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やっぱり60年代は僕らの黄金時代ですね。

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PROFILE
 
 
  中平穂積 - ジャズ喫茶「DUG」元オーナー、写真家 -
1936年和歌山県生まれ。日本大学芸術学部写真学科卒業後、25歳で新宿にジャズ喫茶「DIG」をオープン、その後も「DUG」「new DUG」とジャズ喫茶やジャズバーの経営に携わり、約半世紀に渡り、日本のジャズシーンを根底で支え続けている。日本におけるジャズ写真家の第一人者でもあり、26歳の時には日本で初めてジャズアーティストの写真展を開催。代表作は、ジョン・コルトレーン、マイルス・デイビス、アート・ブレイキーといった大御所ジャズメンに密着した写真集「JAZZ GIANTS」。昨年、長男の塁さんにジャズ喫茶「DUG」を譲った。
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短めの細いズボンにブーツを履いて、ちょっと背を丸めてたリー・モーガンが格好良くって、身体が震えましたね。(中平)

中平さんはいつ頃、どういう風にジャズと出会ったんですか?

定かではないんですけど、中学の頃です。僕の田舎は和歌山のすごい山の中だから、テレビも映画もなくて、ラジオのジャズを流しているのがあったので、それこでしょうね。その後、町の高校に通うには下宿しなくちゃいけなくて、それで親戚の家に下宿して高校に通うようになったんです。

なるほど。

そこの伯父が学校の先生をしていて、映画やクラシック音楽が好きで、だからクラシックの音楽を聴かせてもらったり、高校生では観られないような映画に連れて行ってもらったり、一緒について行ってね(笑)。あるとき『グレンミラー物語』が丁度封切られて、それを観て僕は…。

痺れちゃった?

ええ。その中にルイ・アームストロングですとか、ジン・クルーパーの出てくるジャズクラブのシーンがあってね、もちろん映画は素晴らしくて、それでもうすっかりジャズの虜になって、まだ本当に薄っぺらなスイング・ジャーナルを取り寄せて、見ているうちに、これはやっぱり東京に出たいなと思うようになって。高校の時に写真部にいたもんですから、それで大学は東京に出て、写真の大学に行きたいなと思い出したんですね。

なるほど。そこで写真とジャズが結びついて、まさに中平さんの人生そのものになっていく、ということですね。東京に出て、日大の芸術学部写真学科に進学されて、カメラのお勉強をされて、大好きだったジャズを追いかけたわけですが、初めて撮影されたミュージシャンは誰だったんですか?

1961年の1月、アート・ブレイキー・アンド・ザ・ジャズ・メッセンジャーズが初来日した時です。

初来日した時ですか!

それまでにはベニー・グッドマンですとか、1950年代前半にはJATP(ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック)でオスカー・ピーターソンなんかは来日してますけど、その頃はもちろん僕は見ていないし、僕が東京に来てから、いわゆるモダンジャズのグループで最初に日本に来たのはアート・ブレイキーのバンドだと思うんですね。それは3日間ぐらいあったと思うんですが、もちろん全部チケットを買って、最前列で。

最前列で!

ええ。それでその時に、まだその頃、僕はジャズ喫茶も始めてなかったんですが、どうしても写真を撮りたいと思って、呼び屋さんにちゃんと許可をもらって撮りました。

初めて見て、いかがでしたか?

緞帳が上がると、アート・ブレイキーのメンバーがざっと勢揃いしているわけですね。で、アート・ブレイキーはもちろんのことだけど、リー・モーガンとか、ウェイン・ショーターとか、ボビー・ティモンズとかもう本当に有名な人ばかりですよね。それでまたそのスーツが格好良くって、短めの細いズボンにブーツを履いて、それでちょっと背を丸めてたリー・モーガンが格好良くって、身体が震えましたね。

うん。

それで、どんどん涙が出てきて、もうとにかく嬉しさと感動で、写真が撮れないんですね。汗は出てくるしね。そういうのを未だに覚えていますね。

あ〜、凄いお話。写真を撮るつもりで最前列に居るにもかかわらず、演奏にしてやられて写真を撮るのを忘れちゃう?

いや、撮りましたけどね、やっぱりもう酷い出来でした(笑)。

そうですか(笑)。


ジャズ喫茶に毎日通うと店に対する不満がいろいろ出てきて、やっぱり理想的なジャズ喫茶は自分でやるしかないなと思うようになりました。(中平)

中平さんがジャズ喫茶『ディグ』をオープンされるきっかけというのはどういうことだったんですか?

東京に来た時に大学に入るのも一つの目的なんですが、ジャズ喫茶に行ってジャズを聴くというのがかなり大きな目的だったんですね。それで、たまたま大学の最初の日に隣に座った田中君と「趣味は何だ」って話になって「映画を観たり、ジャズを東京で聴きたい」と言ったら「俺はジャズ喫茶をよく知ってる」と言ったんですね。その日の学校の帰りに、池袋の『パンセ』っていうジャズ喫茶があったんですけど、そこに連れて行ってもらったのが最初に行った東京のジャズ喫茶ですね。

しかし、ジャズ喫茶に行って聴くという立場と、ジャズ喫茶を経営するという立場は随分違うと思うんですが(笑)?

ええ。それで大学に通いながら毎日のようにジャズ喫茶と映画と、それから落語が好きで寄席通いですね。まあ学校はあまり行かなかったもんですから留年して。特に5年生の時は全然暇で、ほんの少しだけ落した単位を取るだけですから。もう毎日のようにジャズ喫茶に行っていて。ところが毎日ジャズ喫茶に行っていると、色々と店に対する不満が出てくるんですね。

なるほど(笑)。僕だったらこうする!と。

そうそう。それでまず、すごく高いコーヒー代なのに、サービスが悪くて「聴かしてやる」という雰囲気があるでしょ。そのくせコーヒーが不味い。レコードは揃ってない。音も、今思うとただでかいだけで、良くない。まあ昔はこんな事は言えませんでしたけどね(笑)。ジャズ喫茶の大先輩に対して失礼だから。でも僕はその当時そう思ったんですよ。

はい(笑)。

それで、やっぱり理想的なジャズ喫茶は自分でやるしかないなと思って、親父にその事を話したんですけど、なんせ田舎ですから、うちの親父なんかは喫茶店すら知らない。それで、親父が「わかった、そんなに言うんだったら東京までジャズ喫茶というものを見に行く」と言いまして。というのも「僕が大金を貸してくれ」と親父に頼んだもんですから、返って来るかわからないような金をおいそれとは貸せないわけですよね。で、東京に来てくれたんです。

うん。

で、東京で有名な、まあ新宿の『木馬』とか『ポニー』とかその当時、僕がよく通っていた店に案内して、そこのオーナーには「田舎から親父が出てくるからよろしく!」と根回しをしておいて(笑)。そうしたら親父は何だか知らないけど痛く感心して…。

ほう。

というのは、お客さんはいっぱいなんだけど物音ひとつ立てず、皆勉強するように聴いているでしょ。それで、「これをやりたいんです」って言ったら親父が「分かった」ってことで「必ず僕は返すから。万が一ジャズ喫茶がうまくいかなくても、必ず写真の仕事には将来戻るから、少なくとも3〜5年はジャズ喫茶をやってみたい」と、親父を説得してお金を借りたんです。


ほとんど僕らはギャラを払わない。本当にいい時代でしたし、アメリカでも本来、ジャズってそういうものだったんでしょうね。(中平)

中平さんの写真の被写体にもなっているジャズの巨人達がお店にも来られていますが、例えばセロニアス・モンクはどんな方ですか?

僕はセロニアス・モンクが大好きでね、来日した1963年には写真を撮らせてもらったり、楽屋まで押し掛けてレコードにサインしてもらったりしたんです。ある本によると彼は気難しいと聞くので僕らもすごく気を遣ってビクビクしていたんですが、実はものすごく静かで凄くシャイなんです。でも徐々にポツッポツッと話してくれて、写真を撮ったら翌日には現像してあげたり、お土産をあげているうちに親しくさせて頂いたんです。2度目に来日した時にはすっかり心を許してくれましたね。

素敵ですね。40年以上という長い間ジャズ喫茶にいらして沢山の物語があるかと思いますが、最も思い出深い時期・時代はどのくらいですか?

やっぱり60年代は僕らの黄金時代ですね。僕らが知ったのは61年のアート・ブレイキーからでしょうね。その頃はジョン・コルトレーン、マイルス・デイビス、セロニアス・モンク、ソニー・ロリンズ、チャーリー・ミンガス、ビル・エバンズとジャズの巨人達の全盛期だったんですよね。

音楽そのものが生まれた時代ですもんね。

セシル・テイラーや、オーネット・コールマンやエリック・ドルフィだとか新しい風を吹き込むミュージシャンが出てきたし、凄く幸せな60年代だったと思います。

お店では、レコードやCDを聞かせるだけではなく、ライブやライブ・レコーディングもされていたそうですが?

ええ、67年に紀伊国屋の裏にもう1店舗『ダグ』を開店したんです。その頃の65年に、ちょうど近くにライブハウスの『ピットイン』ができたんです。ピットインで毎日ライブをしていて、ライブが終わるとミュージシャンが、店が近いということで遊びに来るようになったんです。

なるほど。

山下洋輔さんや日野賢二さんなんかもいらしてくれました。その内に「ここでもやりたいなぁ」ということになり、アップライトのピアノを買ったんです。渡辺貞夫さんや日野さんや、アメリカから来るミュージシャンがライブをしてくれるんですが、ほとんど僕らはギャラを払わない。今では考えられないけど、夜11時〜朝4時くらいまでいて2000円〜3000円をタクシー代として渡すくらいの感覚ですね。

素晴らしい(笑)。

本当にいい時代でしたし、アメリカでもそうだと思いますけど本来、ジャズってそういうものだったんでしょうね。


予想を遥かに超えた規模で、ニューポート・ジャズ・フェスティバルは本当に素晴らしかった。(中平)

中平さんにとって初めての海外旅行はいつ頃ですか?

1966年に旅行代理店がニューポート・ジャズ・フェスティバルのツアーを募集していたんですよ。フェスティバルのラインナップを見ていたら、その中にジョン・コルトレーンがいたんです。僕はどうしても見たくて、ツアーじゃないと当時海外旅行へなかなか行けなかったので申し込んだら、僕を含め3人だけだったんです。結局3人で行きました(笑)。

渋いですね。でも今でこそ様々なフェスティバルへ行かれていますが、当時のフェスティバルは珍しかったのではないですか?

1958年に有名なバート・スターンというスチールカメラマンが16ミリの『真夏の夜のジャズ』という映画を撮ったんですね。僕らは何十回と観ましたけれど、僕らはそれに憧れていつか行ってみたいとずっと思っていたんですよ。その影響もあってジャズの写真を撮るようになったし、僕は8ミリカメラを持って行きました。

なるほど。しかし、初めて体験したニューポートはどうでしたか?

予想を遥かに超えた規模で、どこの街角にもポスターが貼られていたり、初日にはオープンカーで演奏しながら街を走っているんです。今でも思いますが、ロードアイランド州のニューポート・ジャズ・フェスティバルは本当に素晴らしかった。

そうなんですか。

僕は持って行った8ミリカメラでコルトレーンを撮ったり、ケニー・バレルやデクスター・ゴードン、そしてフェスの風景を撮っていました。その当時全国のジャズ喫茶のオーナー達がそのフィルムを観たいと言って北海道から九州まで8ミリの機械を持って行きましたよ。

ツアーですね(笑)。

「貸してくれ」と言われたけど、当時はオリジナル1本しかなくて貸すわけにいかないので、全国まわりましたね。でも音は入ってないので、テープを回しながらレコードをかけて活弁ですね。

なるほど。そして以前、来日したセロニアス・モンクが、彼にプレゼントしたオルゴールの曲を演奏してくれたとか?

それが66年の5月なんですよ。セロニアス・モンクが2度目の来日をした時に、宿泊していたホテルを訪ねて行って『荒城の月』という曲が入ったオルゴールの時計をプレゼントしたんです。その頃アンティーク時計に凝っていて、荒城の月がモンクにピッタリだと思い、選んだんです。そうしたらニューポートへ行ったときに、モンクの奥さんが「中平の為に1曲演奏するらしいよ」と言っていたんですが、まさか荒城の月だと思っていなかったんです。演奏が始まったら涙、涙でね。

それはやられちゃいますね。

本当に大感動ですね。その年の秋に『ストレート・ノーチェイサー』というアルバムが出たんですが、それのLP版のB 面の1曲目に『ジャパニーズフォークソング』という曲が入っていて、なんだろう?と思ったらそれが『荒城の月』だったんです。


アメリカのヴィレッジバンガードでは皆静かに聴いているんだけど、パリでは演奏中に踊ったりしたんですよ(笑)。(中平)

初めてのヨーロッパへの旅というのはいつになるんですか?

それはね、1966年に初めてアメリカに行った時なんだけど、僕はその当時、今思うとおかしいんだけど「外国にはひょっとしたら、、もう来れないかもしれない」と思ったんですね。だからこの際ヨーロッパをまわっておきたいなと思って。でも、もちろんお金はなかったんで、その時4台持って行ったカメラの2台を売りました。当時ニコンはまだアメリカで売ってなかったので、新しいニコンを2台売り飛ばしたんですよ。

(笑)。

それでお金をつくって、約2週間ヨーロッパを旅行できるお金を作って、ニューヨークの旅行代理店でチケットを世界一周のチケットに替えてもらって。僕はジャズフェスティバルが終わってから10日間くらいニューヨークにいて、だいたいジャズクラブも全部見尽くして、それでヨーロッパに独りで行ったんですね。今思うと無鉄砲だったなと思うのが、お金も大して無いし、言葉も片言の英語くらいで、それで最初に行ったのがローマなんですよ。

ははぁ(笑)。それはもう「なぜ?」とかではないですね。たまたまローマだったんですね。

ローマ、それからミラノ、それとロンドン、そしてパリ、それからストックホルム、コペンハーゲン…。

随分と足を伸ばされましたね。アメリカのジャズクラブとヨーロッパのとはやっぱり違いは顕著にありましたか?

全然と言っていいくらい違いますね。アメリカはその当時はヴィレッジバンガードが一番に有名でしたけど、あとはそんなに大きいクラブはもちろん無いんですけども、ヴィレッジバンガードが一番大きくて有名ですよね。で、ヴィレッジバンガードっていうのはジャズ喫茶で言えばもうディグみたいな所で皆静かに聴いているんですよ。他の所は意外と皆酒を飲んだりして、お話したりしているんですけどね。

はい。

パリのジャズクラブなんかに行くと、その頃パリのブルーノート、昔バット・パウエルがやっていたブルーノートなんですけどね、そこにはケニー・クラークがフランスのミュージシャンと一緒に出ていたんですよ。すると、演奏中に踊ったりしたんですよね、ジルバとかを(笑)。

そうなんですか(笑)。

ケニー・クラーク・トリオがやってるのに踊るなよって感じ(笑)。

随分とジャズの楽しみ方が違うということなんですね。

もちろん、全然聴いていないわけじゃないんでしょうけどね。ちょっとアップテンポな曲になったりすると踊ったりするんですよね。

なるほど。さて最後に、中平さんにとっての旅というと、どんなものになるんですか?

やっぱり仕事柄というか、東京にいるとどうしても店の事を考えたり、いろんな事が頭から離れないでしょ。いったん外国に出るとね、東京を離れて仕事から解放されるんで、僕は何よりも外国に行く時だけが自分の休暇だと思っているから、アメリカでもヨーロッパでも同じなんですけど。でも旅先に行くとけっこう昼間はうろうろして、夜は朝まで遊んでいるから休養にはならないんですけどね(笑)。

ただ、気分としては解放されてますね。

そうです。ストレスから解放されますね。

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CITY INFO

ON AIR LIST
MOANIN’/ART BLAKEY AND THE JAZZ MESSENGERS
DIG/MILES DAVIS FEAT. SONNY ROLLINS
ALONE, ALONE AND ALONE/日野皓正
BORN TO SMILE/葉加瀬太郎
JAPANESE FOLK SONG/THELONIOUS MONK
IT’S EASY TO REMEMBER/JOHN COLTRANE


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