リオデジャネイロ・オリンピック、カヌー・スラロームの男子カナディアンシングル。最後の選手を残して、羽根田選手の順位は3位。最後に競技をおこなうのは、準決勝で圧倒的なタイムをマークしたドイツの選手でした。彼が羽根田選手を上回れば、メダルに手が届きません。そのときのことを、羽根田卓也さんご本人に伺いました。

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「ゴールした瞬間は、よくても5位6位くらいかなと思ったんです。でも、後続の選手がバタバタとくずれはじめて、残りふたりひとりとなったときは祈る気持ちで、何とか表彰台に、という感じでした。最後のひとりになったときは、自分でも心臓がバクバクいってるのがわかるくらい緊張して。息が荒くなって、ゴール間際のときは吐き気さえするくらいの状態でした。その最後の走者が僕より上に入るか下に入るかで僕の人生が変わってしまうのが分かっていたので、人生を左右する瞬間でしたね、あのときは。」

人生を左右する瞬間。この結果は、みなさんご存知の通りですが・・・ここに至るまでには、長い道のりがありました。羽根田卓也さんは、愛知県豊田市出身。子どものころにカヌーを始めます。

「10歳くらいのときに父と兄の影響で始めました。もちろんカヌーは夏とかにはほんとに気持ちいいスポーツでありレジャーなので、楽しい場面はたくさんありました。でも、父が競技カヌーのほうに力を入れていたので、寒い時も練習させられたりつらい練習もたくさんあって、最初はいい思い出よりも辛い思い出のほうが多かったです。実は中学生くらいまではなかなか好きになれなくて、"いつカヌーをやめてやろうか"と思っていたんです。何より好きになれなかった理由が、激流に対する恐怖。流れに対する恐さを克服できるまではなかなか好きになれなかったんですけど、中学生くらいからどんどん恐い流れがなくなっていって、恐怖を克服できてからはカヌースラロームの魅力に取り付かれて、競技にのめり込んでいきました。」

高校3年のとき、スロベニアでおこなわれた世界大会に参加した羽根田選手。遠征中に大きな決断をします。

高校3年生のときに自分が目標としていた世界大会で、少し・・・少しじゃないな。かなり悔しい想いをして、悔しい想いをすると同時に世界でも通用するかもしれないという手応えを感じたんです。でも今のまま日本で練習していては世界で戦っていけないというのを痛感する大会になりました。ヨーロッパから父親に手紙を書いて、"どうしてもヨーロッパに行かせてほしい"ということをお願いしたんですけど、人生のなかで一番大きな決断ですね、今のところ。」

2006年、羽根田選手は単身スロバキアへ。尊敬する選手、ミハル・マルティカンさんの出身地、スロバキアの街、リプトフスキー・ミクラシュへ練習拠点を移したのです。

日本の十分じゃない環境でトレーニングをしていては、低いレベルうずもれてしまう、という危機感が強かったんです。カヌー・スラロームというのは、オリンピックとか世界選手権などトップレベルの大会は人工のコースでおこなわれるんです。山奥の渓流ではなくて完全に人工のコースでおこなわれるんですが、日本にはそういう人工コースがありません。人工コースで日常的に練習しないと世界では戦っていけませんが、スロバキアにはそういう人工のコースがあるんです。

言葉はもちろんソロバキア語は話せませんでしたし、最初は何よりスロバキアに日本人が来るのが珍しくて奇異の目で見られたというか、そういう感覚はありました。コーチも英語がしゃべれない人で最初は意思疎通がうまくいかなかったんですけど、自分から、これはもうスロバキア語を覚えたほうが早いと思って、積極的にスロバキア語を覚えるようになりました。」

"日本人"が珍しい街で、言葉もできないなか、トレーニングの日々が続きました。2012年、ロンドンオリンピックで入賞。確実にトップに近づいているという手応えをつかみます。そして今年の夏、リオデジャネイロ・オリンピック。カヌー・スラロームの男子カナディアンシングル。羽根田選手は準決勝6位の成績で、決勝にのぞみました。

「だいたい全長250メートルくらいの激流のコースのなかに、20ゲートから25ゲートくらい、設置されたゲートを決められたように通り抜けながらタイムを競う競技です。

ゲートに触れてしまうと2秒加算されて、通れないと50秒加算されてしまいます。準決勝6位で、タイム的には少しあったんですけど、決勝は攻めていくしかないな、っていう気持ちでコーチと話して、ゲートぎりぎりを攻めて表彰台を狙う漕ぎでいきました。ゴールしたときに暫定1位と差があったので、ゴールしたときはメダルに届かないかなという印象がありました。」

最後の選手を残して、羽根田選手の順位は3位。最後の選手、ドイツのタシアディス選手がスタート。鼓動が早まり、息も荒くなります。運命のとき。結果は・・・タシアディス選手、羽根田選手に届かず。羽根田卓也選手、銅メダルが確定しました!

「何を思ったかというよりも、涙が出て来てしまって。スロバキアに渡って10年、いろんな決断があって、いろいろ感情にふたをしてきたこともあったので、その我慢が一気に報われたというか、夢はかなうんだなと実感した瞬間でしたね。

一番大変だったのは、僕の前にメダルをとった先輩がいるわけでもなく、日本人にとってメダルをとるということが想像しがたい時に僕はそういう目標を持って。そのなかで僕はスロバキアに行く決断をしたり、スロバキアで大学に通ったり、道なき道を暗中模索しながら見つけてきたという気持ちがあったので、届かなかったものにほんとに手が届いてしまったな、という気持ちですね。」

他の国の選手も、羽根田選手のもとに集まり、アジア初の快挙を祝福しました。最後に、もうひとつ。メダルを獲得したあと、カヌーを始めるきっかけをくれたお父様、お兄様とはどんな言葉をかわしたのでしょうか?

「そんな言葉を多く交わす親子じゃないんで。(笑)現地では会えなくて、大会終わったあとに、メールでひとこと『やったよ』って僕から送って、父からは『おつかれさん』と、それだけです。兄からは、大会終わってから『最高の弟よ』って(笑)。既読スルーしましたけどね。」

クールで、ひょうひょうとした印象の羽根田卓也選手。そんな彼が周囲の目を気にすることなく、歓喜の涙を流したあの日。前人未到の道を歩んでつかんだ、素晴らしい銅メダルの瞬間でした。