2014/1/17 石末龍治さん

阪神淡路大震災の発生から19年。
今朝は、大きな被害を受けた神戸のサッカーチーム、ヴィッセル神戸について、お届けしたいと思います。
電話でお話を伺ったのは、ヴィッセル神戸で当時キャプテンをつとめていた、ゴールキーパー、石末龍治さんです。


__ヴィッセル神戸が設立されたのは1994年。

チームが始動することになっていたのが、1995年の1月でした。

1月17日がまさにチームの始動日で、私のような移籍組が17日に集合することになっていたんですね。

そのあとですね、2月1日に岡山県の川崎製鉄水島っていうところのグラウンドに集合になりました。 岡山での練習も福田公園の芝生広場でやっていた状況ですね。 公園半分、川鉄水島のグラウンドを半分、ちょっと少なめでしたかね。

やってる我々は「やるしかないから頑張ろうや」と、開き直った部分はあったかと思います。

__岡山で集合して練習が始まりましたが、当初は監督のバクスターさんも来日せず、キャプテンの石末さんが中心になってチームをまとめました。 3月になって、神戸に戻り、地震の被害が少なかった場所を転々としながらトレーニングが続けられました。 ヴィッセル神戸は「JFL(ジャパンフットボールリーグ)からJリーグへの昇格を目指す」というのが目標でした。

「JFLなら何とか上位には行けるだろう」という意識がありましたから、自信を持ってゲームに入ったんですけど、うまくいかなかったですね。

全体的な戦術の不徹底というのもありましたし、気負い過ぎたというのもあったかもしれません。
僕個人としては気負い過ぎて変に調子を崩した、というのがあったと思いますね。

__5月に開幕したJFLで、最初の10試合、3勝7敗。

厳しいスタートでした。

そんな中、石末さんを力づけた言葉がありました。

そのころ、ヴィッセルの練習場、いぶきの森球技場のまわりには、仮設住宅が多く作られていたんですが、そこで暮らしていた方からの言葉です。

とっかかりは「シュート練習でネットを越えていっちゃって、ボールが仮設住宅にぶつかる」というのが多々あったんですね。
で、僕がキャプテンですから、代表して謝りにいったんですね。

そしたら、住んでいた方が、「いちいち謝る必要ないよ、石末君。 僕らのために頑張ってくれたらいいんやから。 ちゃんとやってくれ」と逆に激励されて、泣きそうになりましたね。


__シーズン後半になると、成績も上昇しました。

しかし、前半の不振が響いてJリーグ昇格はならず。

96年、ヴィッセル神戸は、JFL2位でJリーグ昇格。

神戸ユニバー記念競技場での最終戦は、神戸市民で満員になりました。

ほんとに、当時、神戸市は壊滅的な状況で、そこから神戸市民の方もすごく頑張っておられて、それの象徴というのはおこがましいんですけどm我々がJリーグに上がったということで「みなさんに自信を持ってもらえたのかな」と感じたのは記憶していますね。

人生観とかサッカー感とか変わりましたね。
我々がやって「みなさんを喜ばせる」というのが大きかったんですけど、本当に「感謝の気持ちを持って」というのが大きかったですね。

プレー1つ1つも「みんなのためにやってるんだ」っていう、「感謝の気持ちを持ってプレーするんだ」という気持ちになりましたね。
自分本位だったのが、実は、「みんなのために。人のために、やらなきゃいけないんだ」というのに気付いた瞬間でしたね。


ヴィッセルのユニフォーム、左肩にしるされた言葉は、「明日へ!!神戸」。
その言葉が ひときわ輝いた瞬間でした。

今朝は、阪神淡路大震災が発生した当時、ヴィッセル神戸のキャプテンだった、石末龍治さんへのインタビューをお送りしました。
インタビューのなかで、練習場のそばにあった仮設住宅の方に逆に励まされたというお話がありましたが、Jリーグ昇格を決めたあと、石末さんは、その方へ報告に行かれたそうです。

個人的にその方に挨拶にいったときに、喜んでいただいて「いかなごのくぎ煮」……神戸では有名なんですけど、それをいただいて、お返しにみんなのサインをいれたカレンダーをお渡しして、という交流を持ちました。

そのときに印象的だったのが、
「石末君、やっと僕もな地元の長田に帰れんねん」
とおっしゃっていたのが印象に残りましたね。


ちなみに、石末龍治さんは、現在、ヴィッセル神戸、U18のコーチを担当されていて、毎年、1月17日には、若い選手とともに、神戸市の東遊園地で行われる追悼行事に参加されているそうです。
今回は取材にご協力いただき、ありがとうございました。