉:伝わってこないんですよ。だから、あの頃、大本営発表っていうのは、勝った話はしても負けた話はしないんですよ。だから、3月10日がどんだけ被害を受けたかっていうのはわかんない。情報としては入ってこない。ただ、噂が来るんです。
いや、要するに相当ひどかったらしいと。相当大勢死んで、あっちは堀割りが多いから。
溺れ死んだ人が多いらしいっちゅう話は聞いた。それで、その時に僕たちはみんな火はたきとかね、それからバケツリレーで水かけて消す訓練を散々してた。あんなものはもう全然通用しないと。し、結局逃げるがさ先だって。それで青山は早めにみんな逃げた。だからこの辺ですと、青山墓地と代々木の練兵場ね。今の代々木公園。あそこが逃げる場所ってみんな意識してて。だから女子どもは早めにね、みんな逃げた。だから、青山は死者が少ないんです。
JK:山手空襲のことを思い起こす、心が痛む思いだとは思うんですけれども、ちょっと振り返っていただいて、その日、空襲警報が発令されました。サイレンが鳴ります。
泉:結局、その父と僕、母と姉と私と4人家に残ってた、兄貴3人は兵隊に行っちゃってましたから。それで、お袋と姉は2人とも女ですから、早めに逃がそうってわけで、青山墓地へ逃げなさいつって、先に逃がして、で、僕と父と残って、焼夷弾が落ちたら消そうっつってたけど、そしたら父が、その、その頃の町会長なんかやってたもんですから、ちょっと見てくると。で、出かけたんですね。
JK:実際の爆撃が始まる前、
泉:空襲警報が出てるけど、まだ爆撃が起きてません。
で、僕1人残ってた。そしたらそのうちに焼夷弾が周りに持ち出したわけですよ。それで僕は父が戻ってくるのを待たずに逃げちゃったんです。それが父との別れなんですよ。普通の焼ける時は、外でみんなただ見てるだけですよね。ところが、空襲の中で逃げ回るってのはどういうことかっていうと、火の中にいるんですよね。その中で逃げるわけですよ。逃げ回るわけだから、僕の場合もそうなんですけど、神宮の参道まで逃げる間に、結局周りの家が燃え尽きるんですよ。そうすると、瞬間的に空間ができる。そうすると、その先行ったらどうなるかわかんなくても、本能的にパーッと突き抜けるんですね。
JK:もう空いているところしか走れない。
泉:そうそう、それが瞬間的にやっちゃうんですよ。だから、もうそこに火があったらアウトですね。それで、それがうまくいっちゃったんでしょうね。
だから、結局、僕、助かった。で、表参道に行ったら、今度表参道からこの代々木公園の方へ向かって逃げようと思って。そしたら、そこへもうトタン板飛んでくるしね。
要するに、風が吹きますからね。それで、消防自動車が走ってたなと思ったら、通りのところまで行ったら、ぽっと止まったと思ったら燃えちゃった。燃えちゃうんですよ。だから、それはね、必ずも直撃じゃないんです。火にあぶられてるからね。
だから、表参道のあそこは、あの広い通りが、今のまんまの広い通りです。あれが、火が吹き渡るんですから。で、煙も行くわけですよ。
ある瞬間、見えなくなる。そう、それが見えた瞬間に、バっと駆け抜けるっていうのが、これ、本能なんでしょうね。
で、それと同じで、僕は結局表参道に逃げたんだけど、代々木公園の方へいけないんで。で、次に考えたのは墓地なんですよ、青山墓地。それで、青山通りへいっぺん出たわけですね。で、通りを今度は外苑前の方へ向かって走ってって、そして右側の倉庫のところで、もうそこまで行ったら立ち往生しちゃって。
で、そこにいたら、中にいた兵隊さんがいて、中に入れつって入れてくれたんです。それは、明け方まで燃えずにいたもんですから。
それで、明け方になったら燃え始めちゃって、外へ出ろって出たのが幸いにして強制疎開の跡地だったんですね。で、そこへみんなで、5、6人いたと思うんですけど、もっといたかもしれない、そこに逃げ込んで、朝まで、それで夜明けが夜明けを待ったわけで、これはね、どう考えたって運としか言いようがないんですよね。それで、帰り道に、今度はこの青山通りなんかに死体がゴロゴロ転がってんですよ。
これ、煙に巻かれてるんです。それで、今度はこの交差点まで来たら、この山陽堂さんと反対の富士銀行のこの前のところは黒い人山、死体の山なんですよ。
うん、もうそんなの見たらね、今度は参道を見たら、やっぱりそういう死体がゴロゴロしてるわけで、それ真っ黒焦げなんですよ。だから親父を探して歩いてね、親父見つけなきゃいけないっていう気持ちはものすごく強くあるんだけど、その反面で見つかんないでほしいっていう。無残な姿で、親父見たくないな、そういう気持ちが出たですね。それは未だにありますね。見つけたい気持ちと見つかってほしくないっていうのと、相反することになってくるんですね。
JK:今、戦争が終わって80年、戦争のこと、肌の記憶がある皆さんは人口の10人に1人もいないという状況です。知らない世代の皆さんが圧倒的に多い。そういう皆さんに向けて、どのようなメッセージがありますか?
泉:あのね、それはね、僕、つくづく思うのはね、この日本が今、戦争しないで80年。こんな貴重なことはないんですよね。僕の世代っていうのは。僕は昭和5年生まれですけど、その、その、僕が小学校卒業したのが昭和18年ですよね。ずっと戦争なんですよね。20年まで戦争でしょ。だから僕たちは戦争の中で生まれ育った。だから平和憲法のことまで言う人がいますね。あれはアメリカから与えられた、与えられたってなんだっていいんだと。あんなにいい憲法ないんじゃないかと。戦争放棄なんですからね。
それとも、うちも忘れちゃいけないのは、僕ら上野で、地下道だとか有楽町のガード下で戦争孤児のこといっぱい見てきてるわけですよ。戦争孤児ってかわいそうですよね。で、学童疎開ってあの頃言葉があったでしょ。学童疎開っていうのがどんな影響があったかってことがね、誰もね、ニュースとしてみんなわかってないんですよ。僕たちは見てるわけ。っていうのは、青山は比較的学童疎開、青南小学校も全部学童総会しましてね、調布の方へ行ったんですけど、それもだけど、終戦になって帰ってきた。
ところがね、本所深川の方、あっちの方は先ほど話したように被害がすごかったんです。そうすると、その時に学童疎会行っちゃった子供たちが、戦争が終わって帰ってきた時に、親もなければ子供もないんですよ。それが戦争孤児なんです。で、その子たちは、生きるためには食べなきゃなんないすか。かっぱらいもしなきゃなんない。いやおうなしなんですね。で、それがね、だんだん世の中が落ち着いてくると、大人はそれが今度は邪魔になってくるんです。
そうすると、この子たちは、それこそ浮浪児狩りつってね、集めて施設へ突っ込んじゃったりするわけだから、人間ってそういう勝手さがあるわけですね。それを僕たちは見てきてる。だから、戦争孤児の哀れさ、可愛さ、僕たちは何の手も差し伸べなかったんだから、あんまり言えないんだけど、その子たちは見てることだけ見てますからね。
だから、今度の、今のウクライナにしたってガザにしたってあって、この戦争が終わった後のその孤児をどうするかってのは大変な問題なんですよ。そこまでみんな思って見てるかどうかなんですね。そこが僕たちの世代と今の世代の大きな差なんです。
だから、平和っていう言葉はね、言葉だけじゃなくてね、実感としてどういうことなのかってのがね、もっと考えてみたら違ってくるんじゃないかなと。
JK:そうですね。当時15歳で、山の手空襲を経験された泉宏さんにお話を伺った模様をお送りしました。心に残るお話、たくさんありました。
*「戦争しないで80年、こんなに貴重なことはない」。
*憲法についてのコメントもありました。「こんなにいい憲法はない、戦争放棄なんだから」。そう、憲法では、永久に放棄する、と書かれています。
泉宏さんは、「山の手空襲を語りつぐ集い 実行委員会」という市民団体の活動にも参加されています。毎年5月25日に、表参道の慰霊碑で献花をされたり、今年は、港区と共催で、集いも開催されました。

~来年以降の「集い」については、また開催時期が近くなったら発表される、ということ。そして、献花の催しは、毎年5月25日に予定されています。
→空襲を語り継ぐ活動、
番組でも引き続き、注目していきたいと思います。取材にご協力いただきました、泉宏さん、表参道・山陽道書店の皆さん、そして、「山の手空襲を語りつぐ集い 実行委員会」の皆さん、ありがとうございました。