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「デッドボールがルールから省かれた!」高校野球の歴史を振り返る

「デッドボールがルールから省かれた!」高校野球の歴史を振り返る

J-WAVEで放送中の『GOLD RUSH』(ナビゲーター:渡部 建)のワンコーナー「MEET UP」。8月3日(金)のオンエアでは、第100回全国高等学校野球選手権記念大会について、『ざっくり甲子園100年100ネタ ニワカもマニアもおさえておきたい』(廣済堂出版)の著書・オグマナオトさんにお話を伺いました。


■103年前に始まった全国高等学校野球選手権大会

スポーツにまつわる雑学や伝説を採集しコラムや書籍として執筆、またテレビ番組『報道ステーション』(テレビ朝日)のスポーツコーナーやスポーツ番組の構成作家を担当するオグマさん。まずは全国高等学校野球選手権記念大会のはじまりについて訊きました。

オグマ:大会がスタートしたのは103年前ですね。1915年、第一次世界大戦中というと歴史に古さを感じると思うんですけど、まだ兵庫の甲子園はありませんので、豊中グラウンドという小さな運動場みたいなところで、10校の代表校を集めて始まりました。このときは、秋田中(現・秋田県立秋田高等学校)と京都二中(現・京都府立鳥羽高等学校)の決勝で、京都二中が優勝しました。そもそもこの大会がはじまった背景に京都二中も関わっていて。諸説あるんですけど、当時は全国大会がなかったので各地で対抗戦があって、「ウチが一番強いだろう」と、特にOBの間で盛り上がり「じゃあ一度集めようぜ」と。その動きをしたのが京都二中のOBで、朝日新聞と毎日新聞に「こんな企画どう?」ともちかけて、朝日新聞が先にのった。逃した魚の大きさを知った毎日新聞が、選抜高等学校野球大会を始めたのかなという考えもできるかなと。
渡部:次のグラウンドはどこになるんですか?
オグマ:第3回から鳴尾運動場(鳴尾球場)という場所に変わったんです。その前の豊中グラウンドって観客席がなかったので、ロープを張ってグラウンドと観客席を分けていて、年々高まる人気に対応しきれないということで、観客席のある鳴尾運動場に移したんですけど、それでもさばき切れない。第9回大会で、あまりの人気でグラウンドから観客がなだれ込むという事件が起きて、「専用球場を作らないとダメだ」と、1924年第10回大会で生まれたのが阪神甲子園球場です。阪神の本拠地の前に、全国中等学校優勝野球大会のために生まれたのが甲子園球場。
渡部:阪神ファンとして「あの期間は高校生に貸してあげてるよ」という感覚でいたけど、大きな間違いですね。


■戦時中でも幻の大会が開催

渡部:戦時中に中止されていた時期もあったとか。
オグマ:1941年に、地方大会が行われたんですけど、その途中で「戦況悪化でスポーツなんてやってる状況ではないんじゃないか」というお達しがきて、大会が中止されてしまうんです。その翌年から甲子園大会としてできない状況だったんですが、1942年だけ朝日新聞の主催ではなく文部省主催で、鍛錬の場として甲子園球場を会場にした大会が1度だけ行われたことがあります。これは一般に「幻の甲子園」といわれています。徳島商業学校が優勝しているのですが、大会の歴史の優勝校一覧には入っていないんです。
渡部:ルールとかは一緒だったんですか?
オグマ:戦争中という時代背景があって、ユニフォームのローマ字が禁止で、漢字などにして取り払われたのですが、「選手たるもの逃げてはいけない」ということで、デッドボールがルールから省かれて、当たってもデッドボールにならなかった。
渡部:そんなのに当たってめげている場合じゃないと。
オグマ:あと、選手交代がなし。余程のことがない限り、選手交代はしてはならないと。
渡部:結局、甲子園は復活するわけですよね?
オグマ:戦争が終わったのが1945年8月15日(水)ですけど、そのちょうど1年後の1946年8月15日(木)に復活大会として、第28回大会が開催されたんです。このときは甲子園が戦争の影響でダメージを受けていたのと、GHQがグラウンドを駐車場に使ったりしていて、使えなかったので。
渡部:野球させないためにわざと、とかありますか?
オグマ:当時は、野球は「なんで全国大会2回もやっているんだ?」「1回でいいじゃないか」とGHQから言われてた時代で、「甲子園球場は使ってはならない」と。それで阪急西宮球場に場所を替えて行われました。その他にも、「米騒動」で混乱が大きくてできない大会、第4回大会が、地方大会があって代表が大阪に集まったのに中止になったんです。
渡部:たまんないだろうね。せっかく勝ち抜いたのに。


■ハプニング続出! 甲子園からはじまった日本のスポーツ実況

続いて、今や伝説となっている甲子園の逸話を披露していただきました。

オグマ:1927年の第13回大会で、初めてラジオ実況がはじまったんですが、これが日本で初のスポーツ中継だったんです。アナウンサーに逸話があって、担当した魚谷忠アナウンサーは元球児で、第2回大会の準優勝メンバーだったんです。なので、「おまえ野球知っているだろ、全部やれ」と司令がくだって、実況の形もないなか試行錯誤で、守備位置も最初は言えなかったり、「打ちました! フライ、センターとりよった、偉いやっちゃ!」みたいな、そういう言葉が出ちゃったという逸話もあります。


■敗者復活から優勝した学校

オグマ:甲子園は一発勝負だからいいとよく言われますが、2回だけ敗者復活制度があって、しかもそのうち1回は、敗者復活で勝ち上がった学校が優勝したんです。第3回大会の愛知一中(現・愛知県立旭丘高等学校)が、一度負けてから勝ち上がったんですが、面白いのは、負けてから勝った試合全部1点差なんですよ。しかも、決勝も負けていたのに、急な大雨で降雨ノーゲームになって、再試合でまた1点差勝ち。よく“ミラクル優勝”なんて言いますけど、ミラクル優勝の初代は愛知一中じゃないかなと思います。さすがに「敗者復活から優勝したらダメだろ」と、この2回だけでなくなりました。


■金属バットの登場が高校野球を変えた

オグマ:甲子園の変換点があるんですけど、その中のひとつが、1974年の金属バット解禁です。もともと経済的な理由で木製バットが折れちゃって、部費の中でバット購入が賄えないという理由からなのですが、打球速度や飛距離が全然違う。ここから野球の内容は、打者重視の時代になっていくんです。この1974年の大会でデビューしたのが、一年生の原辰徳さん。
渡部:ラッキーゾーンがなくなった年に松井秀喜さんとか、変換期にスターが生まれますね。
オグマ:でも、この大会で優勝したのが銚子商業(千葉県立銚子商業高等学校)で、4番を打ったのは巨人で活躍した篠塚和典さん。篠塚さんは「木のしなりがないとダメだ」ということで、金属バットが認められているのに、木製バットで4番で活躍したんです。カッコいいですよね。


■松井秀喜と大会歌『栄冠は君に輝く』

オグマ:1948年の第30回大会、このときの中等学校野球大会として始まったのが、学制改革で高等学校になり、それを記念して大会歌を新しくしようとしてできたのが、『栄冠は君に輝く』です。ですので、今年はこの大会歌の70周年なんです。作詞した加賀大介さんは、松井秀喜さんと同じ街で生まれていて、加賀さんが亡くなったのは1973年6月で、松井さんが生まれたのは1974年6月です。ちょうど1年後ということで、地元では「生まれ変わりではないか」という人がいたりします。作曲の古関裕而さんは『六甲おろし』や『闘魂こめて』、東京オリンピックのテーマソングなど、日本のスポーツ音楽を作曲してきた人です。

最後にオグマさんは、今回の第100回大会について以下のように語りました。

オグマ:記念大会は新しく変わったり生まれたりすることが多いんです。甲子園球場が生まれたのが第10回大会、大会歌が生まれたのが第30回大会、松坂大輔世代は第80回大会、17対0で決勝に勝って大阪桐蔭が一気に強くなったのは第90回大会。何かが生まれるのが記念大会かなと思います。

甲子園に関する情報が盛りだくさんのオグマさんの著書『ざっくり甲子園100年100ネタ』、みなさんもぜひ手にとってみてください。

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【番組情報】
番組名:『GOLD RUSH』
放送日時:毎週金曜 16時30分ー20時
オフィシャルサイト:https://www.j-wave.co.jp/original/goldrush/

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