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“日本の人がここまでスペインを理解してくれた”という批評を頂きました。

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PROFILE
 
 
 小松原庸子 - フラメンコダンサー -
東京生まれ。邦楽の常磐津勝蔵の長女として東京・柳橋に生まれる。幼少より日本舞踊やクラシックバレエに親しみ、俳優座を経て女優に。1959年にフラメンコと出会い、単身スペインへ留学。ラファエル・デ・コルドバ舞踊団などで活躍する。帰国後、小松原庸子スペイン舞踊団を結成。国内のみならず海外でも輝かしい成功を収める。現在は新しい作品の創作活動、後進への指導に力を注いでいる。2004年、フラメンコ界の先駆者の1人であり、文化面で貢献している著名人に対する日本政府の表彰“旭日小綬章”を受章した。
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ピラルのオーラが舞台中にいっぱいで魅せられて!(小松原)

小松原さんのお父様は邦楽の常磐津勝蔵さん。そしてお兄様が俳優の菅原謙次さん。もう小さい頃から日本舞踊だとか三味線とか、さらにクラッシックバレエもずっと続けてていたそうですけど、そういう中でどうしてフラメンコに出会ったんですか? 

比較的遅いんですよ、始めたのも30歳に近い頃でした。もともとバレエをやって演劇をやってと、とても演劇的な要素と舞踊的な要素に慣れ親しんでましたしね。それに私、絵描きと結婚していたんです。彼もすごくスペインが好きで、それでピラルを見たときに「これだ!」と思っちゃったんですよ。ちょうど60年安保の頃で、皆さんはまだ産まれていなかったと思うんですけど…。

そうですね。僕は68年の生まれなので。

私たちはデモばかり行っていて”もっと芝居したいな”とか、“踊りたいな”と思っていたんです。その時にピラルが来たんです。

ピラル・ロペスという方はどのような人だったんですか?

皆さんが知ってると思うのはアントニオ・ガデスとか、錚々たる男性舞踊師は殆どこの舞踊団で育っているんです。アルヘンティーナという方の従兄弟なんですけどね。スペインで本格的なスペイン舞踊を始めた草分けの方で、今では九十何歳なんですけどご健在で、この間おめにかかってきました。今の踊りを嘆いてましたよ(笑)。

ピラルさんの舞台をご覧になったのは東京ですか?

サンケイホールという会場だったんですけど。まだその頃“スペイン舞踊”なんてあまりなかったですから空いてましたね。確か5日間くらいあったと思うんですけど毎日通いました。

その時の衝撃はかなり大きかったですか?

バレエをやってる頃から白鳥とかが出てくる、ああいうキャラクターのダンスが好きだったんですよ。そこへ初めて本格的なのを見て感動というか、ひしひしと彼らの熱気というか情熱が伝わってきました。彼女のオーラが舞台中にいっぱいで魅せられて!

今でこそフラメンコって東京の中でもたくさん見ることできるし、日本人でもやってる方たくさんいますね。でも当時スペインに渡るということは、今の時代にふっと行くような感覚ではないですよね。

そうですね。でも私は比較的物怖じしないというか、「やりたい!」と思うとわき目も振らないんですよね(笑)。だから何にも抵抗を感じなかったですね。ただ当時は外貨があまり使えなくて全部ドルだったんですよね。だからドルを持っていくのが大変でした。



エンリケ先生がパッと立った瞬間は目に焼きついています。(小松原)

小松原さんの歴史を語る上では欠かせない人物が、フラメンコの真髄を教えてくれたというエンリケ・エル・コホ先生。このエンリケ先生とはどのようにして出会ったんですか?

私、マドリッドにいたんですよね。その頃スペイン各地の民族舞踊とフラメンコと、クラシック・エスパニオールというスペイン舞踊のクラシックの三つを習っていたんです。フラメンコは一生懸命やっていたけど、“アンダルシアのセビリアという所にエンリケ・エル・コホという名人がいる。足が悪くて、太ってて、耳が遠くて、でも舞台に出るとすごい”という話を聞きまして。「そんなことありえない!」と(笑)。“いくらフラメンコが庶民から出た踊りだとしてもありえない”と思ったけど、とりあえず見てみようと思ってトランク一つ持ってセビリアに行ったんです。

とりあえず見に行こうと!

私、ムリリョという画家が好きで、“ホテルムリリョ”というホテルに泊まったんですよ。その地下がフラメンコをやっている所で、タブラーオっていうんですけど、そこにエンリケ先生が出てるっていうんですよ。もう忘れもしないですけど、今はもうなくなったムリリョホテルっていうのはキーホルダーがパレットなんです。小さなパレットにいろんな色がついていて。で、夜はエンリケ・エル・コホが出るっていうんですよ。こんなことってあるかしらと思って。

へぇ…!

夜、まだ誰もいない時に一人で地下に降りていったら、変なおっちゃんが壁の隅っこでワインを飲んでいるんですよ。まさかそれが先生だとは思わない。そのうち人が入ってきて、クワドロ・フラメンコと言って大勢のきれいな女の人が騒いで踊る場面がありまして、それがすっと引っ込んで歌とギターだけになったんです。するとさっきのおじさんがやおら立ち上がって。

ワインを飲んでたおじさんが(笑)。

足を引き引き階段を上がってきたんです。「あっ!」と思ったんですね。

「彼だ!」と。

そしてギターが鳴って歌が聴こえて、ヤマーダという「バンバンバン」と音を出して呼ぶ合図があるんですけど、悪い方の足でバンと床を叩かれたんですよ。それでパッと立ったら、腕なんて本当に短いのに、こちらがハッとしちゃったんです。その瞬間は目に焼きついていますね。あの姿だけは本当に驚いて忘れられないんです。

ふ〜ん。

それまでは男や女の踊り手たちが、ものすごい足さばきや振りをやっているのに彼はそんなことはしない。要所要所だけピッピッって止まるんですよ。その度に総毛立つような思いで、魅入って…。

全然違うオーラがあったんでしょうね。

私たちがやっているのはただお稽古した踊りで、彼が踊っているのは生きている踊りそのもの。すぐその先生のところに行って「弟子入りしたい」と言ったら「明日いらっしゃい」と言ってくださって、それから毎日先生との生活が始まったんですよ。



リズムがあっていて心がこもっていれば先生は何も言わない。(小松原)
“ソウル”を教わったんですね。(葉加瀬)

どういう風にレッスンは進んでいくんですか? ずっと一緒に住むような形ですか?

先生は立って教えないんです。小さな机があって、そこに座ってリズムだけのギターを弾くんです。難しいファセダとか弾かないでリズムだけを刻みます。パロという棒があるんですが、それでリズムを教えてくれるんです。それを置くと今度は立ち上がって、先生が自分で歌いながら踊るんですよ。先生は終わるとすぐに座って、私たちは今やったことをすぐにやらなくちゃならない。でもそれが先生の通りじゃなくても全然怒られない。だから私はひたすら一時間とかお月謝を払って、自分は全然踊らないで歌とかギターの人にお願いして先生の気分を良くして、踊っているのを見るだけ。

「それを盗め」というものですね。

「イチ、ニ、サン」とかじゃないんですよ。毎回違うことをする。私たちが違うことをやってもフラメンコのリズムがあっていて心がこもっていれば先生は何も言わない。もう門前市をなしてました。小さなお稽古場なんですけど、みんなが待っているところがないんです。スペインはあまり雨は降らないですけど、皆さん外で待っている。で、順番にレッスンを受けて。

その後はずっとエンリケ先生の所で学ばれて?

そうですね。ただやはり踊りにはテクニックが必要ですから、それはマドリッドで一生懸命習って、1年ちょっとテクニックをやった後だったんですよね。

じゃあマドリッドでテクニックを学ばれて、セビリアでエンリケ先生からは“ソウル”を教えていただいた。

そうですね。本当にソウルですね。先生は9歳のときに足に大きな腫れ物が出来て、「もう踊れない」と言われたのをお母さんが毎日看病して。その溜まったものをお母さんが吸いとっていたんです。それで「もう辞めろ」と言われたのに、自分はどうしても踊りを辞められなくて続けていた。

すごいですね。今、旅行者がスペインに行ってフラメンコに触れるとか、見たいという場合はどこに行けばいいですか?

やっぱりセビリアですね。スペインでもこの頃は一流の人は観光客の前でやらないんです。みんなフェスティバルとかで。でもいつも仕事があるわけじゃないので、やっぱりアーティストは生活が大変なんですよ。踊りをやる人が一番経済的には恵まれないと言いますけど、フラメンコもそうで。劇場などがない時は、やっぱり食べる為にどこででも声がかかれば踊るんですね。そういう時に出くわすと、時々すごく良いダンサーが出てきます。

それを見極めるのはそう簡単なことではなさそうですね(笑)。

そうですね。でも私がデビューしたセビリアのロス・ガリオスとかはそんなに下手な人は出ていないですから、私が一番勧めるのはそこですね。自分がデビューしたからっていうんじゃないですけど。でも酷い所は酷いですよ。「これが踊り?」という嫌な気分になる所もあります。



ゴヤの影の部分を知って、表現したくなった。(小松原)

スペインから帰国し、1969年に『小松原庸子スペイン舞踊団』を結成。それ以降は国内の公演はもちろん、1984年には外国のスペイン舞踊団としては初めてという“スペインでの公演”を成功させましたね。小松原さんにとっては逆に“スペインに凱旋する”といった感じでしょうか?

その前の年の芸術祭で大賞を戴いたんですよ。『ゴヤ、光と影』という作品です。私は作家の堀田善衛先生がすごく好きで、先生の『ゴヤ、光と影』という四部作を読んで、マドリッドにいる時はいつもプラド美術館に行ってゴヤを見てたんですね。私はどちらかというと性格が明るいものですから暗いのが嫌で、ゴヤの明るいレンディーミヤとか人形を彫った有名な絵がありますよね。そんな絵を見て「綺麗だな」なんて思っていたんです。

なるほど。

ところが堀田先生の本を読ませていただいて、ゴヤの影の方、暗い部分を見るようになったんですよ。それで段々と引き込まれていき「私ってゴヤの上っ面しか見ていなかったんだな」と思って。ちょうどその頃は先生がバルセロナに住んでいたので、先生の所に伺って「先生の本を読んで感動したので、私の舞踊作品にしたいと思うんです」と言ったんです。

ええ。

堀田先生はすごく気難しいって聞いていたんですね。特に奥様と話すのは要注意って言われてて、ドキドキしながら先生の家に行ったんです。でも自分で言うのも変ですけど、私は人に好かれやすいんですよ(笑)。だからすぐに先生の懐に入っちゃったんですね。「いいよ、やんなさい。だけどゴヤって男だろ。どうするんだ?」と言われて。

確かにそうですね。

考えましたね。「“美”というのは、ただ美しいものだけが美じゃない」と先生は言ったんです。「“美”というものの中に隠されたドロドロしたものや苦しみを表現しないなら、この『ゴヤ、光と影』という作品のタイトルはあげられない」と言われまして。私はずっと考えましたね。私が男だったらゴヤをやりたかったけど女だから…と。

うん。

それじゃあまず、ゴヤの絵から抜け出たような美しい踊りをやって、それからゴヤが段々変わっていく様子を、私は芝居をやっていたから演劇的に捉えようと。5月3日の処刑になるまでの有名な過程をドラマティックに描いてみようと思って。台本を作って先生のところに持っていったら「いいんじゃない」って先生が言ってくださってね。

でもそういう創作フラメンコというものは当時あったんですか? ないでしょう?

なかったですね。だから“一万何千キロ離れた日本の人がここまでスペインを理解して公演してくれた”って。…自分で言うと恥ずかしいんですが、“繊細で、スペイン語も理解している。逆にスペイン人がこれを見て勉強しなきゃ”という批評も頂いてね。

すごいですね!!

その時、マドリッドの市立劇場のディレクターが見に来ていて「うちの劇場でやれ」と言ってくれたんです。そこは800人くらいしか入らない小さい劇場だけど、マドリッドでは一番良い所なんですよ。そして翌年、そこで2週間の公演をしました。



スペインって普通の国と違うから、すごいものが出てくる。(小松原)

今年の3月の公演、これは35周年記念ということですね。

去年から1年間かけて35周年記念という公演をやっていて、これが最後なんですよ。当時から思えば、うちの舞踊団の人も相当技術的にも変化しましたしね。それに私がやった“着衣のマハ”や“アルバ公爵”等は若い人に譲って、私は5月3日の処刑のシーンだけ出ようと思って。

なるほど。

振り付けももちろん、その当時としてはきちっとやっていましたけど、テクニックも向上していますので、新たに振り付けを直しました。昔の匂いを消さないまま、新たにスペインの国立舞踊団の一番の舞踊師、マリベル・ガジャルドさんという方を迎えて手直しをしてもらったんです。リニューアルして良い作品にしたいと思っているんですよ。

リニューアルしてどんどん良い作品になっていくっていうのは、また良いことですね。一つの作品が蘇っていくというのは。

私は随分多くの作品をやったけど、あまり再演ってしていないんです。だから“今やらなくちゃならないものもあるな”と思ってね。日本もこんな時代になっているでしょ? だからゴヤによって1800年代にあの様に描かれた絵というのを、また新たに見直してもいいのかなって。

今では日本の中でのフラメンコ人口もそうですし、フラメンコに対する見方も全然違うと思うんですよね。そんな中でこれからの小松原さんの夢はどんなことですか?

以前の様に“自分で演出して振り付けして踊っている”だけではいけないですよね。また歳も取ってきましたから、私は作品を作るということに重点を置いて。で、今スペインでも非常に問題になっているんですが…ある一派は“フラメンコは純粋にフラメンコでいかなくちゃいけない”。一方である人は“モダンにならなくちゃ”とカフカを作品にしてみたり。でもカフカなんて全然わからない人がやってヘンなものを作ったりとか、そういう状況なんです。

なるほど。

だけどそうやって試行錯誤しているうちに、スペインって普通の国と違うから、すごいものが出てくるんじゃないかっと思って。去年、フェスティバルを見に行ったんですよ。イスラエル・ガルバンという男の子のダンサーがいるんですけど、すごいんですよ! 考えられない踊りを踊るんです。もうモダンともフラメンコともつかないんだけど、やはりフラメンコで、とても私たちには考えられないような斬新なアイデア。

どんな踊りなんですか?

たった一人で出てきて『闘牛場の土』という題で闘牛場を表しているんですけど、真っ黒い衣装を着てきて最初は裸足で、靴をはいて段々踊っていくんです。最初「何が始まるのかしら」と思ったのにどんどん引き込まれて。

へぇ…!

シーソーのような椅子がありますよね、それを鉄で作ってあって、それが牛なんですね。そこの上に乗って“打楽器と自分の足と”みたいになる。それから飛び降りて牛に向かっていって、闘牛場にある牛を避けるバレーラというものがあるんですけど、そこにバーンとぶつかっていったり、一人で一時間半。「もうこれはかなわない」と思いましたね。

そこで革命がおきてる?

やっぱり「すごいものが出てきてる」と思いました。だから半端じゃないものがこれから絶対出てくるから、私たちも負けてられない(笑)。

これからも是非是非ご活躍を!

いいものを作っていきたいと思ってます。


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SUNSHINE SHOWER / 葉加瀬太郎
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(I' M FEELING) SO MUCH BETTER / EDWIN MOSES

 

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