2010/8/6 神田瀧夢さんの情熱物語

今週は、アメリカのテレビ三大ネットワークのひとつ、ABC。
そのゴールデンタイムの番組で司会を務めた日本人! 神田瀧夢さんの情熱物語。

» 神田瀧夢オフィシャルサイト

2010年3月7日。アカデミー賞受賞式当日。
アメリカ ハリウッド コダック・シアター前のレッド・カーペット。
ひとりの日本人が、「アバター」のジェームズ・キャメロン監督やこの日、主演女優賞に輝くこととなるサンドラ・ブロック、さらには、マット・デイモンへのインタビューに成功していました。
なぜなら、彼は 広く知られていたのです。
アメリカのテレビ三大ネットワークで自分の番組を持った男。 神田瀧夢さん。
しかし、ここに辿り着くまでには気が遠くなる程の道のりがありました。

瀧夢さんがエンターテイメントの道へ進むことを決意したのは、10代の終わりのことでした。

エンターテイメントの世界と言っても、広いわけですよ。

ミュージシャン、作家、脚本家、ダンサー、俳優。 このなかで僕が思ったのは、いくらダンスをうまくなってもマイケル・ジャクソンにはかなわない。 歌がうまくなっても、エルヴィス・プレスリーやローリング・ストーンズのようには歌えないだろう。 でも、ロバート・デニーロと競演したときに、「あいつ、いいよね」と思われるかもしれない、アクティングというグレーなところ、演技だったら世界を制覇できるかもしれない、と思って、俳優になろうと決めたわけです。

目指すは、ハリウッド映画の俳優。

大学卒業後まもなく、日米合作映画「トーキョー・ポップ」のオーディションに合格。
その撮影開始を待つあいだに、瀧夢さんはこう考えました。

英語で芝居をしないといけないから……アジア系アメリカ人というのが向こうにはたくさんいて、自分と同じ顔をしていて英語がうまいわけじゃないですか。
それに勝つには、日本で生まれた日本の魂と伝統芸能しかないかと思ったので、それを勉強したんですね。

その準備に16年かけたわけです。

この間、「その男、凶暴につき」をはじめとする北野武監督の映画に出演。 格闘技K1のリングアナを務めるなど、さまざまな仕事を経験しました。
そして、1997年。 売り込みのため、アメリカへ。
ニューヨーク、アポロシアター アマチュアナイトでのエピソードをひとつ。

僕らラップをやったんですよ「I am come from Osaka Japan. tenpura,sukiyaki,sushi,geisha」みたいなネタですね。

で、リハーサルが始まるんですけど、僕らは2人組で。 でも、どうしてもアポロに出たいっていう兄ちゃんがいて……じゃあ、ビートボックスやれと。
俺らがラップをやるから、かっこよくできないから、日本ぽく、ズンズンチャ、ズズズチャ、ってやっとけと。 リハーサルをやりだしたら、プロのミュージシャンが踊りだすわけですよ。

ものすごい受けたんですよ。

そのときのゲストがFugeesでローリンヒルも来てて。 気に入ってくれて、フージーズの楽屋に行っても、もう1回、あれをまたやってくれって。
そしたらみんな踊りだすし、うわ〜、絶対優勝するって思ったんですよ。 絶対優勝するって。

しかし、観客はほとんど全員がアフロ・アメリカン。
日本人が優勝するチャンスなんて欠片もなかったのです。

アメリカのエンターテイメント・シーンを目指した神田瀧夢さん。
難航を極めたのは、エージェンシー。 すなわち、事務所探しでした。

このときはエージェンシーブックというのがあるからそれを買って、120軒くらい送ったんですよね。
AからZまでリストがあって、エージェンシーの下にエージェントの名前があって、Don’t Phone Don’t Visit. Mail appointment onlyってね。 ここに電話するなよ、もちろん来るなよ。 アポイントがとれた人だけ事務所に来てくださいって。

すごい世界ですよ、アメリカは。

で、120通送りました。電話がかかってきたのが0軒でした。120通送って1個もない。 連絡がない。
これは埒が明かないと思って、Don’t Phone Don’t Visitって書いてあるところに電話をして、自分で勝手に行きました。 門前払いですよ、ほとんどが。

ピンポンって行くと、もういらないとか言われるわけですよ。「せっかく持って来たんだから上まで上がって来なよ」って、で上がって履歴書渡そうとすると、受け取るふりをして落とすんですよ。 なんじゃそれと思って拾おうとするとドアが閉まってるんですよ。
笑い事じゃないですよ、それが何10軒も続くわけです。
全部断られて161軒目でやっと入りました。

161軒目、ようやく神田瀧夢さんを認めたのは、スー・スー・スタントンというマネージメント・カンパニーでした。

入って行ったら、5人くらい役者さんが並んでいるわけです。
で、自分の番が来て、履歴書とかを見せたら「面白いじゃない」と。 ほら!見てもらったら気に入ってくれるわけですよ。 160軒、誰も見てない訳ですよ。

「面白いじゃない。 時間ある?」時間あるもなにも、そのためだけに命かけてますと。
明日の朝まで時間ありますと。

「映画のプロデューサー呼ぶわ」ってことになって、しばらくしたら太ったおばちゃんが入って来て、で、僕をスージーさんの隣りに自分を座らせて、映画のプロデューサーのおばさんの前でビデオを流すんですよ。 で、終わったあとに、最後におばちゃんに聞くわけです。
「What do you think?」

おばちゃんが「He speaks English very well,he’s very talented,I think he can work here(彼は英語がしゃべれて、才能がある。 ここで仕事できると思うわ)」って。 やったーと思って。

スージー、その場で電話をとってですよ、弁護士に電話するわけですよ。 で、あなたしゃべりなさいと。自分でしゃべるわけですよ、僕は日本からやってきて、こんなことできて……ちょっと待てと。そんなことよりも、スージーがあなたのビザのためにサインをしてくれるのかどうかが大事なんだと。 ここを聞きなさいと言われて、弁護士さんに。
そりゃそうだと思って、Will you sign up for my visa?

一生忘れないですよ、スージーが言ったのが、「Off course, that’s why I’m here」

かっこいいな〜 ニューヨークや〜。
ここから全部始まるんです、人生が。

2006年、ニューヨークからハリウッドへ移住。
スタンドアップ・コメディで観客をわかせ、「ザ・コメディ・ストア」という、アメリカ中のコメディアンがあこがれる劇場に出演するようになります。
そして、2008年。アメリカ ABC放送の番組『I Survived A Japanese Game Show』の司会の座を勝ち取りました。
アメリカのゴールデンタイムに番組を持った日本人、神田瀧夢さん。
最初の想いがついに実を結ぶときが来たのです。

誰にも頼まれていないけど、日本を背負って世界に出て行って、世界中に日本という素晴らしい国を広めてやろうと思ったのがひとつのきっかけです。
そのためには、作家になったり実業家になったり、政治家になったりいろいろあるわけですが、自分が目指したのは、昔から人を楽しませるのが好きだと。
だからエンターテイメントの世界に入って来た。

今から20数年前、ひとりの若者の思い描いた夢がひとつの形となった瞬間でした。