J-WAVE SELECTION SMBC EARTH TALK

私たちと地球の未来に向けてのビジョンを語る 今月のラインナップ

2015/11/08 ゲスト 為末大
(元陸上競技選手、株式会社「侍」代表取締役)

「SMBC EARTH TALK」
今回は、三井住友銀行東館ライジング・スクエア1階のアース・ガーデンで行われた、公開収録の模様を中心にお送りします。

東京オリンピックの話題はもちろん、より広く「スポーツ」の未来や、東京や日本という国の再設計、そして、地球と人類の未来について、為末大さんと語り尽くします。

為末大氏×竹村真一氏
第一部 【パラリンピックの選手がオリンピックの選手に勝ったら、人間はもうひとつ先のステージに行くのではないか。そういう世界を見てみたい】
〜総合的な人間開発OSとしてのスポーツ〜

竹村
今回のテーマは、東京オリンピック・パラリンピックです。国立競技場問題やロゴ問題など、いろいろ物議を醸していますが、そういう瞬間風速的な話題をめぐるつもりはありません。むしろ東京オリンピック2020という舞台が、おそらく東京と日本の未来、そして地球の未来をデザインしていく大事な通過儀礼ではないかと思うゆえに、しっかり議論してみたいのです。
 いま超高齢社会を迎えるなかで、スポーツやオリンピックのもつ意味も大きく変わってゆくはずです。昔は人口構造としても若年層が多いピラミッド型の社会で、スポーツも若い人たちが中心でした。オリンピックも強健な成年男子を育成し、国威発揚のため金メダルを多く取るというのが主目的でした。ところが今はスポーツが、高齢者にとっても予防医学的に、健康寿命を保つ意味でもとても重要になって来ています.最近はスポーツがからだの健康だけでなく、認知症や鬱病の予防など、脳と心の健康にもよいと注目されています。
 このようにスポーツの社会的意味が変わってきていると同時に、高齢化社会というのは多分、誰もが何らかの小さな障害を持ちながら、それでも楽しくクオリティ・オブ・ライフを維持して生きていく社会。となると、何らかの障害を持つことがマジョリティになってくる。少なくとも健常者と障害者の境界があいまいになり、障害者は特別な存在ではなくなる。
 するとオリンピックとパラリンピックがもっと連続的に融合して、パラリンピアンも障害者のヒーローでなく普通の人にとって、誰にとっても生きる鑑のような存在になってくる。むしろパラリンピアンのほうが新しい人間のあり方、スポーツのあり方を先取りしている、そういう考え方も出てくるかもしれない。ロンドンオリンピックでも少しそうした考え方があったけれど、多分スポーツのあり方、オリンピックの概念そのものが大きく変わっていくのではないか。
 そうなると東京五輪も、単にオリンピックを成功させようというだけでなく、たぶん「オリンピックの再発明」ともいうべきチャレンジになるはずです。それに応じて、東京という都市のあり方も大きく変わっていかねばならないでしょう。
 このような大きな視点から、スポーツとオリンピックのあり方を議論し、東京五輪をデザインして、この機会を地球と人類の未来のデザインに役立てていく。こうした議論をするのに、これほど相応しいアスリートはいらっしゃらないと思っています。為末さん、よろしくお願いします。
為末
よろしくお願いします。
竹村
為末さんは、2001年、2005年の世界陸上 男子400メートルハードルで銅メダルを獲得されました。陸上でメダルを獲得した日本人アスリート、特に短距離では希少なのですけれども、オリンピックでも2000年のシドニー、2004年のアテネ、2008年の北京と出場されていて、実際400メートルハードルの日本記録保持者でもいらっしゃいます。最近はブータンの五輪委員会のスポーツ親善大使、あるいは新国立競技場の整備計画経緯検証委員会の委員も務められながら、パラリンピアンのサポートもされています。また「アスリートソサエティ」といって、アスリートとしての経験を持っている人はもっと社会的に広く役立てるのではないかとの視点から、アスリートの社会的価値を広げようとする活動もされています。この辺りから、少しご説明いただけますか。
為末
一般社団法人アスリートソサエティと言いまして、最初は選手たちの自立支援からスタートしました。セカンドキャリアといって、引退した選手は社会の中で適応することが難しいのではないかとかねてから言われておりますが、これは選手たちが現役のうちに自分たちで考えておかなければならない問題ではないか。大変だから助けてと周囲に訴えるのではなく、自ら引退後の人生をきちんと考えておくべきだろうとの視点からはじめたのです。
 いろいろな活動をしてきて考えたのは、結局、アスリートのキャリアが成功するかどうかは、社会の側がアスリートを求めているかどうかにかかっていて、ということは社会の問題をアスリートが解決すれば、結果としてアスリートを求めてもらえるのではないか。こうして今は、スポーツの側面から社会の問題をどう解決できるか、について考えています。
 現在は若い選手たちに、たとえば陸上界の中で2020年にメダルを獲る可能性のあるなという選手たちに対して、リーダーシップのプログラムを行っています。これはスポーツではなく、社会のリーダーとしてのプログラムです。あとはトップ選手を集めてカンファレンスを行うなど、何か社会に対してスポーツ界が貢献できることはないかと考える、そういう活動もしています。
竹村
私は為末さんとお話をしていて、いつも印象的なのは、そうした社会人としてのコモンセンスというか、自己マネジメント能力も含めた総合的な「人間力」です。スタジアムで走る姿ばかりが脚光を浴びますが、ああいう形で世界を転戦していくには、それこそ健康監理や競技のスケジューリングから宿の手配、コーチングスタッフとのやり取りなど、実は経営者的なマネジメント能力が必要であり、場合によってはお金の工面もしなければなりません。そうなるとアスリートの能力というのも、一般に思われるような、ただトレーニングして走れば良いというだけではない、マネジメント能力も含めた総合的な「人間開発」が必要になってくる。
為末
そういう面は確かにあります。いま引退して社団法人をはじめて苦労しているのは、前の世界はすべて独りの身体で完結すれば良かったのに、人が入って来て皆でやるとなると勝手が違うところもたくさん出てきます。これはこれで、ひとつ新しいチャレンジですし、毎日勉強になって楽しいのですが。ある程度トップにいく選手は自分自身の身体をマネジメントできなければいけませんし、ひいては周りとの環境マネジメントも入ってくると思うのですけれども、ある程度のレベル以上のアスリートであればいずれも重要な能力ではないかと感じます。
竹村
アスリートが社会にどう役に立てるか?リーダーとしてのアスリートをどう育成するか?というと意外かもしれませんが、実は体調の自己管理、メンタルの管理、またコーチや栄養管理のスタッフなどチームを組織してマネジメントする要素も、アスリートには不可欠の部分としてあるとすれば、こうした経験資源をもつアスリートはセカンドライフで社会に出た時、狭義のスポーツの世界だけでなく、一般の企業や社会活動でもリーダーとしての素養を多分に持っているのではないか?むしろそういう視点で「社会資源としてのアスリート」を社会の側でも再認識して、アスリート教育もそういう観点からやっていこうということですね。
 もうひとつ注目したいのは、「環境センサー」としてのアスリートです。身体能力を極限まで発揮するアスリートは、当然ながら環境の変化に敏感だから、地球環境保全などの面でアスリートが役立てることもあるだろうと、為末さんとも以前話した覚えがあります。
為末
そうですね。選手は常に自分の身体がどんな状態かを把握しようとしますが、これはかなり環境依存のところもありまして、つまり周辺環境に自分の心理状態も何もかも影響を受けてしまうわけです。結果として、自分の身体のことを理解しようとすれば、自分の周辺に何があるかを理解できなければわからない。自分の身体の外の環境も含めて理解する、ないしは調子を把握しようとするところがあって、これが環境への敏感さというか、センサーのようになっていくことなのかと思われます。
竹村
なるほど。ところでパラリンピックのことですが、ご自身はパラリンピアンではないのにパラリンピアンのサポートをされ、パラリンピアンの大会の取材もされる。それはどのような意図からでしょう。
為末
オスカー・ピストリウスという選手がおります。ぼくらがまだ現役の頃、初めて義足でオリンピックに出た選手で、彼が出てきたとき、義足の選手の走り方は健常者の走り方とはまったく違うと思いました。腕を強く振って、義足を潰すようにして走っていて、これはもしかするとすごく速く走るようになるかもしれないと思いました。これが、まずぼくが興味を持った一例です。
 もうひとつ、昔アメリカのサンディエゴで練習をしていたのですけれども、そこで成長途中で身長が伸びるのが止まってしまう病気をもった選手が来ていて、オリンピックセンターの宿泊施設に、ちょうどチェックインしようとしていたとき、彼がカウンターに届かなかったのですね。その下に箱を置いて、これで届くだろうみたいなことをやりながら、その選手とバスケット選手が「俺なんて本気でジャンプしたら、お前にダンクで勝てるんだよ」といったやり取りをしていました。見ていて本当に自然な様子でした。
 日本に戻ってくると、障害を持っている人に対して優しく接しなければならない、気を使わなければならないという空気があって、それが余計に、逆に彼らの気を使わせる原因にもなっています。こうしたところが自然にならないかなと考えていたとき、もしもパラリンピアンがヒーローになったら、障害に対する意識は社会の中で変わるかもしれないと思ったわけです。
 そんなことを考えていたとき、義足をつくっている遠藤謙くんに会いました。彼はMITのメディア・ラボにいて、義足をつくりたいという。ぼくはパラリンピック選手のトレーニングをしたいということで、2人でタッグを組みまして、パラリンピアンのトレーニングを見ているという状況です。
 これからどんなことが起こるかわかりませんけれども、2020年にもしパラリンピックの選手がオリンピックの選手に勝ったら、何か世の中の当たり前に思っている意識が変わって、人間はもうひとつ先のステージに行くのではないか。そういう世界を見てみたいなと思っています。
竹村
ロンドン・オリンピックでも既に、パラリンピアンは「ネオヒューマン」(新しい人間)という形で捉えられて、障害を持っている、ハンディを負っている人といったネガティブな考え方ではなくなりつつありました。むしろそのハンディを補うべく義足や義手をつけることを通じて、人間の新しい生き方を開拓している、いわば人間の進化のフロンティアのような位置づけですね。
 実際、陸上競技でもパラリンピアンがオリンピアンに勝ってしまうことも起こるかもしれません。しかし重要なのは、単により速く走れるかどうかではなく、人間の多様なあり方、新たな可能性として「障害」やその克服が捉えられるようになるということですね。
 超高齢社会とは、人口のマジョリティが何らかの不自由な部分を抱えていく時代で、手足が弱くなったり、目が不自由になったり、耳が遠くなったり、それでも不自由と共生しながら20年も30年も、人によっては50年も生きる時代がやってきています。もちろんなるべく健康寿命を伸ばしていくべきだし、実際に今の高齢者はとても若くなっていると言われますが、それでも障害を何らかの手段で補って何十年も生きるとなると、人間のあり方の、何か新しい進化のフロンティア実験をしているのが、もしかするとパラリンピアンなのかもしれません。
為末
ざっくり言うと、多様性ということだと思います。障害とはそもそも何だろう。障害があるとは、つまり何かが欠けるというイメージですね。欠けるからには、ある完璧がなければなりません。この完璧、スタンダード、標準が幻想ではないかと思うのですね。それが多様であるというか、それぞれが違うわけです。
 なかには足が遅い人もいれば、速い人もいれば、足が不自由な人もいれば、目が見えにくい人もいるなど、いろいろな人がいるけれども、それらがテクノロジーで補われる、もしくは補えないところは隣の人が補う、そういうことが社会の中で当たり前になるでしょう。実際に、これがもっと次の世界になって本当にテクノロジーによってサポートされるようになると、逆に今度は、どうしてあの人はあんな遠くの音が聞こえるんだろうと、そちらのほうが際立ってくることもあると思うのですね。
 何か標準があって、そこに自分がはまっているかはまっていないかという世界観自体が不自由で、パラリンピックを見ているときに、そこを揺さぶってくれる可能性をとても感じます。
竹村
私の専門はもともと人類学なのですが、人間がどうしてこの手足や目を持っているかというと、約5000万年前の温暖期に巨木の森ができて、肉食獣の脅威を避けるために初期霊長類が樹上で暮らしはじめた。それまでは四足で身体を支えて歩いていたけれども、樹上で暮らすとなると枝などにつかまる必要が出てきて、前足が器用な手に変化し、また後ろ足だけで立つという後の人類の「直立歩行」に至る準備をしていきました。さらに飛び移る枝への距離が正確に測れないと樹上で暮らせないので、両眼が正面についた立体視ができる目のほうが適応的に有利であると、そういう環境の中で進化してきた「手足」や「3Dの眼」といったレガシーが、私たち人間をつくっているわけですね。
 その後、アフリカで森がなくなって草原になったとき、ある程度直立歩行の準備はできていたと思いますが、森から放り出された草原のサルが、直立歩行をデフォルトにして歩き回るようになり、為末さんのようにすごいスピードで走る人も出てきました。
ですから、こうした環境のなかで、それぞれの環境に適応するかたちで進化してきて、これが人間の完成形かというと、そんなことは誰も断定できないのです。つまり人間も進化の「途上」の存在であって、これからいろいろな環境変化のなかで、超高齢化や機械との共生を含めて、人間がさらに新しい段階に進んでいく途中なのかもしれないとなると、今おっしゃっているパラリンピアンのあり方は、障害の克服というかたちで人間の次のステージを実験している、ワクワクするような進化の最前線にいるように見えてきます。為末さんが興味を持たれるのは、人間の行く末に興味を持たれているからでしょうかね。
為末
パラリンピックの選手たちと接していて、ぼくが衝撃を受けたのは、たとえば車椅子の方を目が見えない方が押しているのですね。それで何ら不自由がないのです。車椅子の方が方向を示して、目が見えない方は後ろから押せばよいだけなので、こういう感じが自然なのではないかという気がするのですね。
 自分の身体で何もかもしなければならないのではないのかもしれない。テクノロジーだって、ぼくはスケジュールを機械に入れて管理しているのですが、そのスケジュールに自分がリマインドされて、それで何をやるか決めている。こういうのがもう少しマイルドになってきて、人と物との関係性が一方的なものではなく、もっと身体化していくイメージですかね。選手たちが義足を使って、義足を意のままに使いこなして、中には長い義足ユーザーになると、義足の先っぽに当たったボールが固いか柔らかいか感触でわかるそうです。そういうのを見ていったとき、本当に自分たちの身体はここで閉じているのか、もっと広い範囲までいけるのではないかとか、何か新しい未来を感じるのですね。
竹村
目の不自由な人が車椅子を押すという話を聞いて、道行くクルマもそうだなと思いました。車は走るのは得意で、すごいパワーを持っているけれども、自分で行き先を判断できない。目も持っていない。でも目の見える人間がナビゲートして車が走っている。人馬一体と言いますけれども、人車一体で、ある種のサイボーグとして動いているような感じです。そう考えると、そんなに特別なことでもないのかもしれませんね。
為末
実は、自分の義足開発の社名がXiborg(サイボーグ)といいます。皆さんパラリンピックの時だけワッと注目しますが、でも眼鏡をかけて視力矯正することや義足をつけること、おっしゃるように車に乗る事など、ぼくらは既にサイボーグ化しはじめていて、覚えなければいけないことはスマートフォンに情報として入れておいて必要なときに引き出して思い出す、これは記憶のアウトソーシングみたいな世界ですよね。
 ですから実ははじまっているとも言えるのですが、パラリンピックの世界が象徴的過ぎて、特殊に見えているようです。本当はもっと我々の世界と連続的で、いつの間にかぼくらはそのサイボーグの世界に入っていて、その先には兵器をつくるみたいな世界もあるかもしれませんが、そうではなく、もっと人間らしさが強調されていくような、物と人間との関係があるような気がします。
 彼らは「あし」と自分の義足を呼ぶのですけれども、どうせ何らかの意味でのサイボーグにぼくらはなっていくわけですし、どうせなら血が通ったサイボーグになっていく可能性を考えたい。それをパラリンピックの世界に感じます。
竹村
義足の先に当たったボールの柔らかさまで感じるという先ほどの義手や義足のお話は、まさに技術の進化もさることながら、それでも生身に比べればまだまだ未熟なテクノロジーを使いこなしてしまう人間の身体や脳のすごさ、適応能力をむしろ感じますね。サイボーグというのは人間が機械化するというようなものではなく、むしろ人間の無限の可能性をクローズアップするものかもしれません。
 そういう意味では、人間はまだすべて「未開」の存在で、まだ開かれていない人間の可能性を開いていく技術の可能性という文脈で、サイボーグやパラリンピアンの世界を捉えることができるかもしれない。未開というと文明に対する劣った世界、あるいは脱ぎ捨ててきた過去という意味で昔は使われていましたけれども、そうでなく未だ開かれざる、未開の可能性があって、その未開の可能性を機械との共生で開発していくのだと考えると、それは過去ではなく私たちの未来です。
 あるいは普段、私たちが飲むコーヒーやお茶も、元々は人間開発の技術でした。茶も禅の伝統のなかで使われた一種の軽いドラッグですよね。そうした覚醒作用の高い植物の薬効成分と共進化することによって、人間は新しい能力を開発してきて、それが今はもう日常的にコーヒーやお茶になっていますけれども、元々はそのようにして新しい次元を開いてきたのだと思うのですね。
 それで思うのは、結局スポーツというのは、パラリンピックも含めて何か総合的な「人間開発のOS」なのではないかと。先ほど出たように、単に身体と心の自己管理というだけではなく、ビジネスマン的なマネジメント能力やチームワーク力など総合的な人間力を高めていかないと、やはりアスリートとしても成功できないわけです。そう考えると、スポーツとは総合的な人間開発OSであり、人間を育てるのにこれほど良い回路はないのかもしれないと。昔の体育系とかアウトドア派といった分類を超えて、すべての人がスポーツを通して人間としての完成度を高めていくような、そのようなOSにスポーツはなってきているのではないか。イチローやスケートの羽生選手などを見ていてもそう感じます。
為末
やはり一番になるかどうかを目指していくスポーツ、従来の競技中心のスポーツというのは、未来から見ると相当狭いスポーツ観だと思うのですね。そうではなく、スポーツを通じて自分がどう開発されるかが重要な点ではないかと思います。
 人間の知性というのは本来、身体に宿っているのではないか。どうしても頭が考えて、頭が身体を動かすという観念から人間はなかなか抜けられないのですが、本当はたとえば腹が立つというとき、腹がないと実感としてわかないわけです。浮足立つというのも、足がないと浮足立つ感覚がわからないわけです。言語ひとつ取ってみても、ザラザラする、ツルツルするという身体が得てきた感触、五感で得てきたものが、実は言語の上でも様々な発想の上でも重要なわけです。スポーツだけではなくアートでも何でも良いのですけれども、身体を通じて得てきた情報というものの価値を、もう少し大事にしても良いのではないかと思います。
竹村
そうですね。だからアメリカの人工知能の学者さんなど、死んで身体がなくなっても脳だけ生き残れば良いと考えたりする人がいましたが、ついて行けないと思うのは、私たちがどれだけ身体という知性に支えられて活動しているかが抜けているからです。
 同時に、身体の知性を育てていく文化、OSとしては、もしかすると1000年前から人間は進歩していないかもしれない。あるいは数万年前の人類のほうが、狩猟もやりながら、シャーマニズムのような精神開発の技術も磨いていたかもしれません。ともかく、もっともっと身体の知性を取り戻そうとするとき、日本文化や東洋の発想の中にたくさんのOSが隠れていて、そういうものも総合した21世紀のオリンピックを、いわゆる西洋スポーツだけではない領域で開いていく可能性も、もしかするとあるのかもしれないという感じがします。
為末
あと、どうしても「見るスポーツ」がオリンピックの中心という感じになっていますが、どう参加できるかをもっと考えたいと思っています。具体的なアイデアはないのですけれども、でも今だったらインターネットみたいなもので一体感を持たせる方法など工夫があるのではないでしょうか。
 たとえば、これは選手のプライバシーに踏み込んでしまいますが、100メートルの選手たちの心拍数が、その頃にはきっとユニフォームで簡単に取れる時代になっていると思いますから、それと観客の、たとえば「ボルト」というTシャツを着た観客の振動が共振して一体感を持つとか、とにかくもっと観客がオリンピックを見ること、参加することによって目覚めていく。ないしは自分自身の身体でプレーすることも含めて、そういうオリンピック・パラリンピックというものを日本が提案していくことは非常に新しいし、日本がやると良いのではないかという気がします。

backnumber