2009/6/26 建築家 隈研吾さんの情熱物語

今週は、この秋リニューアル・オープンする南青山の根津美術館をはじめおよそ50のプロジェクトを抱える建築家、隈研吾さんの情熱物語。

隈研吾さんが初めて建築を手がけたのは、1979年、25歳のときでした。
所属していた事務所から独立して、最初に作ったのは、友人の別荘「伊豆の風呂小屋」。32歳のころでした。
90年代に入ると、東京・世田谷のM2ビルを担当。
景気が加速していた時代、すべては順調に見えました。

しかし、ここで訪れたのが、バブルの崩壊。

1991年にM2ビルを手がけた後、バブルがはじけるんです。 東京での仕事の依頼がまったく来なくなったんですよね。

それで、地方で、規模の小さな、素朴な建物の設計を10年間やったんですけど、そのときに、投資のためじゃない、人間がそこで生活するための建物、あるいは作る人が本当にしあわせになるための建物、ということを手探りで始めたんですね。

隈研吾さんが、「自分にとって 重要な時間だった」と語るのは1990年代の10年間。
地方で仕事をすることによって、そこに脈々と息づいている建築の技。 そして、その技を持つ人々と出会ったのです。

バブルがはじけたあと10年間、地方でコツコツ仕事をしていたときに、自分の基礎ができた感じですね。 そこでは、地方の職人さん、大工さんとじっくり話しながら作ってね。 そういう人たちはそれなりに頑固でね。

僕が「こうやりたい」と言ったものを「そんなものできるわけないだろ」とか。
木とか土とか紙とか竹細工とか、そういうものはどう使えばいいのか、どうすればきれいになるのかとか、モノとじっくりとっくみあいながらモノを作る、というのを10年間やったわけですね。

逆境だからこそできること、それは、自分の中に力をたくわえること。
10年間。。。日本各地の職人さんと ヒザを突き合わせて仕事に取り組んだ日々が、その後の道を切り開くことになるのです。

建築家、隈研吾さん。
90年代は、バブルがはじけて 東京での仕事が激減、地方で 地元の職人さんたちとモノづくりに挑戦しました。
    
2000年代、新しい風が吹き始めます。

90年代に僕が身につけた技、自然の素材を使って人にやさしい建築をつくる技、みたいなものがね、世界からそういうものを作りたいという引き合いがくるようになったんですね。 日本のどこにでもある技だと思っていたんだけど、それは世界の人が求めているものにフィットするような感じ、世界の人が建築に求めるやわらかさとかやさしさとか人を癒す力とか、そういうものが、90年代に僕がやってきた建築デザインにあった感じなんだな。。。

中国、万里の長城のそばに作った「竹の家」。
フランス マルセイユの「現代美術館」。
フランスとスイスの国境に近い街 ブザンソンの 木で出来た「音楽ホール」。
さまざまなところから仕事が舞い込みました。

今は、世界各地に点在する現場を飛び回る 建築家、隈研吾さん。
実は、どの国に行っても、どの街に行っても、大事にしていることがあります。

それぞれの場所でそこに生活している人たちって、それぞれのリズムで生活しているからね。 そのリズムに乗れないと、その人たちが喜ぶ建築は作れないですよね。

都会の人は都会のリズムで生活しているけど、ブザンソンの山の中に行ったら、それはまた違うテンポで人は動いているから。

どこかへ行ったら、そこの人たちとできるだけ親しくなる機会を最大限利用する。
飲んだり食べたりするのが一番早いんですけどね(笑)でも、建築ってお互いのコミュニケーションだということが分かっている人は、いい建築を作るんじゃないかと思いますね。

「建築とは、人と人がどれだけ親しくなれたのかを 形にすること」。
そう語る、建築家・隈研吾さん。
今は、およそ50のプロジェクトが同時進行中です。

近いところでは、この秋、東京・南青山の根津美術館がリニューアル・オープン。

例えば、ある場所で見つけた面白いディテールがあると、また別の場所でもっと進化させて活用しようとかね。 だからいろんなプロジェクトをやると、相互にいい影響がありますね。 だから僕の場合は、自分のスタイルを押し付けるわけじゃなくて、それぞれの場所から学ぼうとしているから。

いろんな場所でやっても、それぞれを楽しんでるっていう感じかな。

学ぶべきもの、学びとれることは、どんな場面にも存在する。
そして、学びは、人とのコミュニケーションによって もたらされる。
だから、常に楽しい。
それが、隈研吾さんの建築人生。