今回、ご紹介するのは、アメリカ、ニューヨーク在住のパタンナー、クリエイティブディレクターの大丸隆平さん。

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パタンナーは 一般に、ファッションデザイナーの画を元に型紙を作る仕事ですが、大丸さんの場合は、もっと広く、デザイナーのアイディア、インスピレーションを形にする仕事をされてきました。

たとえば、アレキサンダー・ワン、トム・ブラウン、ジェイソン・ウーなど、世界的なファッションデザイナーの服づくり。また、大丸さんがブランドからの依頼を受け手がけた服は、ミシェル・オバマさん、そして、カマラ・ハリス アメリカ副大統領も着用。さらには、ラッパー トラヴィス・スコットからの依頼も受けるなど、その仕事は高く評価されています。ご自身のブランド「OVERCOAT」のポップアップストアのため一時帰国された 大丸隆平さんにお話をうかがいました。

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福岡県ご出身の大丸隆平さん。まずは、ものづくりを志す 最初のきっかけを教えていただきました。  

「僕も中学生くらいまでは勉強ばっかりさせられていて福岡の進学校みたいなところに入ったんですけど、すごく違和感があったんです。今になって思えば、そのころの勉強って、インプットばかりなんですよね。国語算数理科社会って。そんなことを思っているときにうちの祖父が亡くなりました。彼は家具職人なんですけど、急に死んじゃったから遺影を置く台がないって、ばあちゃんが探すんですよ。『隆平も探して』と言われて探したら、奥の方からおばあちゃんが『あったあった』と持ってきたのがちょうどいい高さの台で、『これいいね』となったんですけど、『これなんなの?』と聞いたら、『これ、おじいちゃんが一番最初に作った勉強机たい』と言われて。勉強机、彼が15歳の時に最初に作った机に自分の遺影がのって、みんなが線香をあげている、という事実がすごくしっくりきたというか、すごく自分の中で面白いなと思ったんですよね。ものづくりは生きた証でもあるし、自分より長く生きるって面白いなと思って。」

10代半ば、ものづくりの魅力を知った大丸さん、最初は本を買ってきて、それを見ながら 服作りを始めました。そんな中、紹介を受け、大丸さんは地元の洋裁教室の門をたたきます。

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「福岡の主婦向けにやっている洋裁教室があって、たまたま行ったらおばあちゃんがすごくいい人だったんですよね。僕は当時、パンクというかすごく不思議な格好をしていて、髪は真っ赤で、眉毛はなくて、ピンク色の軍ジャケ着て、背中に自分で絵を描いて、筆で蠅って書いて、ペイズリーのパンツに地下足袋履いてたんですよ。(笑)そんな子が急に洋裁教室のおばあちゃんのところに『こんにちは』って来たらおばあちゃんが『すごくおしゃれな人が来た』と褒めてくれて。彼女ほんとにいい人で、隆平君が好きな音楽を一緒に聞いてやろうと言って、僕は初期パンクが好きだからパンク聴きながら、No FunとかNo Futureとか言いながら服を作ってて。おばあちゃんは女性的な人だから俺が疲れてきたら、近所の川に花を摘みに行こうと言われて、めちゃめちゃゴリゴリのパンクの子がおばあちゃんと一緒に花を詰むということもやってましたね。(笑)それが楽しかったんですよね。」

洋裁教室の先生、お名前は杉野ルリ子さんという方で、すでにお亡くなりになっているそうですが、大丸さんが 生前の杉野さんと 最後に交わした会話についてもお話いただきました。東京の専門学校で学んだ大丸さんが就職の試験を受け、その結果を待ちながら杉野先生に電話をした時のこと、、、

「最終面接を受けて、帰ってきてすぐ電話したら先生が『おめでとう』って言うんです。『まだ受かってないのに早いですよ』と言ったら『でも本当に今日は嬉しい、コップを用意しているから乾杯しよう』と言われて。『隆平君は今まで続けられなかった、高校やめちゃったり続けられなかったけど、最後までちゃんとやり遂げられたのが嬉しいから乾杯に値します』と言われて、先生と乾杯して終わったんです。それから2ヶ月くらい合否が出なかったんですが、さすがに先生心配しているだろうなと思って電話したら、いつもは先生しか住んでない家なんですが、親戚の人が出て、『今先生電話出れないんだよ』と言われて。10分後くらいにまたその人から電話がかかってきて、『先生は今亡くなった』と言われて。それがもう俺は、えっ、となって、、、先生と乾杯したのが最後の言葉だったんですよね。」

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「継続することが大切だ」、杉野ルリ子先生の言葉を胸に大丸隆平さんはこれまで仕事を続けてきました。日本を代表するブランドのパタンナーとして東京でキャリアをスタート。その後、ニューヨークに渡ることになります。

「ニューヨークの会社に誘われて行ったんですけど、『裸一貫で来てくれ』って言われて、調子に乗って裸一貫で行ったら、なんか"I'm sorry、I can not work with you"『一緒に働けない』って言われて、『なんで?』と聞いたら、『テロのあと移民法が厳しくなって、ビザが下りない』と弁護士に言われて。しょうがないからブルックリンのアジア人四人くらいの蛸部屋みたいなところに転がり込んで、ニューヨーク生活をスタートしたのが今から15年ほど前なんです。そこにデザイナーの卵みたいな子がいて、洋服を作ってくれと言われて最初作っていたんです。そうすると、日本ではまあまあがっつりやってたんで、びっくりされるんです。ブルックリンのこんなゲットーにいる日本人が完成度の高い服を作ってるんで。それが口コミで広まって行ってくれたんですよね。それで友達が友達を呼んで、その中から彼らが頭角を、、、ダメになった人も多いけど、一部の人はニューヨークのハイブランドになっていって、僕自身も認知が広がって、仕事がくるようになったのが最初ですね。」

さらに、2015年には、自身のブランド【OVERCOAT】も設立。こんな想いを込めて、洋服を作っています。

自分たちの技術を何か形にできないかというところで挑戦してみたのがOVERCOATです。今でこそユニセックスが少し流行っていますが、自分たちは一番技術力をだせるのは、ユニセックスという、体型が色々違う人にも形がはまる、というところは挑戦していいんじゃないかということで、肩にプリーツが入っています。全部の形にあうのは不可能なんで、せめて肩にちゃんとのっかる服をつくろうということでやっているんです。一般の方が買う洋服って、あっているようで、どこかあってないんです。そういう意味では、全部あうのは不可能だけど、肩の上にちゃんとのっかると軽く感じます。そういうプロダクトを今作っているというところですね。」

「OVERCOAT」のポップアップストアは、六本木のANB Tokyo 6階で、4/18(日)までの開催。

OVERCOATウェブサイト