2009/1/23 YKKのHidden Story

今週は、みなさんの身近なところにも必ずあるでしょう。
「ファスナー」 を手がける YKKのHidden Story。

『 多くのファスナーに刻まれている文字「YKK」の「Y」はYKKの創業者 吉田忠雄さんの「Y」。
そもそもの始まりは、1930年代。
当時、陶器や豆電球などを輸入販売する業者に勤めていた吉田さんはその商品のひとつとして、「ファスナー」を扱っていました。
そして、1934年、「サンエス商会」という会社を自ら設立。
次第にファスナーの取り扱いが増えていったのです。
YKKの浜井則継さんは分厚い資料をめくりながらこう答えてくれました。

当時、日本で作られているファスナーは、品質が安定していなかったと。
安定しているものについては、そのまま売りましたが、こわれやすいものについては、自分たちで再加工して販売していたということですね。
当時は「手作業」ですけども、手作業で作っていたため、品質が安定していなかったということです。

国内への販売とともに、ファスナーの輸出を手がけるまでになった「サンエス商会」ですが、ここで、時代が 行く手をさえぎります。
太平洋戦争勃発。
空襲で工場も焼け、創業者の吉田忠雄さんは故郷の富山に戻りました。

復活への道は富山から。 戦後間もなく地元で工場を再開。
今度は 時代の波が いい方向に作用します。

日本における一般庶民の服装が大きく変わりました。もともと、着物文化だったわけですが、アメリカ軍がこられまして、そのズボンにファスナーがついていたり。急速にファスナーが広がっていったと聞いています。
文化が変わる過渡期であったわけですから、ファスナーの需要が拡大していったわけですが、品質が追いつかない。そこで大量生産するにはどうすればいいのだろうと日夜考えていたわけですね。

文化の変わり目。 吉田忠雄さんはアメリカに飛びました。
そこで出会ったのが、自動でファスナーを作る機械でした。
吉田さんは即座に決断を下しました。

「この機械を4台輸入する」。

この決断こそが、今や世界じゅうにその名をとどろかせるファスナー・ブランドの大きなターニング・ポイントだったのです。

YKKのファスナーは、1950年に機械を導入したことによって飛躍的に生産本数を増やしました。
1952年には、ひと月500万本。
2年後の1954年には、ひと月1000万本。
生産拡大とともに、視線の先にあったのは「世界」でした。

当時は日本では輸出できる商品が少なかったわけです。
でも日本から輸出していてもいつかは限界がくるだろうと。やはり縫製産業がある地元で生産するべきじゃないだろうかと。
当時の企業としては、かなり早かったと思うのですが、昭和34年にニュージーランドに会社を設立しました。これが海外会社第一号ですね。

翌年1960年にアメリカ。さらにヨーロッパ、アジア、アフリカ。
世界じゅうに「YKK」の文字が広がっていきます。
人々に受け入れられたのにはもちろん理由がありました。
それは、「すべてを自分たちで作ること」。

ファスナーというのは、いろんな技術要素がありまして、繊維関係の技術もあれば、染色、金属をうちぬくプレスの技術。
鋳造技術であったり、スライダーが出来上がったあとにメッキ、色をつける。
小さい商品ではありますが、いろんな技術が必要とされる技術なんですね。

小さな商品ではあるものの、ものづくりの極意が詰まった商品「ファスナー」。
YKKの石田智久さんは、最後にこんな話をしてくれました。

生前、吉田忠雄が言っていたのはですね、
「ジッパーというのは、お客様が色んなニーズをもってらっしゃると、だからいいんだよ」と。

「つまりYKKはお客様のニーズに基づいて、色々な機能のファスナーを開発すると、開発することに需要が開拓される。したがって発明と工夫によって、需要はどれだけでも増やすことができるんだよ」と。
不便さが当たり前になっているものってたくさんあると思うんですよね。その当たり前の不便さをれをもっと操作のやさしい、使い勝手のいいという。。。

創業者が 初めてファスナーを扱う会社を立ち上げてから70年あまり。
YKKのファスナーは、宇宙服に使われて、宇宙空間にまで旅立ちました。
記憶に新しいところでは、昨年 北京オリンピックで大きな話題となったあの水着「レーザーレーサー」で使われていたのも YKKのファスナーでした。