2009/2/13 「レインボーブリッジ」の誕生物語

今週は、東京のシンボルとして、重要な交通のルートとして、またあるときは恋人たちのデートスポットとして東京湾をいろどる橋。
「レインボーブリッジ」の誕生物語。

東京都港区の芝浦とお台場を橋で結ぶ、このルートの検討が始まったのは、1977年のことでした。
実際に工事が始まったのは、その10年後の1987年。
その間、話し合われた大きなテーマは、橋をどのような形にするのか?ということでした。

いろんなことを検討しなければいけませんが、
まずどういう構造形式でつないでいくのか、ということを考えなくてはいけませんね。そのためには地盤の条件であるとか。。。
で、そのときにひとつの課題が東京湾をまたぐものですから、全長幅で1000メートルの航路、狭いところでは800メートルの航路がありますので。。。

場所は、東京湾の玄関口。
船が行き交う場所です。 船の通り道、航路をどうやって確保するのか?
そして、地盤はどうなっているのか?
さらには、近くには羽田空港も存在します。
橋を造るプロや学識経験者が集まり 会議が重ねられました。

この場所が首都圏、東京都であることを考えますと、これまで吊り橋というものがなかったんですね。一般的には吊り橋には向いていない場所とされてきました。で、東京湾のゲートという意味で吊り橋にしたんですが、、、たまたま、ここの下の方の地盤が吊り橋としても問題ない、と評価できましたので吊り橋が可能になったわけです。

東京湾に吊り橋を架ける。
一大プロジェクトが始まりました。

レインボーブリッジ。
工事の第一歩は、陸に近い場所に 作業用の桟橋を造ることでした。
つづいて、橋の両側で 吊り橋のロープを支える部分の工事がスタート。
海底に橋の重さを支える「ケイソン」という巨大な構造物を沈める作業が始まりました。
ここで問題となったのは、地盤です。橋を架ける場所は、粘土質で、軟らかい岩=「軟岩」と呼ばれる性質を持っていたのです。

時間がたつと変形して行くんですよ。そんなに大きな変形をするわけじゃないんですが、長い年月をかけて動くんじゃないかということで、長期的な変形が起きても、この吊り橋がその変形に耐えられるという計算をやっているんです。架設するとくが一番動くんですよね、作ってる最中が。だからその動きを予測して架設したりということもやってるんです。非常に緻密な計算をしていますよね。

つづいてポイントとなったのは、主塔=吊り橋を支える2本の塔の設置です。

フローティングクレーンと書いてありますが、台船の上にクレーンが付いているものなんですが、これは日本にも数台しかないんですが、これで工場で作ったものをそのまま 吊りながら持ってきて、そこでどーんと架設するんです。

何千トンにもおよぶ塔を工場で組み立て、それを海に浮かぶクレーンの船で運び込み、東京湾に立てました。
2本の塔が立つと、塔と塔を結ぶケーブルがかけられます。
その後、カーブを描くケーブルから橋げたを吊るために垂直方向のケーブルが設置。
そして、ついに橋の床の部分がそこに付けられていきます。
構造は2階建て。ゆりかもめが走る部分も組み立てられていきます。
完成の日は、近づいていました。

首都高速道路株式会社の並川堅治さんは工事を振り返ってこう話してくれました。

風対策は結構やりましたね。ここは風が強い場所で、しかも吊り橋は揺れやすいんですよ。 風が当たってくると揺れが加速されていくというか、大きくなっていく可能性があるんで。。。完成系では室内で試験やってどうするかを検討されています。
具体的には、床組のすきまがすべてあいているんですよ。風が抜けるんですね。

東京湾に橋を架けるということの難しさ。
それは地盤や風という東京湾ならではの課題に向かい合うことでした。
1993年8月26日、レインボーブリッジ開通。。。
芝浦とお台場を結ぶ橋は、さまざまな人と人をつなぐ橋。
その名前は2万通にもおよぶ公募の中から選ばれたものです。