2011/4/1 建築家、坂茂さんのHidden Story

今週は、東北関東大震災の被災地のために支援プロジェクトをスタートした建築家、坂茂さんのHidden Story。

坂茂さん。
現在、パリをベースに活動する建築家です。
最近では、昨年フランスのメスという街にオープンした、ポンピドゥー・センターの分館「ポンピドー・センター・メス」を手がけました。

日本時間3月11日の午後、坂さんは飛行機で移動中でした。

そのとき、飛行機に乗ってまして、カリブ海のセントバーツっていうフランス領の島があるんですけど、仕事でそこへ行っていて、そこからフランスに戻る途中で、空港をおりたら、友人から携帯の留守電にメッセージが入っていて、そこで知りました。

地震の知らせを聞いた坂さんは、急遽、日本に戻ることを決めました。
なぜなら、90年代の半ば以降、ずっと続けているプロジェクトがあったからです。
坂さんは、災害を受けた場所や、難民が苦しんでいる場所での支援を建築という分野で進めてきたのです。
そうした活動を始めたきっかけとは?

建築という仕事を長く続けてきたんですが、建築というのは特権階級のための仕事が殆どなんですね。
そうした人たちの政治的な力とか、財力、それは両方とも目に見えないんですけど、それをモニュメントとして視覚化して世間に見せる。 そういう役割を建築が担ってきたわけです。 そうした仕事ばかりをしていると、自分が世間の役に立ってないんじゃないかという疑問を持ち始めて。 そこで自分の建築というプロフェッションを使って社会に貢献できないかなと考え始めました。

そんなときに、1994年にルワンダで内戦がありまして大量の難民が出て、彼らの使ってる、国連からもらったシェルターが非常に貧しいものですから、雨期に耐えられない。 毛布にくるまって震えている。 そういう写真を見まして、このシェルターを改善しないと医療活動をいくらやってもしょうがないんじゃないかと思いまして。 それでジュネーブにある国連難民高等弁務官事務所に行って、自分の考え、シェルターの改善を訴えまして、それで難民のシェルターの開発を始めたんです。

アフリカ、ルワンダの難民のために、建築家・坂茂さんが考案したのは、紙管を柱にしたシェルターでした。

もともとは国連はプラスティックのシートだけを与えて、難民は周りにある木を切って、それを乗せるフレームを作ったんですね。

難民が200万人によって森林伐採が起こって、国連はそれに代わる代替え材料としてアルミのパイプを配布したんですが、アフリカではアルミは高価なものなのでみんなお金のために売ってしまうんですね。
ですからアルムのパイプが代替え材料にならなかった。またみんな木を切り始めた。
そこで代替え材料として僕の提案した再生紙の紙管を材料とした提案が認められて、それで開発が始まったんです。

アフリカ、ルワンダで紙管を柱として使うシェルターを開発したのが1994年。
その翌年、95年。 阪神淡路大震災が発生しました。

神戸で、たまたま前の年から難民の仕事をしていたものですから、神戸にベトナムの難民の人たちがテント暮らしをしていたので、そういう人たちのために仮設住宅を作ったり、教会を仮設で作ったり。

神戸では、仮設住宅「紙のログハウス」と、焼けてしまった教会の代わりにと、コミュニティセンター「紙の教会」を作りました。どちらもその名前の通り、紙を使った建築でした。さらに……

99年がトルコの地震。 2001年がインド地震。 2004年の津波ですね、これはスリランカに行きました。 2008年の中国の四川地震ですね、そのときは仮設の小学校を作ったんですけど、その次の年がイタリアのラクイラで仮設のコンサートホール。 これはまだ建設中ですけど。 そして去年がハイチの地震。

日本国内では、2004年の新潟県中越地震、翌2005年の福岡県西方沖地震の避難所。
そして、今回の東北関東大震災の避難所でも、紙の筒を柱にして、そこに布をかけた間仕切りを作る活動をされています。

簡単に作れて簡単に壊せて、しかも、昼間は壁がなくてみなさんお話をしたり、一台しかないテレビを見たりする必要があるので、ずっと壁があるとまずいんですね。 だから簡単に開け閉めできるシステムじゃなきゃいけないんで。 紙の筒の柱とフレームにカーテンをかけただけのものです。 神戸のときに、避難所を見て、みなさんがプライバシーがなくてまいっている様子、 ですから徐々にみなさん、段ボールで小さな間仕切りを作ったりしていたんですけど、それだと十分にプライバシーが保てないし、すぐに倒れてしまうので、もう少しちゃんとしたものを作ろうと思ったんです。

材料が入手しやすく、しかも誰でも簡単に作ることができて、簡単に解体することもできる。
坂茂さんは、先週末、紙の筒を使った間仕切りを持って、被災地をまわりました。

傷ついた人々の生活を少しでも いい環境にするために。
傷ついた人々の心を 少しでも あたためるために。