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STORY

2018.03.17

サーフボードビルダーの関澤ヒデさん

++ Introduction ++
サーフボードビルダーとは、サーフボードを作る方のことを言うのですが、
一般的に、サーフボードは工場の中で分業制になって作られており、
関澤さんも、元々はそういった工場で働いていました。
しかし、もっとお客様にすべて自分の責任で届けたいと思い、
独立して、一人で作ることを決め、サーフボードビルダーとして活動しています。
一人で作業をおこなうサーフボードビルダーは最近増えてきましたが、
関澤さんが業界に入った頃は、あまりいなかったそう。
サーフボードを作るプロセスは、
色んな素材がある中で、一般的に使っているのはポリウレタンで出来た素材。
その素材がサーフボードに近い形になった型をアメリカから輸入している業者から
買い取るところから始まるといいます。
既製品のサーフボードとの違いは、工程の時間。
ひとつひとつに対して向き合う時間を、恐らくメーカーの方たちも同じ思いですが、
それよりも深くしたいという願いで、ひとりひとりに向き合っているそう。

『まずは、お会いしてその人の感覚を知るところからです。
右足が出るか左足が出るか、お茶が好きか嫌いか、空が嫌いか、音も…。
全てのその人の感覚を知りたいところから始まります。』

その作業が作っている中で、ボードに勝手に反映されるのだとか。
作業しているとき、関澤さんはボードを客観的に見ていて、
「〇〇さんの板はこうなっていくんだなぁ」と思いながら、
その調子が悪いか悪くないかは、それまでのお客さんと関澤さんの
過程やプロセスが大切だと思っていて、物への愛情が生きるか生きないかは、
そういうところから始まっていると思っている、とおっしゃっていました。

関澤さんの作るボードの特徴は、
サーフィンは波に乗ることが大切だと思っており、
波に沢山乗れるサーフボードを作っているのだとか。
サーフィンは精神世界に近くて、
その人が日常と海上、同じ波長で気持ちよく滑ることをサポートしたい
という思いで活動しているとのこと。


++ Until now ++
子供の頃は、本人曰く「最低な男」だったそう。
傲慢で、努力もせずに色々なことができ、スポーツばかりしてきたとか。
小学生の頃は毎日ソフトボールの練習をし、
毎週行われる試合では「常に勝ちたい!」
というような人生を大学生まで送っていたそう。
中学校2年生の冬に、サーファーだった叔父に
「おまえ、サーフィンしろ。」と言われ、サーフィンに連れて行ってもらい
これが今に繋がる一番の原点だったとのこと。
でも、そこではサーフィンにのめり込まなかったといいます。
そこから高校、大学とアメリカンフットボールをやり、
大学生の時に、日本一になりたいと思い、アメリカンフットボールの名門校へ
入りました。大学3年生の時に、友人が就職活動のため部活を休む中、
関澤さんも練習をサボりたいと思い、就職活動をすると嘘をついて、
サーフィンをしに海へ行っていました。
海の上で、夕方の風景を見たときに「満たされている」と感じたそう。
海の中で、自然の中で、この感覚をいただいたことが
「これが僕の人生の豊かっていうものなんだな」と突然思ったのだとか。
そして、「この時間を持てないような暮らしはしないでおこう」
と思ったといいます。
その後、大学4年生の時に、たまたま行ったサーフショップのオーナーが
「今、サーフボードの工場で若い人を探しているから行ってみて。」
と言われ行ったところ、「明日から来れるか?」と聞かれ、「はい」と答えたら
就職が決まったとのこと。
工場から独立をして、自分でサーフボードを作る工場を作ったのは、
前の職場は毎日ノルマがあって、本当にお客さんはオーダーシートだけで
作りたい全てを伝えて、僕たちはその思いをくみ取れているのか、、、
と疑問に感じ、もっとお客さんひとりひとりに力を入れたいと思い、
独立したとのこと。

++ Right now ++
関澤さんが工房を構えたのは、横須賀市秋谷という場所。
ここで生まれ育ちました。
山の麓に父親の同級生の持っている竹林を借りて開墾し
今の作業場を9年前に自分たちで建てたとのこと。
横須賀市は相模湾側と東京湾側でだいぶ雰囲気が変わり、
関澤さんの住んでいる秋谷は、葉山のすぐ隣町。
なので、たまに来る方には「葉山っていいですね」と言われるそうですが、
住んでいるのは秋谷という場所で、関澤さんが生まれ育った大事な地名があったり、
風土があったり、近所のおばさんの話し方があったり、
それを大切だと思って、そこで生活しているといいます。

関澤さんが行ってみたい場所は・・・

『僕は全国に全員に手渡しで納品をしています。
自分の車に板を乗せて、先々週までも西日本に納品だったので、
3000キロぐらいを僕の弟子と僕とで代わりばんこに運転しながら
1週間ぐらい板を届けに行くんですね。だから、行ってみたい場所っていうのは
日本ではほぼ今、コツコツと行ける場所を知っていってる形で、
僕が今までの中で、世界の中で行ってみたいな、
またあそこに行って仕事したいんだよなって思うところはバスクという場所で。
あそこは僕はご縁があって、1ヶ月ほど仕事させていただいたんです。
で、5本ほどサーフボードを作らせていただいて、旅費に替えさせていただいて、
ただ、その1ヶ月間の間、もう5人いてくれたんですけども、
その方たちのボードを作れていないんですね。
もう、5、6年経っちゃってると思うんですけど、
そこに行ってその人たちに作りたいなという気持ちはまだあります。
バスク語をしゃべるサーフボードビルダーを紹介していただいて、
僕はその倉庫の汚いシェイプルームの粉だらけの場所に段ボール敷いて、
サーフボードを入れていった毛糸のケースにくるまって、1週間寝て過ごしました。
やっぱり僕ら日本人の生活環境すべてが恵まれすぎているんだなと
そして、日本って素晴らしいなってことを深く感じました。
ただ、不便の良さだったり、経済的に破綻した国の豊かさだったり
そういうものを目の当たりにして
「あ、なるほど、仕組みというのはこういうものなのか」
と体感して帰って来た感じです。』


++ From now on ++
後継者を育てることについて、、、
関澤さんは、自分の子どもたちを後継者として育てたいと思っていたところ、
たまたまの縁が重なって、今、女性のサーフボードビルダーを育てているとのこと。
これだけ素晴らしい仕事なのに、日本には女性でサーフボード1本を
すべて自分で手作りする女性を、見たことも聞いたこともない現状。
キラキラした目で大きな波に一緒に乗ってキャーキャー言っている姿を見て
「こういう生き方したくないの?」と投げかけると、
一つ返事で「やらせてください。」と返ってきたので、
次の日には、全行程をやらせたそう。

実際、自分の子どもに、自分のやっていることを丁寧に教えることができるか、
と思った時に、他人だから親身になって、
甘さよりもキツさを教えられているとのこと。

彼女が来て1年ほど経ちましたが、毎日日記を書かせているのだそう。
関澤さん自身、毎日3時間しか寝ることができない生活を10年以上続け、
毎日日記を書いていたので、それを彼女にもやってもらい、続けてきたことで、
お客さんがつくようになったとか。

修行に来て14年経ってからやっと作業させるのではなく、
今始めていないと間に合わない。
関澤さんは、自分の家族だけではなく、目の前に可能性のある方がいたら必ず・・・
という信念はこれからも伝えていきたいことです、、、とのことでした。

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