J-WAVE SELECTION SMBC EARTH TALK

私たちと地球の未来に向けてのビジョンを語る 今月のラインナップ

第三部『失敗や挫折は、本来の自然へのチャレンジにはあるべき姿かなとも思う〜会場からの質疑応答〜』

 そろそろフロアからもご質問を受けて、栗城さんのいろいろな側面を引き出していただきたいと思います。登山のことでも、否定の壁についてでも、何でも構いません。
会場
大変興味深い話をどうもありがとうございます。素人にとって山登りをイメージするとき、肉体的なことや技術的なことなど、いろいろ重要な要素があると思います。その中でも、今日のお話にも出てきましたが下山の判断、決断のところが、元々明確な基準があるわけではないでしょうから、非常に難しいと思いました。
栗城さんはいろいろなご経験を積んでこられて、ポジティブな発想を身に付けられたことがあると思います。たとえば「あきらめの効用」「失敗の効用」なんて言葉もありますが、逆にあきらめや失敗が役に立つこともあるのでしょうか。その観点から普段の生き方、企業経営に与える影響等々、実例があればお聞かせいただきたいのですが。
栗城
失敗の抱擁(笑)、いや効用ですね。ぼくの山の先輩は、「生きていればまたチャレンジできる」とよく言います。死んでしまったらチャレンジも何もできないわけですから、ぼくもまず生きることを一番に考えます。次に登れるか登れないかを判断します。とにかくどんな形であっても、これ以上行ったら絶対に帰れないとわかっていて先に行くことはしません。
 やはり山がとても危険なのは、頂上近くです。非常に事故が多いのです。たとえばエベレストでは1996年、春の嵐で8人もの登山家が亡くなった遭難事故がありました。この遭難事故に基づいて映画がつくられたくらいですが、事故になる前、必ずサインがあるのですね。酸素ボンベがもうすぐ切れそうだとか、下山しなければいけない明確な要素がきちんとあります。
 ところが頂上近くなって人間は何を思うかというと、希望を持ってしまうのです。あともうちょっとだから、1時間ほど頑張れば行ける、と思ってしまうのですね。でも、客観的に見ると帰れないことがわかります。地上でこのように言うのは簡単なのですが、現場に行くと、どうしても先に行きたくなるのは人間の性でして、そこはきちんと自分を見て執着しないことが大切です。
竹村
栗城さんは厳しい秋のエベレストへの無酸素、単独登頂に何度かチャレンジされて、昨年、一昨年と、もう一歩のところで下山されたそうですが、無責任な言い方をしますが、逆に、成功してしまわないことによってずっとチャレンジされ続けているわけですね。
つまり登山は、マッキンリーに登った、エベレストに単独登頂した、どこどこに登ったと、どうしても業績の成功ばかりが語られるけれども、私は栗城さんという方に出会って、登頂できたかどうかではなく、登山のプロセスを皆とシェアしながらやっておられて、それそのものが生き方だという意味では、これも無責任な比喩かもしれませんが、「千日回峰行」を思うわけです。
あれは、同じ場所をずっと回り続けます。どこかに到達したら終わりの世界ではありません。ある意味、エベレストの一番厳しい季節に千日回峰行をされているようです。
栗城
ぼくの山の大先輩に90歳になられる方がおられて、その方は年間100日も山に登ります。ぼくよりも歩くスピードが速いくらい、凄い方ですけれども、その方がこのあいだ、「登れない山があったほうがロマンがあるよ」と、「エベレストは登れないほうが良いよ」と言ったんです。
 それを言える人って、達観しているなと思いました。ぼくはやはり登りたいし、向かっては行くのですけれども、でも自然ってそうだと思うんですね。人間はテクノロジーの力によって何でも成功させようとするのですけれども、同時に何かこう、失敗や挫折は、本来の自然へのチャレンジにはあるべき姿かなとも思うので、それが感じられなくなったら人間として退化していくのではないか、とも思います。
竹村
栗城さんの著書『弱者の勇気』、これも深いタイトルだと思うのですね。つまり栗城さんのお話を聞いていると、どんなに凄い人だろう、どんなに強健な身体の持ち主なんだろうと思うのですけれども、やはり弱さって、大事な資源ですか?
栗城
そうです。精神的に強くなることは難しいなと思っていて、いかに今ある自分を客観視し、認めてあげながらその環境に適応していくか、だとは思います。
竹村
岡倉天心は『茶の本』の中で茶の本質について、不完全さを愛でること(不完全という事の崇拝――物事には完全などということはないということを畏敬の念をもって受け入れ、処することにある)、みたいな表現をされていました。同時に私は人類学の人間ですから、人間の本質を何かと考えるとき、こんなに素敵で、奇妙で、変態な生き物はいない、どうも人間固有の強さ、能力とは、全部弱さからはじまっているような気がするのですね。
 たとえば人間は、四つん這いだった動物が直立歩行したことによって骨盤が狭くなり、産道が狭くなりました。本来は21カ月お腹にいなければならない種なのに、子どもが月満ちて生まれてくると頭が大きくなり過ぎて産道を通れないので、9カ月で生まれてくるわけです。すると21−9で12カ月早産することになりました。こういうのを医学的に子宮外胎生と呼び、子宮の外で胎生期を過ごしているわけですね。
ですから生まれて1年間は自分の足で立ち上がることもできないし、お包み状態です。自然界の動物は、生まれて数時間で自分の足で立たなければサバイブできません。それなのに、その後も3歳くらいまでよちよち歩きですし、普通ならば生き残れない種なのです。また犬でも猫でも1年も経てば発情期を迎え、次世代を残せる生殖能力を発揮しますが、人間の場合は大人の身体になるまで10数年、つまり未熟な子どもの時期、弱い時期を長く過ごします。
 でもそれだけ未熟で子ども性の段階が長いから、意外と、どんな方向にも成長できる可能性を秘めることになりました。そして人間は弱さによって固有の強さを得た。発達が遅れることによって、どの生物もいけない高みまで進んだわけです。ですから弱さとは、人類全体にとってキーワードですし、個人の生き方を考えても、弱さが資源になって、その人固有の強さを得ている場合があるような気がします。
栗城
ぼくに「おめでとう」と言ってくれた父は、結構、達観した言葉をくれるのですけれども、原体験は身体の障害だったのかもしれません。父は子どもの頃障害を抱えていまして、眼鏡屋さんの仕事をしたくて北海道から東京に来たのですけれども、お店に立たせてもらえなかったそうです。
「君はそういう身体をしているから、裏に引っ込んでいなさい」と言われたのが悔しかった。そのときに思ったのは、だから自分は引っ込むのではなく、その分、人より前に出てやろう。そこから人生が変わりはじめたそうです。人間にとって弱い部分だったり、そういうところが実は強さになっていたりすることはあるのではないかと思います。
竹村
両足義足のとても美しい女性アスリートがおります。パラリンピックでも活躍されましたけれども、毎日義足を着替え、長さが違う足をつけると背の高さまで変えられる彼女は、友人から「ずるいわ、あなた」と言われるそうです。ときにはチーターの足をつけて、楽しむこともあります。
ということは、障害があるから何にでもなれる。人間とはこうあるべき、これが普通の人間の姿であるという常識から外れて、人間の未来形、どう生きていくかということが発想できる。それは、物理的な障害ばかりではないだろうと思います。
栗城
精神的なものもありますよね。
竹村
リミッターを外して自分の限界を越える経験をされてきた一方で、自分で自分の限界を知る、栗城さんは、その重要性もおっしゃっています。
あきらめる、あるいは的確に判断して下山という決断をする。下山をする自分を受け入れる。逆にそこであきらめないで、ただ登ることにこだわって大きな事故を起こすのは、自分が進むべき道、自分が目指すべき目標、頂が見えていないせいではないか。そのように栗城さんはご著書『弱者の勇気』の中で書いておられます。
下山する勇気、あきらめる勇気を持つ自分、こういう弱者の勇気も、自分が事故で指を失うことを通じて知りました。指を失って一体、どうやって山に登るのか。その不可能を可能にする。それだけでも大変なチャレンジですが、それ以上に弱者である自分を認める勇気、そして的確に自分をコントロールしていく術を知り、より良く山に登れるようになった。より高いレベルの登山家になった、とおっしゃいます。
この栗城さんの挑戦、栗城さんの否定の壁を登るということを通じて、そしてまた弱者の勇気というコンセプトを通じて、登山家以外に、アスリート以外に、全ての方々が自分の人生の中で向き合うべき問題、多くの知恵を得ることができるのではないでしょうか。
 私は今日、「チームクリキ」に登録しました。応援します。どうもありがとうございました。

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