「親父、できたよ」国立競技場聖火台のHidden Story。

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以前の国立競技場。その聖火台を作ったのは、埼玉県川口市の鈴木さん一家です。中心となって作ったのは、父・鈴木萬之助さんと息子の文吾さんですが、今回は、文吾さんの弟・鈴木昭重さんにお話をうかがいました。

まず、聖火台の制作を請け負うことになったきっかけは?

「昭和33年のアジア競技大会があったんです。そのために制作したわけです。最初は、国のほうで大手のほうへ聖火台を作るように指示がいったわけだけど、あっちこっち聞いて歩いたけど、どこでもそれだけの職人がいないっていうことで、それで川口が鋳物の町だということで川口へ話がきたわけですよね。川口のそのときの市長が川口は鋳物の町として全国的にも売れてるんだから、断るわけにはいかないって、それで市長さんが受けて。川口にあの頃は鋳物屋が700軒くらいあって、聖火台をつくる場所のある鋳物屋はあったわけだけど、ただ、それを作る職人がいないわけだよね」

川口市から、鈴木家に相談がありました。父・鈴木萬之助さんは当時68歳。すでに なかば隠居の状態。話を聞いた長男の幸一さんは、断りました。 しかし、、、 

「長男は金銭と納期を見て『うちもできません』と何回も断ってたわけです。そのとき、親父が晩酌で廊下で飲んでたんだけど『なんでお前さっきから何回も何回も断ってるんだ?』って出てきて、『私が最後の仕事としてやります』とその場で受けちゃったんだ」

父・萬之助さんと、直接の弟子だった三男の文吾さん。ふたりは、その翌日から仕事に取りかかりました。昭和32年の暮れ。納期までは、あと3ヶ月しかありませんでした。

「誰が考えても無理な話で、他の鋳物屋さんもそんなのできるわけないって。でも、文吾とふたりでやれば何とかなるって。それでふたりだけじゃなくて長男も次男も仕事を放り出して、兄弟3人と親父と4人で始まったわけですよ。それで2ヶ月経って、一応、聖火台の型ができて鉄を溶かして、鉄を1500度まで溶かしたやつを流し込んだんです。でも今までにそんな勾配のきつくて2トン600もの作品を作ったことがないんで、その鉄を流し込む圧力でボルトがとんじゃったわけだよね。そこから鉄が流れ出て、それは失敗しちゃったんです。そうするとあと1ヶ月なんですよ。それも2ヶ月も徹夜徹夜でやったものをあと1ヶ月って誰が考えてもできないんだけど、だけどそんなこと言ってられないんだよね。アジア大会は日にちが決まっちゃってるから。しかも、親父はショックで寝込んじゃったわけ。あくる日から親父抜きで。私は鋳物師じゃなくて木型師なんだけど、そのときは勤めてたから1ヶ月休業届けを出して、それで兄弟4人で」

2ヶ月かかって準備した型は、鉄の圧力で壊れてしまいました。残された時間は、あと1ヶ月。しかも、ここでさらに大変なことが起こります。

「その1週間後に、倒れて1週間後に、親父が亡くなっちゃったわけ。そのときは文吾が主力でやってたから、親父が亡くなったっていうのを知らせたら、そこでもう気持ちがダメになっちゃうんだよね。俺の師匠がいなきゃもうできないってことで。

それで、長男と次男と相談して、文吾にだけは知らせるなってことにして。で、うちの工場は小さかったから聖火台の大きいの作れないんで大きな工場を借りてやってたわけだ。

葬儀の日に、その工場の専務さんが葬式に来てくれたんだけど、工場に帰ったらなんと文吾が仕事をしてる。

『お前、親父が死んだのに葬儀にでないのか?』って。

『え、誰の親父が?』

『お前の、文吾の親父が亡くなっちゃったんだよ』と。

文吾はびっくりしてうちすっとんでって、もうほんとにわめいて怒ったわけだよね。だけどまあ、何とかおさめて、葬式終わってからも兄弟4人で寝ずにやって、何とか納期に間に合ってできたわけだよね。2個目ができたときはすごかったですよ。

4人だけの喜びだけじゃなく、工場の人、市長さん、みんながバンザイってさ、ほんとに間に合ったってことで。それでそのとき、はじめて、じゃあ親父のお通夜をやろうっていって、文吾も参加してお通夜をやったわけなんですよね。

『親父、できたよ』って」

1954年、昭和39年、10月10日。東京オリンピック開会式。

鈴木昭重さんと 長男の幸一さんは、国立競技場にいました。

文吾は、仕事上、長野の善光寺に自分の作品をおさめに行っていたんで私と長男が代わりに行って見せてもらったんだけど、確かに、坂井さんが火をつけたときは感動でね、ふたりで涙を流しました。そのころオリンピックのころはテレビがあったからね、文吾は長野の善光寺の社務所で『
鈴木さん、これから火がつくよ』って呼ばれて、テレビで見たみたいなんだけど、『社務所で涙が出ちゃった』って言って。ほんとに涙涙だった、あのときはね」

今回お話をうかがった 鈴木昭重さんの兄、文吾さん。

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最後に、聖火台を中心になってつくった その鈴木文吾さんの Hidden Story。   

「オリンピックのあとね、兄貴が見にいったら、聖火台が焼けちゃっていたんじゃってるんですって。それで競技場に話をして 俺が金出すからってこれじゃ聖火台がかわいそうだからって言って、川口からレンガを運んで中にレンガを積んだんですよ。

文吾は責任感の強い人で、自分でごま油リュックでしょって、バケツ持って、毎年10月10日近辺になると聖火台を女房とふたり、磨きに行ってた。それが50年続いたわけだよね。それで室伏広治さんがその記事を見て、私も磨かせてくれって言って、兄貴が亡くなると室伏さんも、6年か7年磨いてくれたんだけど」

父が最後の仕事として選んだ聖火台。兄が磨きつづけた聖火台。そこに刻まれたのは、制作途中で天に召された父、萬之助さんにちなんだ「鈴萬」の文字。職人一家の想いが、まさに 熱い炎に、そして、あたたかい灯りとなって、競技場を照らし続けたのです。