2009/9/11 Bunkamura

今週は、渋谷にグランドオープンしてから今月で20周年!
BunkamuraのHidden Story。

劇場、音楽ホール、映画館に美術館。 すべてが1カ所に集まった、渋谷の文化複合施設「Bunkamura」。
そもそも始まりにあったのは、渋谷全体の大規模な再開発計画でした。

Bunkamuraだけで立ち上がったんじゃなくてね。 例えば、セルリアンタワーなんてあるでしょ、それからNHKの地下の駐車場、マークシティとかビルができましたよね。 全部含めて、渋谷を商業再開発しようと。 そういうトータルな渋谷の再開発計画の中のひとつが、カルチャー・ヴァレー計画といってね。 谷ですね。

そのカルチャー・ヴァレーの計画の中の重要なファクターとしてBunkamuraがあったんです。

1982年、渋谷再開発の一環として持ち上がったのが、カルチャー・ヴァレー計画というものでしたが、その呼び名は いつの間にか 立ち消え。
しかし、東急グループが構想していたBunkamuraは開発が決まります。
1984年、準備室が設けられました。
現在、東急文化村の社長をつとめる田中珍彦さんは当時をこう振り返ります。

文化って一体なんなんだろう?と。 僕自身は、人間の一番根源的、原始的なもの、元になるものとして、見る、聞く、動く=踊るですよね。 だから、それを考えると 美術、演劇、ダンス、音楽、映像がありますよね。 そういうものを中心に、それが人々に受け入れられるものだろうから、それをベースに考えましょうよと。

さまざまな文化が楽しめる施設を1カ所に集める。
見習うべきお手本は、どこにもありません。
議論が重ねられました。

音楽ホールはクラシック専用にすべき。

そんな時代の空気に逆らって、より幅広いジャンルの音楽が鳴り響くホールを 作ることになりました。
さまざまな計画が進行します。しかし。。。

そうしたなかでひとつぶつかったのは、本当は映画館を今のミュージアムのところに入れるのが最初の発想だったのね。 ところが、映画館は、地下の場所でできるのは非常に小さいものしか許容されない。 じゃあどうするんだと。

でも調べて行くと、美術館を作ることはできるのね。
じゃあ、美術館を地下に入れようと。で、下にミュージアムで上にオーチャード、この配置が決まりますね。
じゃあ、音楽劇とかコンテンポラリーダンスとかはどうなるのと。
こんなに音楽が多様化している世の中だから、もうひとつ音楽のものが必要だろうと。
それでコクーンができるんですね。 コクーンのコンセプトは、

「演劇は限りなく音楽的に、音楽は限りなく演劇的に」

それがコクーンの考え方なんですね。
で、映画館が入らなくなってしまって、これは映画館はダメかもしれない。

東急文化村の田中珍彦さんいわく、「壁にへばりつくような配置」によって、映画館を収容することに成功しました。
この設計の妙がなければ、のちにそこで超ロングラン上映されることとなる、「カミーユ・クローデル」や「さらば、わが愛」のヒットは、 なかったかもしれません。

1989年9月3日。グランドオープンを迎えた「Bunkamura」。
最初の公演は、ドイツのバイロイトで毎年夏に行われる「バイロイト音楽祭」をそのまま日本に持って来た、「引っ越し公演」でした。

Bunkamuraが オープニングに招いた「バイロイト音楽祭」、そこには、こんな 舞台裏のストーリーがありました。



9月3日にグランドオープン、という。
ところが、グランドじゃなかったんですよね。 美術館は開けられなかった。
バイロイトを招聘して、バイロイトとの相互理解というか、バイロイトは世界にいまだに出たことがない、彼らの基準は自分たちの劇場、バイロイト。僕らは通常の呼び屋さん感覚。
かみあわないんですよ。
結局、空間がたりないんですよ。

広報の「部屋をつくれ」「食堂をつくれ」「楽器を鳴らしたり声を出せる空間をつくれ」。。。「そんな場所がないよ」というのが折り合いがつかなくて。
それで、ミュージアムのオープニングが源氏。 五島美術館の源氏だったんです。
これはグル―プ内のことだったので、五島美術館に行って、ちょっと後ろにずらしてくれと。
それでオープンのときにミュージアムはあけないで、そこに食堂作ったり、楽器を鳴らせる場所を作ったんですよ。パネルで仕切ってやったんですよ。

Bunkamuraの特徴は、文化施設という、いわゆる箱をつくるだけでなく、コンテンツも手がけることです。

本来は国がやるような一大文化複合施設を、一企業がやっているんだから、企業の姿勢が明確に出るものを年間何回かやらないと意味がないと。 建物を造っただけでは魂が入らない。自主企画をやっていくべきだと。

「とにかく、現場が好きだ」 
東急文化村の社長、田中珍彦さんはそう語ります。
8月の終わり、蜷川幸雄さん演出による長編舞台「コースト・オブ・ユートピア」の稽古場には田中さんの姿もありました。

彩の国の稽古場、1週間に1回は、行きますよね。 現場に行って、未完成のものが完成へのプロセスを歩いて行くものがしみてくることがあるわけですよ。 現場はよく行きますよ。 前にやったときも、巣鴨の廃校で稽古をしてて。 みんなを慰労したいと思って、蜷川さんに「迷惑かね?」と言ったら、「やってあげてよ」と。

で調べたんだけど、100人も入れる焼き肉屋がないんですよね。
じゃあ、稽古場でやろうとなって。 ドゥマゴのみんなでケータリングやって、冷しゃぶ作ったりコロッケあげたりやって。。。
いいカンパニーになったけど。 でも、そういうことを作って行くのがプロデューサーの役目のひとつだし、そうするためには、稽古場に行って、仲間内に入っていないとだめだよね。

文化を愛し、現場を愛し、そして何より 仲間を愛する。
魅力的な空間の秘密が見えたような気がしました。