2014年09月26日

最終回 『THE HUMAN』今週は・・・アフロビートのパイオニア!!

古今東西、様々な時代の扉を開き、
歴史・文化・伝説を作ってきた人々をクローズアップし、
その足跡と魅力に迫る1時間。

先週フォーカスしたのは、ジャコ・パストリアス。いかがでしたか?

ジャコパスこと、ジャコ・パストリアスの本名は
ジョン・フランシス・パストリアス三世。
1951年12月1日、アメリカ、ペンシルバニア州フィラデルフィア郊外の
ノリスタウンで生まれる。

祖父は軍の音楽隊でドラムを叩き、その息子である
ジャコパスの父、ジャックも、地元のクラブでジャズ・シンガー、
兼ドラマーとして活躍していました。父のジャックは、時には、
息子たちを自分が演奏するナイトクラブに連れていき、ステージにあげて
歌わせることもあったそうです。
祖父も父も、将来は立派なミュージシャンになる事を期待し
ジャコ本人も、12歳の頃には最初のバンドを結成しています。
この時のパートは、ドラム。

また少年時代のジャコが夢中になったのは、音楽だけではなく、9歳から地元の
リトルリーグに所属し、13歳からはシニアリーグの優秀選手として活躍したそうです。
運動神経抜群だったジャコは、野球だけでなくサッカー、アメフト、バスケットと
何をやらせても上手でチームの中心的存在として輝いたといいますが、
13歳の時、リトルリーグのアメリカン・フットボールの
練習に参加していたジャコが練習中に悪質なタックルをうけ、
左手首を骨折するというアクシデントに見舞われます。
不運なことに、手首が麻痺する状態に陥り、手術でなんとか麻痺は解消しますが、
このケガのあと、ジャコは以前の様にドラムを叩けなくなってしまいます。
このままバンドを脱退するしかないと諦めかけたジャコでしたが、
バンドでベースを弾いていたメンバーが、夏の間ヨーロッパに
行くことになり、バンドはベースをジャコに任せて、急場をしのぐことにしました。

ジャコは街の質屋に飛んでいき、エレクトリック・ベースを購入。
それまでベースを弾いた経験は全くありませんでしたが、人一倍大きな手と、
関節が自由に動くジャコの親指は、ベースを弾くために神から与えられたのではと
思うほど、ぴったりで、あっという間にベースを弾きこなせるようになります。

地元のバンドで、ドラマーからベーシストに転向したジャコはめきめきと
頭角を現し、独自のベーステクニックも身につけたジャコは、
南フロリダの有名バンドに参加するようになります。
高校生にしてトレイシーという女性と学生結婚をしていたジャコは、
生活費を稼ぐため、マイアミやハバナに向かう豪華客船でも
演奏をしたことがあるそうです。船がセント・トーマスやナッソーに停泊すると、
ジャコも陸にあがり、地元のカリプソやレゲエミュージシャンと交流し、
音楽知識を吸収していきました。

才能は誰もが認めたジャコでしたが、気分の浮き沈みが激しく
俺は世界最高のベースプレイヤーだ!と叫びながら走り回ったり、
自分が正しいと思ったことは決して譲らなかったりしたそうです。

1975年、当時、世界的に有名だったバンド、
ブラッド・スエット&ティアーズのドラマー、ボビー・コロンビーは、
ライブの前にふらっと海岸を散歩している時、
陽気そうなブロンド娘、トレイシーを見つけて声をかけます。
彼女は、彼がその夜、ライブに出演する店でウェイトレスをしているといい、
これはいけると思ったコランビーでしたが、彼女は「あいにく私は結婚してるの」と
答え、さらに「私の夫は、世界最高のベース・プレイヤーよ」と言います。
彼女があまりに可愛かったので、「実は私はミュージシャンでプロデューサーでも
あるんだ。ひとつ君のダンナのプレイを聴いてみたいもんだね」と、
また逢うための口実を口にします。
その翌日、「俺がジャコ、トレイシーの夫だ」とジャコがクラブに顔を出し、
ベースをアンプをつなぎ、演奏をはじめると、ボビー・コロンビーは、
髪の毛が全て逆立ち、目が飛び出すほどのショックを受けたといいます。

それまで出会ってきた、すべてのベーシストが霞むほどジャコの非凡な才能に
驚嘆したコロンビーは、ナンパした女性のことも忘れて、ジャコにプロデュースを
申し出、さらにエピックレコードの知り合いに「すごく特別な男を見つけた!
そいつは独創的なプレイヤーで、正真正銘の天才だ」と電話をかけます。
その年の10月、ニューヨークのスタジオでレコーディングが始まり、翌年、
ジャコのファーストアルバム「ジャコ・パストリアスの肖像」がリリースされます。
この作品は、それまで縁の下の力持ち的な存在だったエレクトリック・ベースと
南フロリダの天才ベースプレイヤー、ジャコ・パストリアスの名前を
広くに世間に知らしめる、記念すべき一枚となりました。

ジャコはヒッピーのような装いと、ワイルドなステージアクトで若者たちの間で
伝説的なヒーローとなっていきますが、人気・実力ともに世界の頂点へ上り詰めた
ジャコは次第に孤独感にさいなまされるようになっていきます。

1978年、音楽雑誌「ダウンビート」が行った、評論家と読者が選ぶ人気投票で、
エレクトリック・ベースプレイヤー部門の一位を獲得し、名声を手にした
ジャコであったが、その言動が波紋を呼び、次第に浮いた存在へとなっていった。
ちょうどその頃、妻のトレイシーが離婚を申し立て、子供の養育権と家も
手放すことになります。公私に渡って、気詰まりなことが増えたジャコは
元々の持病である躁うつ病も悪化し、酒やドラッグで気を紛らわせるように
なっていきます。そして酒やドラッグでの昂揚した気分が、新たな騒動を生む
悪循環に陥り、はじめは心配したり、忠告してくれた友達も
次第にジャコから離れていくようになってしまいます。
ステージ上でのトラブルだけでなく、感情の起伏を抑えられなくなったジャコは、
数々の騒動を起こし、レコード会社からも契約を解除されてしまいます。

その後、さらに生活は荒れてゆき、晩年はホームレス同然の状態だったというジャコは、
1987年9月11日、地元のナイト・クラブに行くが、彼の身なりと態度から、
クラブの用心棒に入場を拒否され、機嫌を損ねて暴れるジャコと乱闘となり、
マーシャルアーツのエキスパートだった用心棒が手を下した結果、ジャコは
頭蓋骨と顔面骨折と広範囲に渡る出血で意識不明となり、10日後の9 月21日、
ジャコ・パストリアスは35歳の若さで帰らぬ人となりました。

さて、歴史・文化・伝説を作ってきた人々をクローズアップし、
その足跡と魅力に迫ってきた「THE HUMAN」ですが、次回が最終回となります。
最終回にフォーカスするのは、

【フェラ・クティ】

フェラ・クティ.JPG


1938年10月15日に、ナイジェリアの首都ラゴス北部にある
アベオクタという街で生まれる。1960年代から70年代を中心に活躍し、
音楽を通して反体制運動や黒人解放運動を行なった伝説のミュージシャン。
生涯に132の曲を書き、77枚のアルバムをリリースするが、
ナイジェリア政府によって放送禁止となったり、幾度となく不当逮捕された
牢獄の中でも歌を作り続け、後の音楽シーンに大きな影響を与える。

★フェラ・クティの権力との闘争!

☆アフロビート誕生秘話!


ゲストに音楽評論家の松山晋也さんをお迎えし、
フェラ・クティの魅力に迫ります!

放送は9月28日(日)
20時00分〜20時54分。


お聴き逃しなく!

staff| 12:13 | カテゴリー:MUSIC

2014年09月14日

第73回 『THE HUMAN』今週は・・・天才ベースプレイヤー!!

古今東西、様々な時代の扉を開き、
歴史・文化・伝説を作ってきた人々をクローズアップし、
その足跡と魅力に迫る1時間。

先週フォーカスしたのは、ジャック・タチ。いかがでしたか?

ジャック・タチの本名は、ジャック・タチシェフ。
1907年10月9日、パリ郊外のペックで生まれる。

二十歳の年に、軍隊に招集され、軍隊を除隊後にジャックが、夢中になったのが
ラグビー、フランス・レーシング・クラブという名門チームに加入したことが
きっかけで、喜劇役者への道が開きます。
ジャック・タチシェフが参加したラグビーチームは、試合が終わると、
いつもモンマルトルの丘にあるレストランに繰り出し、飲んで歌って、
最後は隠し芸を披露していました。
ある夜、チームは、電話ブースの明かりだけを残し、ホールの照明を消して
パフォーマンスを行いました。それはジャックを中心とするメンバーが、
自らの影を映し出してタックルやパス、スクラム、トライなど、昼間に行った試合を
壁に再現するものでした。彼らの芸は、大喝采を浴び、
やがて他のレストランからも声がかけられるようになったチームは、
昼はラグビー、夜はパフォーマンス集団として活動するようになります。
ある夜、メンバーは揃っているのに、出し物のきっかけを作るピアニストが
いつまで経っても姿を見せないアクシデントが発生。
焦るメンバー、不穏な空気が漂う客席。
見かねたジャックは、いきなり舞台にあがると1人でボクシングのパフォーマンスを
はじめます。二人のボクサーの闘いを演じ分けると、続いてはサッカーの
ゴールキーパーの動きだけで、試合の模様を手に取るように描写。
さらにラケット一本で、手に汗握るテニスの名勝負を演じるなど、
数々のスポーツシーンを即興で披露し、余興の域を超えた、レベルの高い
パフォーマンスに、会場は異様な熱気に包まれたといいます。
この夜、彼が演じた模写芸は「無声スポーツ」と名付けられジャック・タチシェフの
名前と共に、広まっていきます。
1934年には、劇場の支配人にスカウトされメインのレビューの幕間芸人として
雇われたジャックは、連日大喝采を浴び、最終的には、
第桔襪離肇蠅鯡海瓩襪海箸砲覆蠅泙后このレビューをきっかけに、
本腰を入れて芸人となったジャック・タチシェフ改めジャック・タチとなった彼は
十八番のパフォーマンス「無声スポーツ」改め「スポーツの印象」で
人気コメディアンとなり、やがて映画業界からも声がかかります。

1932年から38年まで、ジャック・タチは、役者、そして脚本家として五本の
短編映画に関わります。戦後は、短編喜劇「郵便配達の学校」を企画。
ジャック・タチが出演、脚本 監督の三役を務めたこの作品がヒットを記録したことで、
長編製作への道が開けます。
1953年に公開された「ぼくの伯父さんの休暇」でジャック・タチが生み出した
「ムッシュ・ユロ」というキャラクターが初登場し、さらに、彼の日常を描いた
「ボクの伯父さん」がアカデミー賞最優秀外国映画賞、
カンヌ国際映画祭審査員特別賞を受賞し、ジャック・タッチと彼が演じるユロ氏は
フランスの国民的スターとなりました。

「ぼくの伯父さん」撮影中、ボロボロのアメ車を用意しろと小道具係に指示した
ジャック・タチは、撮影当日にピカピカの新車が駐車しているのをみて、
私の話を聞いてなかったのかと、スタッフを叱り、慌てた美術スタッフが、
総出で車を叩き壊したが、いざ本番で、車を入れようと門を大きくあけると、
そこにはもう一台のアメ車が現れ停車していました。よくよく確認してみると、
手配したのは、あとから来た車で彼らが壊したのは、俳優ユル・ブリンナーが、
ヨーロッパで一番乗りしようと、アメリカから船で運ばせた高級車だったといいます。
さすがに、その事実を知らされたジャック・タチも愕然としたがプロデューサーから
顛末を聞かされたユル・ブリンナーは、笑って面白がってくれたといいます。

「ぼくの伯父さん」シリーズで名声を高めたジャック・タチは1960年代に入った、
ある日曜の朝、休日を田舎で過ごそうとするパリっ子たちの車が高速道路から
あふれんばかりに走っているのをじっと見ていて、
近代化を象徴するようなウルトラモダンな街を舞台に、人々が右往左往する
様子を描く・・・。という新作の構想を思いつきます。
こうして、超大作「プレイタイム」の製作が開始されますが、1961年に
国立映画センターから、興行収入を担保に製作資金の融資を取り付けますが、
最初の見積もり総額は282万フラン。
ところがこの予算は大きくオーバーしていきます。

1964年7月に、パリの東、ヴァンセンヌにほど近い1万5千屬
土地を借り受け、セットを建設する工事が始まりますが、セットといっても、
すべての建物の五階までは鉄骨とガラスを使った本物のビルで、
セントラルヒーティングもエスカレーターも完備。
地下には排水溝も設置された本格的なもので、セット内の電力を供給するため
2つの発電所もそなえていました。
しかし街の建設が進むにつれ、映画の予算と予定時間は確実にオーバーし、
しかもジャック・タチは、より迫力ある作品にするため最新システムの
70ミリフィルムにこだわり、音響面でも、6トラック、ステレオ音響の使用を決断。
こうしたこだわりの積み重なりで度々、制作予算がショートし、
資金不足の中断は6度に及び、1967年10月、撮影日数345日、
総製作費は15億フラン。当時の為替レートでおよそ1093億円という、
フランス映画史上類を見ない超大作が完成します。
人々は、空前絶後の大作映画でしたが、興行的には惨敗となり巨額の負債を抱えた
ジャック・タチも破産してしまいます。
世間や評論家からもバッシングを受けたタチでしたが、幸いにも他の国からの
支援を得て再び映画製作を開始。最後まで、チャレンジ精神を忘れなかった
映画人としてジャック・タチの作品は今も多くの人々を魅了しつづけています。


さて、第73回目にフォーカスするのは、

【ジャコパストリアス】

ジャコパストリアス.JPG


1951年12月1日、アメリカ、フィラデルフィア郊外のノリスタウンで生まれる。
多くのミュージシャンや音楽評論家が世界一のベースプレイヤーとして名前を
挙げる。
裏方的存在のベースという楽器にスポットを当てさせたミュージシャンとも言われる。
天才ベーシストとして世界の頂点を極めたものの、酒とドラッグに浸かり、
さらに双極性障害、いわゆる躁鬱病という持病を持っていたせいか、
晩年はスキャンダラスな奇行も増えていき、35歳の若さで悲劇的な最期を迎える。


★ジャコパスのデビュー秘話!

☆ジャコパスの奇行!


ゲストにジャコパスのベースをお持ちという中村梅雀さんをお迎えし、
ジャコパストリアスの魅力に迫ります!

放送は9月21日(日)
20時00分〜20時54分。


お聴き逃しなく!

staff| 15:29 | カテゴリー:

2014年09月12日

第72回 『THE HUMAN』今週は・・・フランスを代表する映画監督!!

古今東西、様々な時代の扉を開き、
歴史・文化・伝説を作ってきた人々をクローズアップし、
その足跡と魅力に迫る1時間。

先週フォーカスしたのは、マザー・テレサ。いかがでしたか?

マザーテレサの本名は、アグネス・ゴンジャ・ボワジュ。
1910年8月26日に地中海沿岸、北東部の旧ユーゴスラビア、
マケドニアのスコピエという町で生まれる。

3人きょうだいの末っ子として生まれたアグネスは家族のあたたかい愛に包まれ、
すくすくと育ちますが、9才の時、父のニコラが急死。
経済的な余裕はないもの、お母さんは5人の子供のいる貧しい
パン屋の一家と、身寄りのない未亡人を家に家族として住まわせ、
子供たちに恵まれない人たちへの思いやりを生活の中で実践して
伝えていたそうで、アグネスも12才の頃には
「大きくなったら修道女になって、神様や人々のために働きたい」
と思うようになっていたそうです。
18才の時、アイルランドにあるロレット修道会が、修道女をインドに
派遣しているという話を耳にしたアグネスは修道女になりたいという想いを
家族に打ち明けます。
そして1928年10月、アグネスは母と姉、お母さんが支援していたたくさんの
貧しい人々に見送られ、泣きながら別れを告げました。
その後二人と会うことは二度とない、永遠の旅立ちだったそうです。
パリで行われた修道会の面接試験に合格したアグネスはアイルランドのダブリンで、
修道女になるための訓練と英語の特訓レッスンを受け、自ら志願した布教先、
インドに1929年1月6日に到着します。
アグネスはこの年の5月、20歳で修道女としての誓願を立て、修道名にテレサを
選んでいます。
若きシスターとなったテレサは、26才の時には、生涯にわたって神に仕える
「終生誓願」をたて、正式な修道女となり、34歳で聖マリア女学校の校長に昇格します。

社会から見捨てられ、底辺で生きる人々を目の当たりにしたテレサは、
1946年、9月10日、テレサは夜汽車の中で「すべてを捨てて、
もっとも貧しい人々仕えなさい」という神の声を感じ、
思いを行動に移す決意を固めました。

大司教から修道院を離れることを許されたテレサはロレッタ修道会の黒い修道服を脱ぎ、
露店で見つけた聖母マリアの美しい心を現す三本の線で縁取り、キリスト教徒の
証しである十字架を左肩にあしらった、粗末な白いサリーを纏います。
そしてテレサは、貧しい人々の中でももっとも貧しい人々への心からの献身を誓い合い
「神の愛の宣教者たち」という会を結成、1950年にローマ法王から正式な
修道会と認められます。この時から創立者のシスター・テレサは、
マザーテレサとなり、人々からマザーと呼ばれるようになりました。
誰にも分け隔てない、献身的な「神の愛の宣教者たち」の活動は、
やがて多くの支持者を得てインド国内にも広まっていきました。
修道会の活動開始から12年後の1962年、インド政府からパドマ・シュリ賞を
授与され、マザーテレサ達の献身的な活動は、バチカンでも高く評価される
ようになり、1964年には、ローマ法王パウロ6世がインドを訪問します。
法王は帰国する際、インド各地を視察するためにと法王に用意された高級車、
リンカーン・コンチネンタルをマザーテレサにプレゼントとして贈ります。
もちろん、マザーが高級車に乗る事などあり得ない事ですが、ちょうどその頃、
ハンセン病患者とその家族のための施設を作ろうと考えていたテレサは、
法王の車を使ってお金を集めることを思いつきます。

それは…車を売り払うというものでも、法王が乗った車を    
展示して客を集めるというアイデアでもなく「ローマ法王が乗った高級車が
当たる宝くじの販売」でした。
マザーの施設に寄付ができるうえ、高級車が手に入るという夢が付いた宝くじは、
飛ぶように売れ、テレサの予想をはるかに上回る販売資金4万5千ルピーで、
ハンセン病患者のための理想郷 「平和の村」が完成します。
マザーテレサ、59歳の時の事だった。

1979年、ノーベル平和賞を授与された際もマザーテレサはいつもと変わりない
白いサリーにサンダル姿で壇上にあがり「私はこの賞をいただくのにふさわしいとは
思っていません。でも、私が賞をいただけば、みなさんが貧しい人の事を
思い出してくださるでしょう。ですから、愛に飢えた世界中の
最も貧しい人の代表として、この賞をいただきます」とスピーチ。
そのお金で、スラムの住人1万5000人の食べ物が買えるとノーベル賞受賞を
祝う晩餐会は辞退し、およそ4400万円の賞金も全額貧しい人々のために
使われたということです。

さて、第72回目にフォーカスするのは、

【ジャック・タチ】

ジャックタチ.JPG


1907年10月9日、パリ郊外、ペックという街で生まれる。
1940年代から70年代にかけて活躍したジャック・タチの代表作は、
「ぼくの伯父さん」シリーズ。のっぽで小さな帽子をかぶり、パイプをくわえ、
大きなレインコートと寸足らずのズボンを着用した無口なキャラクター
「ユロ氏」を生み出したジャック・タチは、ささいな日常生活にあるユーモアを
追求したと言われ、当時のお金で1093億円の製作費を注ぎ込み
フランス映画史上屈指の超大作といわれる「プレイタイム」を手がけたことでも
知られる。


★ジャック・タチの特技とは?

☆1093億の超大作「プレイタイム」の制作秘話!


ゲストに小柳帝さんをお迎えし、ジャック・タチの魅力に迫ります!

放送は9月14日(日)
20時00分〜20時54分。


お聴き逃しなく!

staff| 13:03 | カテゴリー:

2014年09月05日

第71回 『THE HUMAN』今週は・・・カルカッタの聖女!!

古今東西、様々な時代の扉を開き、
歴史・文化・伝説を作ってきた人々をクローズアップし、
その足跡と魅力に迫る1時間。

先週フォーカスしたのは、大瀧詠一。いかがでしたか?

1948年7月28日、岩手県江刺郡、現在の奥州市江刺区に生まれる。
メカ好きな性格で、小学生の頃から鉱石ラジオを組み立て、
10才の頃、アメリカンポップスに傾倒していきます。
中学時代は、ラジオ・クラブに入部し、より高性能な自作ラジオで
日本中のラジオ局から流れるポップスを聴きあさり、
おこずかいをもらい始めたことでレコード収集を開始します。
当時、おこづかいは全部レコードに使っていたそうで、
この人が好きだから…ではなく、いい曲を手当たり次第買うのが
大瀧さんのポリシーだったそうですが、エルビス・プレスリーとビートルズは
別だったそうです。多感なこの時期、音楽以上に聞いていたというのが落語です。
後に大瀧詠一は、人生には、様々な場面で決断を迫られますが、状況判断に必要な
知恵はすべて落語にある、落語は実用的な哲学だと語っています。

1962年から66年までのヒットチャートは、すべて覚えているというほど、
人並みはずれた記憶力とビートルズが好きだからリバプールサウンドを
すべて買い集めたように、好きなものは、とことん追求してコンプリートしたい
というマニア魂の大瀧詠一が、情報の少ない岩手ではなく
上京しようと考えるのは自然の流れでした。1967年、大学受験に失敗すると、
上京し小岩の製鉄会社に入社しますが、音楽活動に専念するため、
わずか20日出社しただけで退社してしまいます。
ちなみに会社員時代、ビートルズの「ガール」をアカペラで歌い、その数日後に
辞表を出したところ、上司から「キミはこういう所にいるべき人間ではない」
と言われたエピソードは有名である。

会社を辞めた大瀧さんはその翌年、1968年、早稲田大学第二文学部に入学します。
そんな大瀧さんが、自分と価値観が同じだと意気投合したのが
バンドメンバーを通じて知り合った立教大学の中田佳彦さんと
中田さんから紹介された細野晴臣さんでした。
3人で交流を深めるうちに、細野さんから自分のバンドを解散して、新しいバンドを
作りたいから一緒にやらないかと声をかけられます。
松本隆さん鈴木茂さんそして大瀧さんの4人で結成したこのバンドは
「ヴァレンタインブルー」としてスタートしますが
1970年3月にバンド名を「はっぴいえんど」と改名。
ロックのメロディーに日本語の歌詞を乗せる、当時としては
斬新な試みが大いに話題となり「日本語ロック論争」も起きました。

そして1981年、渋谷公会堂で、今もファンに語り継がれる
ヘッドフォン・コンサートが開催されました。
メカ好き、機械オタクを自認する大瀧詠一がコンサートにおける音質を追求したいと
実施したもので文字通り観客がヘッドフォンをしたまま、コンサートを鑑賞する
という奇妙な試みであった。ステージ上で、行われる演奏は、ミキサーを通して
ステレオのFM電波として発信。観客は、会場の各座席に備え付けられた
FMウォークマンによって受信した音楽を聴くというシステムが作られました。

大瀧さんが日本の音楽シーンに残した功績はあまりに偉大だと言われていますが
ミュージシャン、アーティストとして活動するだけでなく
他の歌手に楽曲を提供するヒットメイカーとしても知られています。
松田聖子「風立ちぬ」、森進一「冬のリビエラ」、小林旭「熱き心に」、
吉田美奈子「夢で逢えたら」などなど、今も愛されている曲ばかりです。

そして大瀧さんは去年の12月30日に、自宅で林檎を食べている時に
解離性動脈りゅうに倒れ そのまま帰らぬ人となりました。
生前から健康に気を遣われていた大瀧さんは
「ぴんぴん コロリと逝きたいね」と言っていたとか。


それでは大瀧詠一の言葉を、
「いいものを見つけるには、ダメなものを数みなきゃいけない。」


さて、第71回目にフォーカスするのは、

【マザー・テレサ】

マザーテレサ.JPG

1910年8月26日、マケドニアのスコピエで生まれる。
地中海鉛岸のマケドニアに生まれ、若くしてカトリック教会の修道女として
インドに渡ったマザーテレサは病気や貧困などで社会から見放された人々を支え
絶望の淵で苦しむ人々を救済し続けた。

★マザー・テレサがインドに渡るきっかけ!

☆お金を工面するための意外なアイデアとは?


ゲストに工藤裕美さんをお迎えし、マザー・テレサの魅力に迫ります!

放送は9月7日(日)
20時00分〜20時54分。


お聴き逃しなく!

staff| 13:54 | カテゴリー:

2014年08月25日

第70回 『THE HUMAN』今週は・・・偉大なるヒット曲メーカー!!

古今東西、様々な時代の扉を開き、
歴史・文化・伝説を作ってきた人々をクローズアップし、
その足跡と魅力に迫る1時間。

先週フォーカスしたのは、岡本太郎。いかがでしたか?

1911年 (明治44年) 2月26日、当時日本中に注目されていた
人気漫画家の岡本一平と 作家の岡本かの子の間に生まれます。
大金持ちのお嬢さんで、文学少女だったかの子さんは家事や育児が苦手で、
お母さんに遊んでもらおうとまとわりつく太郎を、帯で柱にくくりつけたまま本を読んだり、
短冊に歌を詠んだりしたといいます。

1917年に青山の小学校に入学しますが、両親から「自分を貫いて生きる」遺伝子を
受け継いだ太郎少年は周りの様子を伺いながら生きるということができません。
ある日、担任から「一、二、三の数字が書けるものはいるか?」と訊ねられ、
太郎少年一人が勢いよく手をあげました。
黒板に数字を漢字で書いていったそうですが、四の字の書き順を間違えると
「ほらやっぱり書けないじゃないか。とっとと席に戻れ」
と悪事でも働いたように怒られたそうです。
書き順が規則と違っただけで書けないと言われたことに納得できない
太郎は、その次の日から登校拒否。わずか一学期で退学します。
このような出来事が重なり、小学校1年生の時に、4回も学校を
変わったといいます。

どの学校でもなじめなかった太郎であったが慶応義塾の幼稚舎なら、
自由主義の校風になじめるかもしれないとダメもとで受験したところ合格し、
育児が苦手なかの子の推薦もあり、寄宿舎生活を送るようになります。
この慶応時代には、父譲りの絵の才能を発揮し14才の頃には、同級生と謄写版で
同人誌を発し、慶応が、春のボートレース対抗試合で負けた悔しさを表現した
水彩画《敗惨の歎き》を制作している。
1929年、慶應義塾普通部を卒業するときには、絵に進むか、音楽を勉強しようか、
文学にしようか迷った末東京美術学校、現在の東京芸術大学・洋画科に入学します。
しかし、その年の12月、ロンドン軍縮会議の取材旅行に出かける一平に、かの子と太郎も
同行することになり、太郎は入学半年で美術大学を中退します。
翌年の1月にフランス・マルセイユに到着。家族は、しばらくパリで一緒に過ごしたが、
一平とかの子は取材のためロンドンに向かい、パリに残った太郎は、9月からパリ大学
ソルボンヌ校で哲学を学びました。

ある日、たまたま入ったギャラリーでパブロ・ピカソの100号の大作《水差しと果物鉢》と出会い
太郎は雷に打たれたような衝撃を受けます。
「あれこそ、自分が突き詰める道だ」と心の中で叫び続けたそうです。
太郎が21才の夏でした。

同じ時代の悩みに、たくましく正面からぶつかっていくピカソの世界観。
その強烈な意志に心を揺さぶられた太郎は、それまで覚えた過去の芸術様式をすべて捨て、
抽象画の世界に入っていき、次々と画期的な作品を生み出していくことになります。
心の赴くまま、その瞬間を全力疾走していた太郎であったが、1939年、太郎28才の2月、
最愛の母かの子が49才の若さで帰らぬ人となり、ちょうどその頃、ナチス・ドイツがヨーロッパ各地に進軍し、時代がいよいよ緊迫して来たこともあり、太郎は、捨て去ったつもりでいた
日本に帰国することを決意します。

帰国した時には31才になっていた太郎は、まさか自分が戦争に招集されるとは
思っていませんでしたが、すぐに赤紙が届きあっさりと中国の戦地に送られます。
過酷な軍隊生活は4年間も続いたが、奇跡的に命を落とすことなく日本に帰還することが
できました。

そして、戦後の復興で立ち直った日本の技術を世界にアピールする機会となったのが
1970年に開催された大阪万博です。
万博を3年後に控えた1967年の初夏に、太郎の家を日本万博協会の事務総長が
尋ねてくると、いきなり「今度開かれる大阪万博のテーマプロデューサーをして欲しい」
と頼んできました。
大勢のスタッフとの共同作業で、国家の名誉をかけた一大イベント。
組織が大嫌いで、頭のかたい役人たちとうまくやれる自信もなかった太郎は躊躇したそうです。
迷った太郎さんが、信頼している友人や知り合いに相談するとみんなが口を揃えて
反対したといいます。反対されればされるほど、逆へと向かうのが太郎流の生き方です。
 「そんなにみんなが大変というなら、ようしやってやろうじゃないか」
とテーマプロデューサーを引き受けますとはいえ、周りが危惧した通り、太郎さんに
大きな壁が立ちふさがりました。

国家の威信をかけた万博の構想には日本の頭脳が投入されました。
建築界のスーパースター丹下健三が総合設計を担当。
丹下のもとに、磯崎新、黒川紀章といった伸び盛りのエリート建築家たちが集結し
建築界の日本代表チームが着々と会場内のパビリオンを作っていました。
そんな組織に突然入り込んできた太郎が考え出したのは、メイン会場となるお祭り広場の
屋根をぶち開けて、万博会場を見渡す70mの太陽の塔を作るという構想でした。
過去、現在、未来を貫いて脈々と流れる人類の生命力、その流れ、発展をかたどるものとして
イメージしたという塔のデザインをみた磯崎新は、「ベラボーなものだ」という感想を
もらしたという。
会場の設計を担当した丹下健三チームは、シンプルな広場に大きな屋根をつけることで
モダニズム精神を表現する予定で、その調和を崩すかのように、せっかくの屋根をぶちぬく
オブジェはとうてい受け入れられるものではありませんでした。。

そして結論は万博協会会長の石坂泰三にプレゼンして決まることになります。
経団連会長を12年も務め、陰の総理とも呼ばれた経済界の大物である石坂は、
その少し前にも、提案されたシンボルマークをみて、激怒。万博にふさわしいものを作り直せ!
と選考のやり直しを指示したばかりで、当日の会議室は異様な空気に包まれたといいます。
太陽の塔は、シンボルマークとは比べものにならない重要なもの。しかも、
もしもダメだしされたら、もう時間もないので何も作れない…
と協会のスタッフが青ざめた表情で見守る中、
 じっと太陽の塔の模型を見つめていた石坂は、しばらくして
 「これさえあればもう万博は成功です、あとは何もなくてよい」と言ったという。

それでは岡本太郎の言葉を、
「芸術は うまくあってはいけない
 きれいであってはいけない
 ここちよくあってはいけない。」


さて、第70回目にフォーカスするのは、

【大瀧詠一】

大瀧詠一.JPG

1948年7月28日、岩手県で生まれる。
日本の音楽史を独自にまとめられるなど、音楽に関する知識のほか
落語に映画に野球に大相撲にラジオ…とあらゆることに精通する
知の巨人。1970年に細野晴臣さん、松本隆さんらと「はっぴいえんど」を結成し、
日本語とロックを融合した、その画期的なサウンドは、音楽ファン
のみならず、様々なミュージシャンにも大きな影響を与えた。

★大瀧詠一がハマった音楽たち!

☆大瀧詠一が開催した変わったコンサートとは??


ゲストに曽我部恵一さんをお迎えし、大瀧詠一の魅力に迫ります!

放送は8月31日(日)
20時00分〜20時54分。


お聴き逃しなく!

staff| 21:13 | カテゴリー:

2014年08月23日

第69回 『THE HUMAN』今週は・・・天才芸術家!!

古今東西、様々な時代の扉を開き、
歴史・文化・伝説を作ってきた人々をクローズアップし、
その足跡と魅力に迫る1時間。

先週フォーカスしたのは、ジミ・ヘンドリックス。いかがでしたか?

ジミヘンこと、ジミ・ヘンドリックスの本名はジョニー・アレン・ヘンドリックス。
1942年11月27日、ワシントン州シアトルで生まれます。
ジミーが9才の時に両親は離婚してしまい、父と二人だけの生活が始まりますが、
父の仕事がうまくいかずジミーは引っ越しや転校を繰り返したといいます。

この頃、ジミーの楽しみといえば音楽ごっこ。ほうきをギターに見立て、
今でいうエアーギターのような遊びをしていたそうです。
12才の時には、父が拾ってきた、弦が一本しかないボロボロのウクレレをもらい、
演奏に夢中になりますが弦が一本では鳴らしたい音もでません…
見かねた父が、ポーカーの仲間からアコースティックギターを5ドルで譲ってもらい
ジミーにプレゼントをしたそうです。

ジミーは左利きであったが、左利き用のギターは高価で見つけるのも大変だったため、
彼は安いエレキギターの弦を逆の順番に張り替え、力ワザで演奏するテクニックを
マスターしました。
そしてロックンロールとR&Bのヒット曲をオンエアするラジオが
彼の音楽教師となりました。数々のヒットメーカーたちの曲に合わせて、
ギターを演奏しながらジミーは独自のテクニックを身につけていった。

1962年にはナッシュビルに行き、ナイトクラブで演奏したり、
様々なバンドのバック・ミュージシャンとしてツアーに参加します。
経済的に困窮していたため、誘われればどんなツアーも断らなかったそうですが、
他のメンバーとはなかなか打ち解けられず、いつも一人でギターを抱えているジミーは、
ツアー中にわざと置き去りにされることもあったそうです。
やがてニューヨークに拠点を移し、アポロシアターのアマチュアコンテストで優勝したり、アイズレー・ブラザースのギタリストに採用されて全米ツアーに同行するなど、
徐々にその活躍の場を広げていきます。

自分は誰かの下で、制約を受けながら演奏するのはイヤだと考えるようになったジミーは、1966年に念願のマイバンドジミー・ジェイムズ・アンド・ザ・ブルー・フレイムズを
結成。グリニッジ・ヴィレッジの「カフェ・ホワッツ」で活動をはじめます。

この頃から、首の後ろや背中でギターを弾いたり、歯で弾いたりして
客席に衝撃を与えたそうです。
そしてこの年、アニマルズのチャス・チャンドラーに誘われ、ジミーはイギリスに
向かうことになります。
そして1966年9月24日、ジミーはスーツケースひとつとギター1本だけを持って
ロンドンのヒースロー空港に到着しました。
当時、ロンドンのロックシーンはビートルズとローリングストーンズが大御所的存在で
エリック・クラプトンとジェフ・ベックがギターのヒーローして君臨していました。
盤石なロック業界に、ジミ・ヘンドリックスという新しい才能を
送り込むため、チャンドラーは彼のバンドのオーディションを実施し、
そして「ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス」が結成されました。
なんとか新興のトラックレコードとの契約にこぎつけ、1966年12月16日に、
記念すべきデビューシングル「ヘイ・ジョー」が発売されました。
1967年にはセカンドシングル「パープル・ヘイズ」がリリースされ、
その音楽のレベルの高さが業界内でも広まっていきます。
当時、ジミヘンのライブには、ポール・マッカートニーやジミー・ペイジ、
エリック・クラプトン、ジョン・レノン、ミック・ジャガーをはじめ、
様々なトップスターが見に来たと言われています。
三枚目のシングル「ザ・ウインド・クライズ・メアリー」が
リリースされた後、ファーストアルバム「アーユー・エクスペリエンスト?」が
発表されます。
ビートルズの「サージェント・ペッパーズ・ロンリー・ハーツクラブ・バンド」が
発売されたため、一位にはなれませんでしたがデビューアルバムが堂々の2位を記録。
その強烈な存在感はイギリス国内だけでなくヨーロッパ全土に広まり、
ジミヘンは母国アメリカに凱旋することになります。

1967年6月18日、モントレー・ポップ・フェスティバル最終日
THE WHOの後に、ステージに上がったジミーは火をつけたギターを振り回し、
壊してしまうというパフォーマンスで9万人の観衆の度肝を抜きます。
その圧倒的なジミーのパフォーマンスと、斬新な音楽は、映画を撮影している
カメラマンや、新聞記者・評論家などと言ったジャーナリストたちをも魅了し、
ジミヘンは一夜にして伝説を作りスーパースターの座を射止めることに成功した。

しかし、ロックスターが名声と富を手に入れることは、彼らが幸せになることには
つながらりません。次第にメンバーとの確執が増えていき、
69年にエクスペリエンスは解散します。
精神不安定な状態でいることが増え、睡眠薬を多用していると伝えられる中、
1970年9月18日、ジミーはロンドンのサマルカンドホテルで昏睡状態となり、
病院に運ばれる途中で死亡が確認されます。体内からは大量のアルコールが検出され、
死因は睡眠薬中毒により、嘔吐物を喉に詰まらせたための事故だと言われています。
享年27歳でした。

それではジミ・ヘンドリックスの言葉を、
「ブルースを演奏するのは簡単だけれどブルースを感じるのは難しいんだ。」


さて、第69回目にフォーカスするのは、

【岡本太郎】

岡本太郎.JPG

1942年11月27日、ワシントン州シアトルで生まれる。
大阪万博のシンボル、太陽の塔をデザインしたり「芸術は爆発だ!」という
テレビCMで話題になったり自らの情熱のままに疾走し、エネルギッシュに
時代を駆け抜けたアーティストとして知られている。


★岡本太郎の変わった少年時代!?

☆東京オリンピックでの活躍について!


ゲストに中ザワヒデキさんをお迎えし、岡本太郎の魅力に迫ります!

放送は8月24日(日)
20時00分〜20時54分。


お聴き逃しなく!

staff| 09:16 | カテゴリー:ARTIST

2014年08月11日

第68回 『THE HUMAN』今週は・・・天才ギタリスト!!

古今東西、様々な時代の扉を開き、
歴史・文化・伝説を作ってきた人々をクローズアップし、
その足跡と魅力に迫る1時間。

先週フォーカスしたのは、小林一三。いかがでしたか?

1873年1月3日に山梨県で生まれる。
1月3日に生まれたので一三と名付けられます。
親戚のおじさんに連れていってもらった芝居小屋での体験がよほど
楽しかったのか、一三は芝居や小説に夢中になります。
といっても、家にこもった文学少年になったわけではなく
わんぱくで、すばしっこい一三少年は、人気者で、仲間をまとめるリーダー的存在でした。
 
小学校を卒業すると私塾に入りますが、
そこで東京に福沢諭吉が作った慶応義塾という学校があることを知り、
東京行きを考えるようになります。
祖父母を説得し、明治21年1 月に上京し、塾長である福沢諭吉の面接を受け
合格した一三は晴れて慶応義塾の塾生となりました。
慶応義塾時代の一三の夢は、小説家になることで、
仲間と作った機関誌の主筆をつとめ、自ら創作活動に没頭し、慶応卒業後も、
小説を書き続けていた一三は、ペンで身を立てるつもりでいましたが、
結局、慶応義塾の先輩、高橋義雄の推薦を受けて、三井銀行に入社することになります。

ある時、大阪に新しい会社を設立するから、そこの支配人をしないか?
というオファーが入り、一三は妻子を連れ大阪に向かいますが、高騰し続けていた株価が
暴落し、新会社設立の話も立ち消えてしまいます。
しかし翌年、政府によって買収されることが決まっていた阪鶴(はんかく)鉄道を引き継ぐ、
新しい鉄道会社を手伝わないかというオファーを受けることで一三の運命の扉が開きました。
大阪の梅田と池田を結ぶ予定であった鉄道ですが、株の大暴落の余波で、
資金が思うように集まらず、資金を出した役員たちも、鉄道を作ったところで
こんな田舎で誰が乗るんだ…と事業の成功に否定的だったといいます。
やがて、電車が走るだけでは人が来ないなら人を集めて電車を走らせればいいという
逆転の発想が浮かびます。駅の近くにきれいで広い家を建てれば、
都会で働いた人々が、電車一本で自然豊かな郊外に帰り、文化的な暮らしができ、
そして週末には、みんなで遊びに行くところもあれば、
楽しく豊かな暮らしが生まれるに違いない、と思うようになります。
腹をくくった一三は、開業に失敗すれば、これまで出した資金も一三が保証する、 
という条件で役員たちを説得します。
人生最大の大勝負に出た一三は、故郷の山梨や東京などを駆け回り足りない資金集めに
奔走し、一方で、駅の予定地周辺の3万坪を買収します。
そして二階建ての庭付き住宅を建設し、庶民にも手が出るよう、頭金は売値の二割、
残りは毎月均等の10年払いという、今でいう住宅ローンを考案します。
こうして1910年3月に、箕面有馬電気軌道が開業すると周囲の予想以上の収益を
あげることに成功します。

一三はさらに箕面公園を遠足の名所にしようと考え、公園の入り口には動物園を作った他、
宝塚温泉の近くに新宝塚温泉をオープンさせ大いに人気を博します。
新宝塚温泉は、人気となり大繁盛し、その勢いで、翌年には、日本初のパラダイスという
水泳場をオープンさせますが、このプールは大失敗に終わります。
一三はせっかく作ったこの施設を使って何かできないかと考え、
少年音楽隊の様なものを、少女達で結成するというアイデアを思い浮かびます。
こうしていまからちょうど100年前の1914年4月1日、さっぱり利用者のなかった
水泳場の脱衣所を舞台に改造し、プールの全面を板敷きにして座席を作った
パラダイス劇場で宝塚少女歌劇団養成会第一回公演が幕を開けました。

華々しいデビューを飾った宝塚歌劇団は連日大入り満員の活況となり大成功を収めたが
次第に客足が遠のき、客席にも空席が目立つようになります。
経営者である一三は、事業で赤字が出るとすぐに改善策を取ったり、
事業そのものから撤退することが多かったが、宝塚歌劇団だけは例外でした。

やがて大阪でも慈善興行を行うようになった宝塚歌劇団は、大正7年に東京にも進出。
帝劇での公演は大評判となり、歌舞伎座や新橋演舞場での公演も成功したことで、
昭和9年には観客収容数3000名の東京宝塚劇場を建て本格的に東京進出を果たします。
産声をあげて一世紀、一三が生んだ宝塚歌劇団は今も夢と希望が詰まった
感動の物語を紡ぎ続けています。


それでは小林一三の言葉を、
「誰にも夢がある それはたとえ小さくとも その夢がふくらみ、花を咲かせ 
 立派に実るのを見るのは楽しい、私はいまも、青春時代のような空想が、
 夢が理想だと信じてそれを決行しつつあるのである。」


さて、第68回目にフォーカスするのは、

【ジミ・ヘンドリックス】

ジミヘンドリックス.JPG

1942年11月27日、ワシントン州シアトルで生まれる。
ロック史上最も偉大なギタリスト、エレキギターの神様、ストラトキャスターの魔術師…
などなど彼を讃える言葉はたくさんあり、世界中の数多くのミュージシャンに
影響を与えています。
1966年から1970年までの、たった4年のメジャー活動の末、
27才で謎に包まれた死を遂げる。


★ジミ・ヘンドリックスとギターの出会い!

☆ジミ・ヘンドリックスの過激なパフォーマンスの秘密!


ゲストにシー・ユー・チェンさんをお迎えし、
ジミ・ヘンドリックスの魅力に迫ります!

放送は8月17日(日)
20時00分〜20時54分。


お聴き逃しなく!

staff| 19:40 | カテゴリー:ARTIST

2014年08月08日

第67回 『THE HUMAN』今週は・・・日本を代表する実業家!!

古今東西、様々な時代の扉を開き、
歴史・文化・伝説を作ってきた人々をクローズアップし、
その足跡と魅力に迫る1時間。

先週フォーカスしたのは、アントニ・ガウディ。いかがでしたか?

1852年6月25日にスペイン・カタルーニャ地方で生まれる。
生まれつきの虚弱体質で6歳の頃にリューマチを患い、歩けないこともあったという
アントニは手が器用で、幾何学が得意だった少年は中学生の頃には
建築家になりたいという思いを抱くようになっていました。
当時バルセロナに建築学校新設の動きがあり、アントニは兄を頼って
バルセロナに向かいます。

無事にバルセロナ建築学校に入学し、規定より1年多い、8年かけて卒業。
1878年に建築家ガウディが誕生します。
(※当時バルセロナには48人しか建築家がいなかったといいます。)

建築家としてのガウディの経済状況は以前と比べられないほどよくなり、
スーツや靴、帽子は全てオーダーメイドで、高級レストランを食べ歩き、
憧れだったオペラを鑑賞する日々を送ります。
ただし新米建築家にすぐに建物をデザインして欲しいという依頼は来ず、
ガウディのデビュー作はバルセロナ市から依頼された「レイアール広場の街灯」
そして1878年のパリ万博に出品した手袋を飾るショーケースでした。
このショーケースに心を奪われたのが青年実業家のアウセビオ・グエルでした。
6年後、彼に広大な敷地を持つ屋敷の付属施設を依頼され、それを斬新な
アイデアの数々で表現し、バルセロナの話題となる建物を完成させます。

ガウディは31歳の時に、1882年に建設が始まったサグラダファミリアの
建築の引き継ぎをします。
しかし、資金難とともに自身も大きな壁に当たってしまい、
工事は一向にはかどりません。
それは技術的な問題ではなく、教会での儀式典礼を知らない自分が
カトリックの典礼の場である神の家を建てるのは無理だという悩みでした。
そして1894年、ガウディは40日間の祈りと断食の行をすることを決意します。
しかしこれは命を落とす危険の高い、カトリックの修行の中でも最も
厳しいものであった。
日数が経つにつれ、顔色は青ざめ、意識は混濁し、誰の目からも死の影が
迫っているのはあきらかだったといいます。
周りの知人たちが説得しても断食を解こうとしなかったガウディですが、
ある神父の「聖堂を完成する使命を神より受けている」という説得により、
仕事に戻ることになります。
過酷な断食のせいか、白髪が増え、背中を丸めるようになりはるかに老けて
見えるようになり、神とともに生きることを決意したガウディは、
着飾ることも、貴族のサロンに出かけることも嫌がるようになります。
晩年には全てをサグラダファミリアに捧げていたガウディは、自分の財産を
全てつぎ込み、衣服も全く構わなくなっていました。

そして1926年6月7日、ガウディは路面電車にはねられ息を引き取りますが、
その時、ホームレス同然の格好だったこともあり、4台のタクシーが病院へ
搬送するのを拒否したといいます。葬儀はできるだけ質素にという遺書が
ありましたが、バルセロナ全ての店舗が休み、葬儀に参列した人々の列は
1.5キロに及んだともいいます。

それではアントニ・ガウディの言葉を、
「創造するのではない。
 人間が作り出すものは、すでに自然という偉大な書物に書かれている。
 人間はそれを読む努力をしなければならない。」


さて、第67回目にフォーカスするのは、

【小林一三】

小林一三.JPG

1873年1月3日、山梨県河辺村で生まれる。
様々な事業を起こしたビジネスの天才。
電車の中吊り広告を考案したり、鉄道会社経営のターミナル型デパートの経営。
さらに映画会社を設立したり、日本初のビジネスホテルを考案したりと
様々なアイデアを形にしました。そして宝塚劇団の産みの親としても有名。


★小林一三の少年時代。

☆小林一三と宝塚劇団。


ゲストに演劇評論家の出雲あきらさんをお迎えし、
小林一三の魅力に迫ります!

放送は8月10日(日)
20時00分〜20時54分。


お聴き逃しなく!

staff| 10:30 | カテゴリー:ENTERTAINER

2014年07月30日

第66回 『THE HUMAN』今週は・・・スペインの天才建築家!!

古今東西、様々な時代の扉を開き、
歴史・文化・伝説を作ってきた人々をクローズアップし、
その足跡と魅力に迫る1時間。

先週フォーカスしたのは、フローレンス・ナイチンゲール。いかがでしたか?

1820年5月12日にフィレンツェで生まれる。
フローレンス・ナイチンゲールの両親は、どちらもイギリスの上流階級の家の出身で、
両親が結婚した際、3年間もヨーロッパ大陸を旅行するほど。
当時の上流階級は、毎日、豪華なパーティを開いてはおしゃれを競ったり、
ゴシップ話に話を咲かせるのが日常だったが、フローレンスは人の噂話をしたり、
おしゃれに着飾ったりすることに、どうしてもなじめなかったといいます。
その代わりに彼女が興味を示したのは、勉強でしたが、当時の上流階級では、
女性が仕事をしたり、勉強するのは考えられない事とされていましたが、
彼女の父は、そんなフローレンスに哲学、ラテン語、ギリシャ語、
ヨーロッパの歴史や絵画などを教えます。

16歳のある夜「あなたには、なすべきことがあります。
あなたしかできない大切なことがあるはずです」という不思議な声を耳にしますが、
自分には一体何ができるかは分からなかった。
この年の9月、1年半にわたりヨーロッパ各地を旅行しますが、その際、
一家を乗せた馬車が、くずれかかった家が建ち並ぶ、狭い道を通りかかります。
そこで粗末な衣服を身にまとい、疲れた表情の人々を目にしたフローレンスは、
自分の知らないところで、困ったり、苦しんでいる人がたくさんいる事実を知ります。
慈善活動は上流階級の務めとされていたが、彼女は食べ物を運ぶだけではなく、
病人の世話も進んでするようになっていきます。
そして、人を助けるために看護の技術を学ぶことが自分の使命だとはっきりと
意識するようになったフローレンスは、看護を勉強するため、
病院で働きたいと両親に打ち明けた。
しかし、当時の病院は、貧しい人々が身を寄せる薄暗く不潔なところで、
そこで働く看護師も、身分の低い人々がする卑しい仕事だと考えられていたため、
家族に猛反対されます。

1851年、フローレンスに運命の扉が開きます。
家族でドイツの温泉にでかけた際、母と姉が温泉につかっている間、フローレンスは
かつて施設を見学したことがある、カイザースペルト病院に行き、
ここで働かせて欲しいと直訴します。そこでおよそ三ヶ月に渡り、
本格的に看護の技術と知識を学び、さらにパリの病院でも看護の指導を受けます。
パリに留学中、祖母が倒れたと連絡が入り、イギリスに戻ったフローレンスは、
それまでの勉強で習得した技術を駆使して、献身的な看護で祖母を支え、
孫による、愛情あふれる看護を受けた祖母は、満足そうに旅立ったといいます。
そして祖母が亡くなってまもなく、ロンドンにある慈善施設で
看護の指導監督者をして欲しいというオファーが舞い込みます。
神のお告げを聞いてから16年、33歳となっていたフローレンスは
快く依頼を引き受けたが、といっても報酬はなく、年間500ポンドの生活費は
彼女が働くことを反対していた父が引き受けたといいます。
お金のためではなく、人のために働くことに生き甲斐を感じたフローレンスは、
それまでに考えていた様々なアイデアを活かし、医療現場に様々な変革をもたらせます。
現在は、ナースコールと呼ばれる、病室のベッドに看護師を呼ぶベルを取り付けたり、
食事の配膳に時間がかかり料理が冷めるのを防ぐため、
食事用エレベーターを発案したのもフローレンス・ナイチンゲールだと言われています。

それではフローレンス・ナイチンゲールの言葉を、
「看護の仕事は、快活な、幸福な、希望にみちた精神の仕事です。
犠牲を払っているなどとは決して考えない、熱心な、明るい、活発な女性こそ、
本当の看護師といえるのです。」


さて、第66回目にフォーカスするのは、

【アントニ・ガウディ】

ガウディ.JPG

1852年6月25日、スペイン・カタルーニャ地方で生まれる。
常識を覆す斬新な建築で、後世の芸術・建築にも多大な影響を及ぼしたといわれる
彼の作品のうち、バルセロナにあるグエル公園、グエル館、カサ・ミラ、
カサ・ヴィンセスなど7つの建築物が世界遺産に登録される。


★ガウディの少年時代。

☆サグラダファミリアとガウディ。

★ガウディの最期。


ゲストに神奈川大学教授・鳥居徳敏さんをお迎えし、
アントニ・ガウディの魅力に迫ります!

放送は8月3日(日)
20時00分〜20時54分。


お聴き逃しなく!

staff| 18:08 | カテゴリー:ARTIST

2014年07月24日

第65回 『THE HUMAN』今週は・・・クリミアの天使!!

古今東西、様々な時代の扉を開き、
歴史・文化・伝説を作ってきた人々をクローズアップし、
その足跡と魅力に迫る1時間。

先週フォーカスしたのは、円谷英二。いかがでしたか?

1901年7月7日に福島県にある麹屋さんの家に生まれます。
16歳で高等科を卒業し、機械製作所に就職しますが、飛行機への憧れを諦められず
わずか半月で会社を辞め、羽田に開校した日本飛行学校に入学します。
しかしある日、飛行学校唯一の教官が乗る公開飛行中に突然翼が折れ飛行機が墜落
してしまい、飛行学校は機能停止に陥ります。
その後、玩具製作所にて新しいおもちゃを考える仕事をするようになった英二は
スクーターというおもちゃを考案し、これが大人気となり英二は500円、
現在の価値でいえば200万円のボーナスを受け取ります。
このボーナスで同僚と宴会をしている途中で総天然色活動写真株式会社の枝正義郎
という人物に出会います。

彼が映画技術の草分け的存在の映画技師長でした。
彼にくどかれ円谷は映画の世界に足を踏み入れます。
そして1933年にアメリカで大人気となった映画「キング・コング」が日本に上陸します。

自分もキングコングのような映画を撮りたいと、自分の能力を高く評価してくれる
東宝に移った円谷は日本が戦争へと突き進む中、国民の戦意高揚を図るための
戦争映画の仕事で忙しくなります。
そんな中製作した「ハワイ・マレー沖開戦」という映画の中で見せた
真珠湾での爆撃を空撮シーンがあまりにもリアルで観客のみならず映画関係者も
驚いたといいます。この映画は大ヒットとなるものの、敗戦後に軍用教育映画の
製作に関わったことで公職追放となってしまいます。

公職追放は4年間に及び、東宝に復帰後、映画プロデューサーから
「ビキニ環礁の水爆実験で、日本の第五福竜丸の乗組員が死の灰を浴びる事件が
起きたが、その水爆で海の底の恐竜が目覚める」という作品の構想を
打ち明けられている。架空の生物を描くこの映画ならば、『キング・コング』のように
特撮の可能性を最大限に活かすことが出来ると考えた円谷はこのアイデアに賛同。
こうして日本初の怪獣映画の製作がスタートした。

企画段階で「G作品」と呼ばれた作品に登場する怪獣には、
スケールも大きく、インパクトある名前をつけることになったが、
かつて東宝に、ゴリラとクジラを掛け合わせた「ゴジラ」という
ニックネームの人物がいて、この名前を頂いたといわれている。

円谷は、これまで研究してきた特撮技術の全てを注ぎ込み、1954年11月3日、
日本初の特殊撮影と実写を合成した怪獣映画「ゴジラ」が公開されると、
日本全国で961万人が映画館に足を運ぶ大ヒットを記録。

映画「ゴジラ」の大ヒットを受けて、1963年に、円谷特技プロダクションを設立。
東京オリンピック開催で日本中が沸いていた時代、円谷は、これからはテレビの
時代が到来するはずだと言って、積極果敢にテレビの世界に進出していきます。
オリンピックで、日本の体操陣がウルトラCと呼ばれる技を連発した
ことがきっかけで、テレビシリーズの第一作は「ウルトラQ」というタイトルに
決定。そして2クール、半年の放映に対して撮影期間は1年3ヶ月を費やす
万全の体制で作られた「ウルトラQ」は、期待通りの高視聴率を記録します。

続編は、当時スタートしたばかりのカラー放送で制作する事が決定し
アメリカでの放映も意識した赤と、メタリックなシルバーを基調に
したデザインのヒーローが考案され、1966年7月17日に「ウルトラマン」として
オンエアされ巨大怪獣と闘う新しいヒーローが誕生します。

そして数々のヒーローと愛すべき怪獣たちを産みだした円谷は、
1970年1月25日に狭心症による発作のため、68年の生涯を閉じました。

それでは円谷英二の言葉を、
「つねに新しいものを作るのが、特撮だ。よそのマネはいけない、
 創造していこうという気持ちが大切です。」


さて、第65回目にフォーカスするのは、

【フローレンス・ナイチンゲール】

ナイチンゲール.JPG

1820年5月12日、フィレンツェで生まれる。
バルカン半島・中東への進出を狙うロシアとそれを防ごうとするオスマン帝国。
その対立が火種となって勃発したクリミア戦争に看護団を率いて参加。
献身的な看護で「クリミアの天使」と呼ばれた。


★ナイチンゲールの少女時代。

☆ナイチンゲールが産み出した医療現場でのシステムとは?


ゲストに東京有明医療大学・看護学部・特任教授の金井一薫さんをお迎えし、
フローレンス・ナイチンゲールの魅力に迫ります!

放送は7月27日(日)
20時00分〜20時54分。


お聴き逃しなく!

staff| 20:33 | カテゴリー:

2015年 11月

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