DIALOGUE RADIO -IN THE DARK-

日曜の深夜。全てのしがらみから離れて
本当に「独り」になっている特別な時間。
人は誰もが不安や悩みを持っているはず。
この番組は、自分の心と対話することの大切さを伝え、
明日への活力を求める人への応援メッセージを
発信するラジオ番組です。

EVERY SECOND SUNDAY

25:00-26:00 ON AIR

真っ暗闇の中で、心と対話する時間を。
志村 季世恵の写真

志村 季世恵

バースセラピスト

板井 麻衣子の写真

板井 麻衣子

J-WAVE NAVIGATOR

メッセージをいただいた方の中から毎月2名の方へ
ダイアログ関連本をプレゼント!

MESSAGE TO STUDIO

番組のオリジナルPodcast 配信中

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MESSAGE

人は他人と比較してしまう生き物だと思います。
人より、恵まれていると喜んだり、
人より、うまくいかないと落ち込んだり、
SNSが生まれたことで、自分を誰かと比較する機会も増えてきました。
そんな今だからこそ自分の心と対話する時間を大切にしたいと思います。
何をしたいのか、何が悩みなのか、何に希望を持つのか。
その積み重ねが幸せを感じる近道なのではないかと思います。
幸せは、自分の心の中にある。


2024.03.10
GUEST

第69回のゲストは上野美佐穂さんでした

 
〜プレゼント〜

番組初となる著書、
『暗闇ラジオ対話集-DIALOGUE RADIO IN THE DARK-』を
番組をお聴きの方の中から抽選で2名の方にプレゼントします。

ご希望の方は、この番組のサイトにある
「MESSAGE TO STUDIO」の欄から
番組の感想をお書き添えの上、ご応募ください。
https://www.j-wave.co.jp/original/dialogue/message/index.html


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DIALOGUE

志村:みーちゃん、こんばんは。
上野:こんばんは。
志村:暗闇の中にようこそ。
上野:初めまして。
志村:真っ暗初めましてでしょう?
上野:真っ暗は初めてですね。
志村:ねー。どんな感じ?
上野:いやー、こんなに暗いんだっていう、目を開いても閉じても同じ景色。
志村:確かに。景色は同じだね〜。ってことは私もみーちゃんも同じ景色見てるんだね。
上野:そうですね。
志村:あのね、さっきまでみーちゃんと暗闇でちょっと遊んだじゃないですか、どうだった?
上野:楽しかった。
志村:あ、楽しかった?よかった〜。
上野:なんか、あー、繋がってるーっていう感じがしました。
志村:ね〜。みーちゃんは普段、車椅子を使って、今日もここまで車椅子で来てくれたじゃないですか。みーちゃんは生まれてこのかた、ずっと全身を使って動いてはないんだよね?
上野:そう、歩いたことは一度もなくて、うん、そうですね。
志村:そう。で、ものすごく頭をフル回転していて、
上野:頭はフル回転してます。
志村:うんうんうん、そして首から上が動いてる。
上野:手は、右手がちょっと、右手の指先が少し動くのと、全部の足も手も、指はちょっとだけ動くんですけど、動作的になにか大きなことができないっていう、だから顔はめちゃめちゃ動きます。変顔もいっぱいできます。
志村:そう、私みーちゃんの変顔大好きなんだよね。すごいよね、変顔全部かわいいんだけど、ここがラジオで暗闇でお見せできないのが残念なんですけど。
上野:確かに残念です。
志村:今も変顔してる?
上野:じゃあしてみます・・・(笑)・・・してますよ?
志村:してますか?(笑)
上野:はい(笑)
志村:(笑)・・・そう、そうやって変顔してよく遊んでくれるんだけど、みーちゃんは病名で言うと・・・
上野:脊髄性筋萎縮症という病気ですね。わかりやすく言うと、運動神経を司っている遺伝子がいくつか欠損していることによって、脳から神経に行く伝達、「動きなさい」「ここ動かして」っていう部分が欠けているので、運動神経が麻痺している状態。なので感覚は全部あるんだけど、機能として動作しないっていう病気ですね。
志村:あーそういうことか。じゃあ怪我しちゃったりとか、例えばに蚊に刺されたら、全身刺されても痒いんだね。
上野:痒い。
志村:だけど掻けないということだよね。それは中々つらいね。
上野:本当に痒いのはねー、つらいです。
志村:だよねぇ。そういうことかー。
上野:いつも掻いて掻いてーって言ってます。
志村:今日痒くなったら掻くから言ってね。
上野:ありがとうございます(笑)
志村:そうか、っていう感じで、病気とともにずっと付き合いながら生きてきたんだよね。
上野:そうですね。
志村:最初はおうちで暮らしてたんだっけ?
上野:そう、おうちで生まれてから両親と兄と暮らしていて、1歳ぐらいになっても寝返りを打たないからおかしいなと思って、うちの親がいろんな病院を駆け回ってわかったのが、1歳半ぐらいのときに先天性のそういう病気ですっていうお話があって、そこから、まあおそらく3歳ぐらいまでしか生きられないと思うんで、たくさんお子さんと一緒に思い出を作ってくださいねって両親は言われたって言ってました。
志村:そうだったんだね。
上野:はい。ところが、なぜか、もうこの間50歳を迎えまして(笑)
志村:3歳じゃなくて、50歳になっても元気で!よかったよぉ〜。
上野:だから私は、いつもいつも、いつも若いときからもうすぐ死んじゃう、もうすぐ死んじゃう、私はもうすぐ死んじゃうって思いながら50歳まで生きてきたっていう。最近はみんなに死ぬ死ぬ詐欺って言われてるんですけど・・・(笑)
志村:そっか〜。50歳の誕生日のときも生前葬してたもんね。
上野:そうなんですよ。
志村:ね、いい会だったなーと思って、めっちゃ楽しかったんだけど。
上野:ありがとうございました。季世恵さんが来てくれてすっごいびっくりしました!
志村:ふふふ、サプライズで呼んでいただきました。でもそれは、今日死んじゃうかもしれないと思いながら生きるっていうのは、本当はみんなもそうだから私もそうだし、人はいつ死んじゃうかって本当はわからないじゃない?だからみーちゃんはそれをリアルにずっと感じながら生きてきたんだよね。
上野:そうですね。やっぱり私はそれで1歳半で病気がわかって、2歳ぐらいのときに子供が入る施設に母親と一緒に入るんですね。で、そこで母親が病気の私をどうやって育てるかみたいな訓練を受けるんですけど、その途中で母親が亡くなるんですよ、病気で。それが5歳。もっと早くにドクターストップが母親の方にかかって、これ以上娘さんとこの生活を続けていくとお母さんが危険ですってことでドクターストップがかかって、そこから私は施設に1人入る形で、母親は家に帰って私の入ってた病院に週1回通ってくるっていうスタイルだったんですけど、その途中の5歳のとき、母親の持病が喘息で、その発作で亡くなるんですけど、それが私が1番最初に死と直面するリアルな日だったんですね。
志村:そうかぁ。
上野:でもなんか、本当に物心ついた記憶?っていうのが、もう母親が亡くなったお葬式からなんですよ。そこからの記憶しか残ってなくて、きっとその前にたくさんお母さんと過ごしたと思うんですけど、その記憶はほとんどなくて、でも写真を見ると、やっぱりたくさん思い出を作ってくださいってお医者さんに言われたって言ってたので、いろんなところに連れてってもらった写真が残っていたので、それを見て、あ、そういう家族との時間があったんだっていう感じですね。
志村:そっか。みーちゃんは忘れちゃったかもしれないんだけど、でもどっか奥の記憶の中にお母さんの温かさは残ってるのかもしれないね。
上野:そうですね。

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志村:それで、みーちゃんはずっとその施設とか療養所で育って、学校もそこから通ったってことだよね?
上野:そうそうそう、施設の隣に・・・昔は養護学校って言ってたんですけど、今は特別支援学校っていう言い方になったんですけど、隣接している学校があって、そこに病院というか施設から通っていくっていうスタイルで、小学校中学校、高校はまた施設を変わって、また違う東京から埼玉の病院に移ってきたんですけど。
志村:だからおうちから通ったんじゃないわけだよね。
上野:そうそうそう。
志村:そうそう、でもみーちゃんはさ、そこから自由を求めて飛び出すじゃないですか。あれは何歳のときだったの?
上野:出たのは24歳ですね。
志村:出ようと思ったのは?
上野:うーん、20歳を過ぎて、何となくこのまま過ごすのは嫌だなって思い始めて、実際にもう出るぞって決めたのは22歳の終わりぐらいかなー。
志村:嫌だなと思って出ようと思ったその22歳の頃に、具体的にどんなことを考えてたんだろう?出ようってすごい大事なことだけどね。
上野:だよね。そうなんか、小学校中学校は、東京の子供を対象にした施設でずっと暮らしていて、でも私は物心ついたときからそこで暮らしていたので、そこが私の生きる場所って多分思っていたんですけど、そこは15歳までしかいられないところだったのね。で、大人の私達と同じような病気の人たちが入る療養所があるんだけど、そこに引っ越していかなきゃいけなくて、で、初めて同じような神経難病の患者さんがいっぱいいる病院というか療養所に来たんです。でそれまでは、私自分の病気のことも誰からも説明されないというか、私はどういう病気でこれからどういうふうになっていくかっていうのも、全然、親からも施設にいたときも知らされなかったんですよね。だから高校に移るというか、違う療養所に移ったときに、初めて私と同じような神経難病の患者さんが、まあ30人ぐらいいるところに移るんですね。そのときにすごく衝撃的だったんです。子供の頃にいた施設はみんなそれなりに動ける子供たちが多くて、外科的な手術をしておうちに戻る目的で入ってくる子供が多かったんだけど、高校に入るときに移った療養所は、なんかみんなが動けない。みんな車いすに乗っているか、あとは呼吸器をして天井だけずっと見ながら横になっている人たちが一つのお部屋にまとめられて、機械の音で呼吸をしているっていう光景を高校1年生のときに初めて見て、自分ももしかしたら将来こんなふうに天井を見ながら呼吸器をつけて暮らして行くのかなーっていう、わからないながらに想像したっていうことは今でもすごく記憶にあって。で、その頃はまだ私も自分で電動車椅子で動けていたし、まあ今も電動車椅子は自分で動かしてるんだけど、まだ自分でご飯を食べたり、自分で顔を洗ったり、自分で痒いところを掻いたりも当時はできていたんだけど、だんだんやっぱり年を重ねるごとにできないことが増えていく。だから、そういう私の将来を、未来を見せられてるような感覚に最初はなって、それで結構衝撃を受けたんですけど、でもまあ高校に行って卒業してしまうと何もすることがなくなっちゃうんですよ。それで、あー、このまま私老いていって、呼吸が自分でできなくなって、ベッドの上で一生過ごすことになるんじゃないかっていう感覚と、やっぱりその間にもたくさん友達が亡くなっていく。今みたいに医療機器が発達してない時代だったので、30年前とかなので、やっぱりもう呼吸器ってなったらみんな寝た切りなんですよ。だからもうどこにも行けないし、20歳を過ぎて悶々としていたときに大学生との交流会っていうのがあって、そのときに知り合った大学生が、当時私のボランティアで来てくれた人たちと仲良くなって、その人たちが私を外に連れ出してくれるっていうきっかけになったんですね。それまで本当に外の世界をほとんど見たことがなくて、でも彼女、彼らが外の世界を私に見せてくれて、例えば病院の近くの駅に行くだけでも、私にとってはもうディズニーランドに行くような夢の世界だったんですよね。ケンタッキーに行ったり、マックに行ったり、もうそれだけがすごく楽しみになって、こういう外の世界に触れたときに、あ、こんな世界があるんだ!っていうのを知ってしまったんですよ。
志村:あーそうだね、知ってしまったんだね。
上野:そう、知ってしまったの!そしたら、じゃあ今度は新幹線に乗ってみようとか、船に乗ってみようとか、どんどんどんどん夢が広がって行って、なんだできるじゃん。電車にも乗れて、バスにも乗れて、新幹線にも乗れちゃったっていう、なんかできることがどんどん増えていったときに、私、ずっとこのまま病院にいたら、自分が生まれてきてよかったって思える生き方にならないんじゃないかなーって思ったんですよね。あと、同級生がどんどん亡くなっていくときに、みんなで最後お見送りをするんです。亡くなった仲間、今日まで一緒に暮らしてきた仲間が亡くなったときに、みんなで廊下に並んでその人が霊安室に運ばれていく姿をみんなで見送って、いろいろ終わるとみんなで霊安室に行ってお見送りするんですね。そういう習慣が高校生ぐらいのときはずっとあって、で、やっぱりみんな若くして亡くなっていく。17歳とか18歳とか、もう20歳前に亡くなっていく彼らを送りながら、なんか生まれてきてちょっとでも幸せだったな、よかったなって思えることがあったかな?っていうのを聞けなかったことがずっと心残りだったんですね。で、私はどうだろう?って。もし明日、ここで亡くなってしまうことがあったときに、私は胸を張って生きててよかった、幸せだったって言って死ねるかな?って思って、そう思えなかった暮らしだったから、せっかく生まれてきたのに、あー幸せとか、喜びの感覚で最期を迎えられないって、なんかすごく残念というか、私は悲しいなって思ったから、もっと外に出てみて、たくさんいろんな経験をして、もっともっといっぱい喜びたいって思って、ここを出ようって決断しました。

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志村:あのさ、いわゆる自立っていうのは、何でも1人でできることだって思うじゃない?多くの人はそう思ってると思うのね。
上野:はい。
志村:だけど、人って本当は誰もが1人では生きられないんだよね。洗濯したり料理したりお風呂入ったりはできるかもしれないけど、でもそれだけじゃなくて、いろんな関わりがあった上で生きられてると思うんだけど・・・みーちゃんはどう思う?
上野:いや、本当に、私はもう生まれたときからこういう体だったので、とにかく人に手を借りなければ生きることすらできていないので、いろんな人に手を借りながら成長してきたっていうのはもう私の中では当たり前にあるというか・・・なので、ちょっと図々しい部分もたくさんあるんだけど、でもそれを自分からこうして欲しいって求めることによっていろんな人が手を貸してくれて、私の自由が得られるっていう感じですかねー。
志村:あーそう、ほんっとに自由だなみーちゃん!っていうふうに思うとき私あるの。さっき図々しいって言ってたじゃない?合言葉があるじゃない?ZZCだっけ?
上野:ZZC(笑)そう、図々しいをね。
志村:そう。
上野:そうそうそう。
志村:あれみんながさ、この前も唱えてたよね。
上野:なんか私は図々しく、こういうこと私したいんだけど一緒にやってくれない?って言ったら、喜んでって言ってくれる人が私の周りにはたくさんいてくれて、そういう人たちがいてくれるお陰で、本当に私は、何だろう、喜び溢れる人生に今なってるっていう・・・うん。
志村:うん、そう、ね〜、本当にみーちゃんの周りって大勢の人がいて、お友達が大勢いて、仲間が大勢いて、介助者の方たちも仲間になってて、なんかこの前のお誕生日の生前葬のときも、たくさんの人がいらしててさ、みんなお友達で、みーちゃんと相思相愛なんだよね。その方のお子さんたちも来てたじゃない?もう親戚の子みたくしてたよね。
上野:そうですねー。
志村:みーちゃんとね、みーちゃん大好きで。中々ないと思うの。自分の介助してる人の誕生日に我が子を連れて来るって、ないと思うんだけど、でもみーちゃんが大好きだからそうしたいんだっていうふうに、それがいいんだっていうふうにおっしゃってた人がいたんだけど、私ね、これなんか本当に、みーちゃんが自由奔放に生きた中で、皆さんに楽しいよーってこととかが伝わっていて、それがこういうふうな絆になってるんだなと思うんだよね。
上野:うん。いや本当にありがたいことなんだけど、子供っていうのも、私は実はすごく苦手だったんです。施設から出てきたときは、人に見られるのもすごい怖くて、施設って本当に閉鎖されているので、外の人との接点ってあんまりないんですよね。まあやっぱりそこを出て生活を始めたときに、あまりにも自分に目を向けられることが怖くて、特に子供たちってすごく純粋じゃないですか。だから、なんかなんでこんなに体がちっちゃいの?とか、怖い!とか、車椅子、勝手に動いてるーとか言われることが、すごく悲しい時期が最初はあったんですよね。子供ってすごく正直すぎて怖かったっていう時期が20代の、やっぱり前半ぐらいのときにはあって・・・そう、だから自分はすごく苦手って思ってたんだけど、でも本当に自立して、身近な子供たちとたくさん関わっていったときに、あ、子供ってただ知らないだけなんだって。だから見たものをそのまま伝えてくれる、すごいそういう貴重な存在なんだなって思ってから、指をさされても、え、何々?そうだよ歩けないんだよーって言えるようになった。そこからすごい子供って可愛くて、純粋で、何でも知りたいんだなーって。そうやってお互いに近づけ合うと、なんか子供たちもすごく大好きになってくれるっていうか。そこから本当子供たちが大好きになりました。
志村:お互いのことがわかったんだね。みーちゃんも子供のことがわかって。そっか〜。
上野:うん。
志村:みーちゃんさ、前に「自由っていうのは」って話をしてくれて、自分が興味あるなって思う人のことを知りたいなと思うことをちゃんと感じて、そしてそれを交換し合うことって前教えてくれたことがあったのね。で、もう1つ、施設にいるときは時間通りに過ごしてたって言ってたよね。
上野:はい。
志村:それって要するに、日曜日も月曜日も土曜日も変わりなく決まりがあって、時間が全部・・・
上野:ぜーんぶ。介助してくれる職員さんの動きがやっぱり優先されるので、それに合わせて朝起きる時間からトイレの時間までぜーんぶ決められて過ごしてました。
志村:あー、トイレの時間も介助する人の時間だったのか。
上野:そう。
志村:で、出ようと思って出て、今度は時間とは違くなるよね、時間通りじゃなくなるじゃない?
上野:そう。
志村:どうだった?
上野:いやあー・・・最初はあまりに、はい今日からもう自由ですよーってなったときに、最初はやっぱりちょっと迷うというか、自分で食べたいと思わないとご飯は出てこない。自分がそのメニューから何から何まで自分で考えて、それを介助者の方に「今日はこれが食べたい、だからこういうふうに作って」って言わないとご飯も出てこないから、何だろう、本当に自分の体は自分で守るみたいな。
志村:うーん、確かにそうだね。今日はちょっとお腹が痛いから消化がいいものとかっていうのを、自分で決めて伝えるんだもんね。
上野:そうそうそう。
志村:あーそうだそうだ、だんだんだんだんそのことに慣れていって、そしてしたいことがだんだん増えていってやれるようになったら、みーちゃんがメキメキと、またみーちゃんらしくなっていったんだ。
上野:メキメキと、そうそうそう(笑)なんか、選択肢があるってすごい幸せなことだなーと思って、やっぱり病院にいたら私が選択できることってほぼないんですよね。ご飯だって、寝る時間だって、トイレに行くことだって、全部誰かが決めている。でもそこを出たらいろんな選択肢がある中から自分で選べるじゃないですか。今日は食べないってことだって選べる。今日は食べたいも選べる。何を食べたいも選べる。そういう選べるっていうことが本当に自由なんだなって。
志村:うん、そっかぁ。自由は選択の中にあるね。
上野:そうですね。
志村:みーちゃんにとって生きるっていうのは、どういうことなんだろう?
上野:生きるとは。うーん、究極ですね。
志村:うん。
上野:生きるとは・・・何だろう。
志村:うーん。
上野:言葉にするのはすごく難しいけど、やっぱり喜びでいたい。
志村:あー、そうだねー・・・
上野:うん。

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志村:最後に質問してもいい?
上野:はい。
志村:明日・・・もう今日なんだけどね。今これから眠る方たちがいらして、明日どうするともっと素敵な1日になるかなって、なにかメッセージもらってもいいかな?
上野:特に今日はね、3.11で大きな災害があったっていうことはあって、いろんな命との向き合いっていうのを、いろいろ考える日になるかなって思うんですけど、やっぱり生きてるって本当に当たり前じゃなくて、毎日私も起きるたびに「あ、今日も生きてる、嬉しい」って思える毎日にしたいなと思ってるんですけど、私はとにかく生きていたらいいことも、もちろん悲しいこともつらいこともあると思うんだけど、それも全部含めて味わえる生き方をしたいなって・・・難しいですね。
志村:いやいや、でもそれが一番大事なことだと思う。まずは朝目が覚めて、あ、生きてるぞって感じるの、大事なことだよね。
上野:そうそうそう。あとなんか、小さい喜びをたくさん集められると、大きな丸になるっていう・・・ところもあるかなって。なんか人ってネガティブなことばっかり見つけちゃう癖ってあるじゃないですか。嫌なことがあるとずーっとそんなことを考えちゃったりするんだけど、でもなんか日々の中にちょっとした幸せって絶対あると思っていて、例えば何でもいいんだけど、私はよく食べ物に幸せを感じるんだけど、あ、何これ、美味しい・・・とかね。美味しいものを食べられた瞬間とか、食べれるって幸せだなーとか、味わえるって幸せだなーとか、そういう小さい幸せでも集めていくとすごくたくさん大きな喜びになるから、小さな喜びをたくさん集められるといいのかなーって思います。
志村:ありがとうみーちゃん。私ね、みーちゃんが今までの人生の中でね、自立しようと思って一歩踏み出したときから、大海原を漕ぎ出したんだろうなって、すんごい勇気だったと思う本当は。だって出たことがなかったじゃない。そこを1人で歩くのってすごいと思うの。そういうふうに大きなことを成し遂げた人が自由を見つけて、その中でさ、ちっちゃな幸せが大事なんだよっていうこととか、それから今日も生きてたってことを感じてるんだよっていう・・・そこがねすごいなーと思ってるの。だって冒険じゃない。すごい冒険したわけじゃない。私だったらできたかな・・・って思う。ずっと施設に入っていて、自由を得るためにできたかな、お父さんやお母さんがいたわけじゃなくて、協力者がいるのは家族じゃなかったわけじゃない?
上野:そうだね。
志村:そこをさ、一歩出る。だからこそいろんな人たちとの出会いがあったんだろうなって。そこでそれをいっぱい感じられる人になったんだろうなと思うんだ。
上野:それはすごくあると思う。そう、私この病気、今の自分のこの体じゃなかったら、こんな面白い人生を味わえなかったなって思うことがよくあって、もしかしたら季世恵さんにも会えてなかったかもしれないとか、あの人にもこの人にも会えなかったかもしれないって思うと、あ、なんて今のこの体で生まれてきてくれたことが、すごくありがたいなーって思う。っていうぐらい、すごい私は自分の生き方?生き方というか自分の歩んできた人生が、すごく今幸せで満ち溢れてるっていうのは、それは揺るぎないです。
志村:そっか。
上野:その気持ちのまま生き切りたい!っていうのはあるかな。
志村:うん。
上野:うん。
志村:暗闇に来てもらってありがとう。
上野:こちらこそ。
志村:また遊ぼうね。
上野:はい、季世恵さん、ありがとうございました。
志村:ありがとう。



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