2010/6/18 井原正巳選手のHidden Story

今週は、元サッカー日本代表、井原正巳さんのHidden Story。
日本が初めてワールドカップへの出場を決めた フランス大会の予選は苦難の連続でした。チームは逆境をどう乗り越えたのか?
南アフリカで戦うSamurai Blueへエールを送るべく、井原さんの情熱物語、お届けします。

FIFAワールドカップ フランス 98。
フランス、トゥールーズのピッチには、キャプテンマークをつけた井原正巳選手の姿がありました。
日本代表、初のワールドカップ。
しかし、ここに辿り着くまでには、本当に長い道のりがあったのです。

1993年10月28日、カタール ドーハ。 勝てば、文句なしでワールドカップ アメリカ大会への出場が決まるイラク戦。 日本は終盤まで2-1でリードしていました。

あと何分か、実際に自分でも電光掲示板を確認しましたし「もうあと数分でこの試合が終わったら我々はワールドカップに行けるんだな」「ひょっとしたら夢が叶うんだな」という気持ちで試合を運んでいたと思います。

ただ、電光掲示板はもうゼロにはなっていたんですけど、その状況で、相手にコーナーキックを奪われて、そこからショートコーナーが始まり、最終的にクロスを上げられてヘディングで同点に追いつかれたと。

今から考えると、あの時間がない、残り数十秒だったかもしれないですが、普通はコーナーキックになったら時間がないときは早く上げるんですね。 あのときイラクの選手はなぜか分からないけど、ショートコーナーにすると時間がかかりますから。 だけどイラクはショートコーナーをしてきて、我々のバランスが崩れた、というのはありますよね。

実際にヘディングされたのを逆サイドで見ていましたし、ボールの軌道も今でも忘れないですが、キーパー松永さんだったんですけど、自分のいるサイドの隅に入っていったんで、一生忘れない瞬間ではありますけどね。

井原正巳さんが「一生忘れない」という、そのヘディングシュートの軌道とともに、アメリカへの門は閉ざされました。
4年後。国立霞ヶ丘競技場には、「Road To France」の文字。
ワールドカップ フランス大会 アジア最終予選が始まりました。

97年9月28日、ホームで韓国に破れ、続くアウェイのカザフスタン戦は、ロスタイムに追いつかれ、1-1で引き分け。
この試合のあと、加茂周監督更迭。 中央アジアの地で、当時コーチだった岡田武史さんが急遽、監督に就任したのです。

最終予選の最中に監督が代わるということは、我々選手のあいだにも動揺が走りましたし、ただ、その1週間後にはすぐワールドカップ予選が控えていると。

しかも中央アジアのカザフスタンとう地で監督の交代があり、とはいえ、予選はそのまま続くので、自分もキャプテンをやっていて非常に厳しい状況ではありましたが、ただ、本当にワールドカップに行きたいという気持ちがみんなにありましたから、「もう一度言いたいこと言い合って、最終予選望みがある限り、みんなで力をあわせて戦おう」というような、向こうのカザフスタンと引き分けたあとですけど、ホテルで話し合いというか、一杯飲みながらそういうことを話した記憶がありますね。

日本代表は、あろうことか、中央アジアの地で追いつめられたのです。
監督交代。

次の試合はちょうど1週間後、同じく中央アジア ウズベキスタン タシケントでのアウェイ・マッチ。
そして このゲームも先制を許す苦しい展開となりました。

FIFA ワールドカップ フランス98 アジア最終予選。
アウェイでカザフスタンに引き分け、加茂監督を更迭。
1997年10月11日土曜日、岡田武史新監督のもと タシケントでのウズベキスタン戦に臨んだ日本代表ですが……試合は、先制を許し、0-1のまま後半を迎えました。
刻々と終了の時間が迫ります。

1点を先制点を奪われてしまって、なかなかゴールを奪えないっていう時間が続きまして、あのまま負けてしまっていたら、ワールドカップの出場っていうのは本当になくなっていたかもしれないくらい、重要な試合だったと思います。

ただ、「偶然にもそのとき私が蹴ったロングボールから呂比須が頭でそらして、カズさんがゴールの前を横切ったことで、キーパーが惑わされて、そのままゴールに入った」という、本当にいろんなサッカーのゲームをやってきましたが、まあ、本当にただのロングボールが入ってしまったような形でしたが、我々が苦しく戦っている状況のなかで、あのゴールがもう一度勇気を与えてくれたというか、可能性はあるんだよというのを我々に示してくれたのかなと思いました。

試合には勝てなかったんですが、試合後、岡田さんが「この引き分けは大きい。 絶対ワールドカップに行くんだ」とミーティングで話されたのは覚えています。

絶体絶命のピンチを救ったのは、キャプテン井原正巳選手が蹴ったロングボールでした。

「みんなの気持ちがそのボールに乗り移って」というか、そういう気はしましたよね。
たくさんのサポーターも応援に来てくれていましたし、日本でもテレビの前で多くの人が応援してくれていましたから、その気持ちがひとつのボールに伝わって、ああいうゴールになったのかな、とは思ってますけど。

監督交代、見知らぬ土地、勝利から遠ざかっているチーム。
逆境を跳ね返したのは、一本のロングボールだったのです。
「そのボールには多分、考えられないくらい多くの人の想いが乗っていたのでしょう」
井原正己さんはそう語ってくれました。

その後、マレーシア ジョホールバルでのイラン戦に勝ってワールドカップ初出場決定。
1998年6月14日。 フランス トゥールーズ。
初戦の相手は、アルゼンチンでした。

入って行く瞬間というのは、自分自身この場に立つために苦しいトレーニングもしてきたし「このために頑張ってきたんだな」という特別な想いで入っていったのは覚えています。
力が入りすぎているくらいみんな力が入っていて、空回りしなければいいなと思ってましたね。

もう本当にここまで来たら、日本のサッカー、僕個人としても自分のやってきたことを100%ぶつけるしかないか、という気持ちでしたし「どういう結果になろうとも、日本のサッカーをやるしかないな」と思ってましたね。

世界への扉は開かれました。
そして、フランスから、日本韓国、ドイツ、さらには南アフリカへ青きユニフォームを纏った侍たちの道は続いています。

歓喜の瞬間が訪れるのは、おそらく、いくつもの想いが1つのボールに乗ったとき。
南アフリカ ダーバン。
Samurai Blueは 強豪オランダに挑みます。