2009年07月31日

バラーナス最大の祭り その2

28日に載せた原稿で予告しておいたバナーラスで
催される最大の祭りに集まって来る老若男女が
ひしめき合って沐浴をする写真をお見せします。

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まだ太陽が昇りきらぬ薄暗い時間から、人々はガートへ殺到する。
11月下旬のインドは昼間は暑いが、朝晩はもう冷えてくる。
水温もかなり低いはずである。若い娘たちは「冷たい」と嬌声を上げるが、
爺さん、婆さんはそんなそぶりを見せることなく、
黙って沐浴を済ませていく。

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太陽が人々を照らし始めるとますますざわめきが大きくなるような気がする。
寒さを敬遠していた人たちも宿から沐浴道具一式を揃えて、ガートに突入する。

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異教徒の私はカメラを向けることにためらいを感じることもあるが、
怒る人はいない。
若い連中は笑顔で答えてくれたりするが、
この女性たちはじっとこちらを見つめ、まるで私にも幸あるように
聖なるガンガの水を掌から河に戻してくれた。

祈りとはなんであろう。
それが知りたくてずっともがいている。

                        大倉眞一郎

BOOK BAR staff| 08:13 | カテゴリー:

2009年07月30日

変わるインドと変わらないインド

このいい加減なタイトル。
どこの国だって同じジャン。
それでもインドの場合は多少極端かもしれない。
世界中の国々がインド、中国の人口が多くなりすぎて、
食料、環境問題が深刻化するのではないかと心配しつつ、
全く逆にその増え続ける人たちが、
ガンガンお金を使って、いろいろ自分の国のものを買ってくれると
嬉しいなあ、とお祈りをしている。

経済問題は一筋縄ではいかない。
先進国の人間が今と同じ生活水準を維持し、
途上国の人間も同様の生活を始めると世界は破綻するのである。
ご存知の通り、日本では毎年約1940万トンの食糧が廃棄されている。
世界の食糧援助の総量が約330万トンであるから、
その約6倍捨てちゃってるのよ。
自給率が低いこの国でですぜ。
ただ日本だけがアホなことをやっているのではない。
アメリカの政府系環境保護機関の調査では
アメリカ国内で年間約4320万トンの食料が捨てられている。
中国ではまともな食生活を送れない人が片方にいるが、
中国でお金をお持ちの方にご馳走になると、
初めからそりゃ食えないでしょう、と驚くほど大量の料理を注文する。
やっぱり食えなかった、とこちらは肩を落とすが、
全く手をつけていない皿があっても、彼らは全然気にしない。
中国人がみんな日本人並の生活水準を得たときどんなことになるのか
奢ってもらっといて失礼な話だと思うが、不安でならない。
ややこしいのは、食料を廃棄することで、
利益を得ている人がいるということである。
言い方を替えれば、
廃棄しないと利益が得られない企業も存在するということである。
そして経済は一箇所でとどまることはないので、
利益が出ない状況は伝染する。
それが膨らんで不況が起こる。
クルーグマン、スティグリッツのようなノーベル経済学賞受賞者が
やんやかアメリカ政府を批判したりしているが、
根本的な目指すべき世界の哲学までは示していない。
問題は食料だけではないが、
わかりやすいので例に上げさせてもらった。

何の話だ。
インドの話をしようとしていたのに。

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写真はデリーを走るリキシャ。
かつてはオートリキシャと呼んで、自転車式のリキシャと区別していたが、
自転車リキシャの数が減ったので、名前を受け継いでリキシャとなった。
そして、このリキシャも減った。
ドス黒い排気ガスを撒き散らしていたので、非常に評判が悪かったのである。
環境のことを置いておくと、使い勝手がよかったので
インド人も旅行者もよく利用していたのだが、
鼻をかむとティッシュが真っ黒になるくらいひどかった。
また、今でもそうだが、メーターがついているのに
使用しようとしないので旅行者と大喧嘩になるのである。
ちなみにネパールでもかつてはこのリキシャが町中に溢れていたのだが、
今はもう見ることはない。消えてしまった。
インドでもネパールでもほとんどマルチスズキに替わってしまった。
おかげで鼻くそを気にすることはなくなったが、
駆け引きの面白さはなくなった。

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こんなもの昔は見なかったなあ。
恐らく足の悪い人が使えるようにした自転車であろう。
インドでも様々な分野でイノベーションが起きている。
しかし、写真で見る限りどうやってハンドルを切っているのかがわからない。
そもそもハンドルが見えない。
どうにかしているはずなんだが、謎の乗り物である。

かくしてインドは急速に豊かになり、「グローバリズム出ずる処の殺人者より」
の主人公のようなお抱え運転手が増えていったのである。

カースト制は厳然と残ってはいるものの、
かつては職業を受け継ぐための制度と説明も出来たのだが、
ITだ、国際金融だ、その上英語能力も求められるようになり、
職業を担当するカーストがわからなくなってしまい、
そのあたりからもカースト制が曖昧になってきている。
士農工商でもそうであったが、
上位カーストが必ずしも金持ちとももいえなくなった。

公式には存在が認められていないカースト制が実質的になくなった時に
インドは我々の想像を超える超大国となる。

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ムンバイで2008年11月27日に起きた同時多発テロは記憶に新しい。
写真のタージマハル・ホテルも攻撃を受け、大きな被害を出した。
パキスタンを拠点とするイスラム過激組織ラシュカレ・トイバの犯行であったようだが、
小さな衝突は普段から起きていても、
あそこまで大きなテロは10年に一度くらいである。
救いはあの事件がきっかけとなる報復テロが起きなかったことである。
かつては陰惨な衝突が起きていたことを思うと、インドも変わった。
映画「ボンベイ」では92年に起きたムスリムとヒンズー教徒との
激しい衝突が描かれている。
レンタルできると思います。

                         大倉眞一郎

BOOK BAR staff| 06:30 | カテゴリー:

2009年07月29日

骨まで愛して

杏ちゃんの選曲「骨まで愛して」にはさすがの私も驚いた。
おじいさまがカラオケで熱唱されているらしいが、
おじいさまもなかなかやるもんである。
この曲は私が9歳の時に140万枚売る大ヒットとなったが、
当時のムードは大歓迎と言う感じではなかった。
少なくとも下関では。
というのは、この曲、小学生の心も鷲掴みにしたようで、
私も歌ったが、そこいらじゅうで鼻を垂らしたガキ共が
身体をくねらせて「ホネまで〜」とやりだしたからである。
今も変わりはないが、教育上問題があるとか何とかで、
オバハンたちからイチャモンをつけられたのである。
何が悪いのかは小学生のガキに分かるはずもない。
私は今でもわからないが、やはり勘のいい連中が身体をくねくねさせたのが
オバハン共の怒りを買ったのではなかろうか。
今のガキはそんな歌を人前で熱唱する元気もなさそうである。
学校で無理矢理にでも歌わせて、
バイタリティ溢れる大人に育てて欲しいものである。

この曲を歌った城卓矢であるが、私はこの曲以外残念ながら覚えていない。
「骨まで愛して」以外はあまりヒット曲に恵まれなかったようである。
「スタコイ東京」という曲もリリースしていたようであるが、やはり知らない。
スタコイって何だろう。辞書には出ていませんでした。

最近は草食系男子とかいう性欲を失った男が、
むしゃむしゃ肉食系女子に食われているらしい、
とある人が言っていたような気がする。
本当かしら。

何故そんなことになったのか、特に知りたくもないのだが、
一応考察を加えてみると、
何度も放送で杏ちゃんと話しているように、
他に楽しみがたくさん出てきちゃったからではなろうか。
ゲームもなきゃ、ネットもない状況下では
恋愛くらいしか心の支えになるものがなかったんじゃないすか。
人と付き合うことは基本的に手間がかかる。
説得したり、妥協したり、怒ったり、怒られたり、嘘ついたり、嘘つかれたり。
あー、面倒だと思っても仕方ない。
しかし、楽しいことが少なかった時代は恋愛は貴重な娯楽であったのである。
総攻撃を受けることを覚悟して申し上げれば、
「源氏物語」なんか私から見ればエロ恋愛ミステリーである。
すごく楽しかったのだから悪いことではない。

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ベトナムは選挙もある民主主義国家であるが、
現在の政権は一応中国同様、社会主義を標榜している。
その枠内で市場主義も認めている。
旅の中で見る限りは
どこが社会主義なのかわからなくなることが多いのではあるが。

この国はかつて北が共産国、南がアメリカ傀儡政権であるから
一応資本主義の形態をとっていたわけだが、
現在の恋愛事情についてはホーチミンよりもハノイのほうが
あけっぴろげな印象がある。
別に共産国が恋愛を禁じていたわけではなかろうが、
戦争に次ぐ戦争でそんな暇がなかったような気がしていた。

去年ハノイで日本に帰る飛行機を3日間待っていた時に
「あらま」という光景を何度も目にした。
ホアンキエム湖という繁華街の中心にある大きな湖は
市民の憩いの場である。
体操するおばさんも、暇な爺さんもたくさんやってくるのだが、
真昼間から仲のよいカップルも現れる。
その様子が夏の夕方の井の頭公園と変わらぬ様相を呈している。
あんまり過激なところまで至っているお二人には
カメラを向けられなかったが、写真のような品行方正なカップルだけではない。
「それはもう少し暗くなってからにしてくださいよ」
と声を掛けたくなる方々がかなり見かけられる。

10年前にミャンマーにいたときにも同じようなものを見た。
ヤンゴンにはカンドーヂー湖がある。
ここはすごかった。ハノイの10倍はすごかった。
おしっこがしたくて森の中で木の陰で失礼させていただこうと
歩き回るのであるが、大きな木の根元には暑い中必ずぴったり身体を
くっつけた二人がいるのである。
どこにも用が足せるような場所はない。
これはまずいと出来るだけ人のいなさそうなところへ向かうのだが、
人のいなさそうなところこそ、そういう場所であるからして、
さらに過激な行動に走っているカップルがいて、
そんな写真を撮る気もないので、早々に引き上げざるをえなかった。

10年前のヤンゴンも今のハノイもみんな
「骨まで愛し合ってるかい!」「イエー!」である。
日本の皆さん恋愛の原点はここですよ。
相手をむしゃぶりつくすことですよ。
時には人目もはばからず。

警察の厄介になることもありえるので、
私は一切責任を取りませんが、
「ほどほどに愛す」、じゃ
杏ちゃんのおじいさまはカラオケでは歌ってくれませんよ。
みんな、頑張れ。

                         大倉眞一郎

BOOK BAR staff| 14:14 | カテゴリー:

2009年07月28日

バナーラス最大の祭り

2007年11月下旬、私はインドのバナーラスですっかり住人面して、
毎日河を見ていたのだが、そろそろデリーに戻って日本に帰んなきゃ、
と列車のチケットを手配しようとしたら、
「お前はアホか。お前が帰りたいといっている日の翌日に
バナーラス最大の祭りがあるんだぜ。見て帰ること」
と宿のアンちゃんに命令されたので、それに従った。

祭りは11月24日、祭りの名前はDEV DEEPAWALI。
どういう祭りなんだかはよくわからない。
この祭りにあわせてかどうかは不明だが、、
前日にバナーラスの裁判所他、ウッタルプラデッシュ州の3ヵ所で
同時に爆発が起こり、バナーラスだけで9人が死亡した。
ムスリムのテロではなく、「ゴロツキどもの仕業だ」と、
インテリ風のインド人が吐き捨てるように話していた。

24日は朝からガートの様子が違う。
あちこちからチャンティング(祈りを唱和すること)が聞こえてくる。
あわててカメラを持って飛び出すと、
延々と並ぶガートのほぼ中心にあり、インターナショナル・ガート
(多分インドのどこから来ても沐浴できるという意味だと思う。
ガートはたくさんあるが、それぞれのガートはどこどこの州から来た人たちが
沐浴するところ、と大雑把に決まっている)
と呼ばれるダシャーシュワメード・ガート周辺の三つのガートは
普段の5倍くらいの人が沐浴の順番を待って、
寸分の隙もなく、押し合いの状態である。
居場所が無いのでボートを借りて、ただただ眺めいっていた。
それはもう壮観の一言。
この写真はスキャンしていなかったので、今週後半に。

沐浴は朝一番が一番いいのだろうが、
水が冷たいし、ガートのキャパを越えているので昼過ぎまで
人が絶えることがない。

祭りの最大の山場は日が暮れてからである。
ダシャーシュワメード・ガートでは毎晩大きなプージャが執り行われているが、
24日は特別仕様で、プージャを捧げる先のガンジス河の中に
馬鹿でかい舞台がふたつ立てられている。
前の日から用意はしていたが、よくもまあ水の流れに逆らい
無理やりすえつけたものである。
祭りの手際はインド人、見事である。
この舞台、大掛かりなのには感心するのだが、
何だかよくわからない挨拶だの、村の踊りみたいなのが続いてさっぱり面白くない。
今度行こうと思う人は舞台は無視して、
プージャのよく見えるところに陣取ったほうがいいですよ。

私は日が暮れる数時間前からちょうどプージャが正面に見える石の階段に
トイレも我慢して座り込んみ、ひたすら待った。
このために予定をずらしたのだから、見損なったら一生後悔する。
インド人は早くから並ぶということはあまりしないようで、
ぼちぼち集まってくるが、集まると何とか座れるようあらゆる手を尽くす。
人が多いのだから左右ぎゅうぎゅうに詰められるのは
仕方がないが、たちの悪いのは私を押しのけようとする輩である。
私は異教徒なので、できるだけおとなしくしていたのだが、
あまりにも露骨な動きには声を荒げてしまう。
そうすると私の真っ黒な顔、真っ白な伸び放題の髭、貫禄ある髪の毛に
圧倒されてか、以外にあっさりあきらめたりする。
年寄りにインドはいいよ。

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で、上の写真に写っている人たちが見ているのが、
普段の3倍くらい派手なプージャ。

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見にくいと思うが、右の長い髪の少女は筆舌に尽くしがたいほど美しい。
しかし、身動きが取れなかったので、この写真が精一杯である。
インドの美しい女性は、完璧に美しい。
リチャード・ギアがインドの舞台で女優に誠に無礼な振る舞いに及び、
インド中から非難を浴びたことがあった。美しさに血迷ったに違いないが、
私はもっと糾弾されるべきだったと思う。

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プージャの締めは見物人も立ち上がっての短いチャンティングである。
両手を上に上げて何やら叫ぶ。
それが終わるとぞろぞろ帰っていくのであるが、
離れた階段でそれを待っているのが、話をして聞いたわけではないので、
100%の自信は無いが、ダリット(ハリジャンとも呼ばれる、不可触民)だと思う。
アウトカースト、つまりカーストからもはずされた人々である。

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ウッタルプラデッシュ州にはとくにこの人たちが多い。
前回の選挙でダリットの権利のみを主張する政党
(この政党はダリットの権利を守ると言いつつ汚職、
法への不当な介入等で実は評判はあまりよろしくない)
が圧倒的に勝利するのではないか、と危惧されていたが、
ダリットの人々からも愛想をつかされて、大きく議席を減らした。
ともあれ、この人たちは何をしているのかというと、
喜捨を待っているのである。
インド中から集まってくる巡礼からいくばくかの米、小銭をもらうべく、
明るいうちから並んでいる。
何がしかのものを置いていく人、無視して行ってしまう人、様々である。
普段の生活がどのように営まれているのか、
この旅では知りようがなかった。
いつか、またじっくり歩き回った後、報告の機会を持ちたい。

という感じでインド全国から巡礼が押し寄せるバナーラスの
最大の祭りに参加した私はこの後すぐに宿に戻り、
デリーへ向かう列車が待つはずであったヴァーラーナシー駅へとダッシュした。
そしていつ来るのかわからない列車を
駅の構内で横になってひたすら待ったのであった。

先日の皆既日食、このバナーラスでも見られたらしい。
知らなかったなあ。
日本のどこに行こうとも思わなかったのだが、
知っていたら番組飛ばしてでも行って、
インド人と一緒に騒いでいたのに誠に残念。

ちなみに先週紹介した「グローバリズム出ずる処の殺人者より」には
このバナーラスは全く出てこない。

                         大倉眞一郎

BOOK BAR staff| 11:10 | カテゴリー:

2009年07月08日

プノンペンの消費社会

カンボジアのプノンペン、ラオスのビエンチャン、
どちらでも、できたてほかほかのトヨタの
馬鹿でかい四輪駆動車があんまり走っていないが、
そこかしこに駐車されている。
しかも、色はみんな黒で、ピッカピカに磨き上げられている。
決して商品展示されているわけではなく、
明らかに使用されているものである。
みんながそんなものに乗っているわけもなく、
またあらぬ疑いを向けるのであるが、
日本でも小さな車が大人気というのに、
誰がいったい所有しているのであろうか。
どちらの国も首都を外れるとかなりきつい道路事情なので、
やむなく四駆かとも思い込もうとしたが、やっぱりねえ。
皆さんも考えてみてくださいね。
ちなみに、ガタボコの道でかの車らを見かけたことは一度もない。

カンボジアはラオスと比較すれば消費経済が進行している。
特にプノンペンは大きな都市でいくつも市場があって楽しめる。
カンボジアというと観光客はアンコールワットを目指すので、
シェムリアップのみ訪れることが多いが、
プノンペンもグジャグジャしていて面白いですよ。
街だけのことで言えば、私はプノンペンのほうが好き。

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上の馬鹿でかいドームはプノンペン最大のマーケット、
セントラルマーケットの中心部である。
外側から見ると巨大なお城にも見える。
ここにないものはない。
えー、そのはずです。
ルイ・ヴィトンとかは「ないものはない」ということで、
ご理解ください。
いやマジな話、高級ブランド以外のものはすべてここで手に入る
と思っていただいて結構。あるはずのものがなかったらご一報ください。
商売を始めれば儲かるかも。
写真に写っている中心部は綺麗に区画整理されているが、
周辺部に行くに従い、通路は狭くなり、迷路と化してくる。
生鮮食品、家電、宝石、時計、衣料、マニキュア・ペディキュアの美容コーナーetc.
そういや仕立て屋まであった。
グルグル回って汁麺を食うのである。
結局、何も欲しくない私はどのマーケットに行っても汁麺以外消費しないが、
こういう場所だと私には無駄だと思える消費をしているのを見るのが楽しい。
カンボジアの消費社会のシンボル。

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こちらは明らかにセントラルマーケットではないね。
恐らくシアヌークビルのマーケット。
強力な陽が差すので野菜、肉、魚の売り場の上にはどこも
青いビニールシートが張られている。
暗くて写真をとるのには不便するのだが、
この怪しさがまた心を躍らせてくれて、うまい汁麺を探すモティベーションになる。

私の場合、とっくにお気づきのようにどのマーケットに行っても
写真を撮る、汁麺を食う、これ以外には興味はない。
それはよく考えれば、日本でも同じである。
少なくとも衣、食、住についてはどんなオンボロであっても
どうにかなる金を持っているからである。
たまたま私はその他、本とCD以外には興味が向かなかったが、
世の中には持てば持つほど持ちたくなる人が多いらしい。

「100億持っているとどうしたくなると思いますか」
「・・・・」
「1000億にしようと思うんですよ」
と誰かが言っていたような気がするが、人それぞれである。

ウォール街を莫大な給与、ボーナスを手にして去って行った人間が
大量にいるが、彼らは何を消費したいのであろうか。
私には謎である。

一人ひとり聞いて回って本にしてみたいが、誰か乗りませんか。

                         大倉眞一郎

BOOK BAR staff| 07:12 | カテゴリー:

2009年06月25日

特異点

「特異点」というタイトルで村上春樹の小説に引っ掛けて
何か書こうと思ったのだが、
念のために「特異点」を広辞苑で引いてみると、
どうも数学用語のようで何のことだかよくわからない。
高校の最初の数学の授業でサイン、コサイン、タンジェントを
聞いて以来、綺麗さっぱり数学とは縁を切ったので、
こういう時に難儀する。

それでも、特異点に新たな解釈で勝手に意味を持たせて
がむしゃらに突っ込んでみよう。
そんなに難しく考えないでいただきたい。
「特別な場所」くらいのことしか考えていない。
中沢新一が書いた「アースダイバー」の中の
アース・ダイヴィング・ポイントともまた違う。
どこか別の世界の入り口、
あるいは別の世界を垣間見ることの出来るような場所を想定している。
わりと実存的に生きている私であるが、
ある場所へ行くと、クラッと来て別世界と接したような「錯覚」に落ちることが
50年以上生きていれば何度かある。
それはネパール、カトマンズにあるスワヤンブナートの寺の一角であったり、
ハワイの海辺の木の下であったり、
伊勢神宮の木漏れ日が当たっている結界であったり、
下関の立ち入り禁止になっていた防空壕跡であったり、
バリのウブドゥの森の中であったりする。
そこから宇宙船に乗ってどこかへ行ったわけではないが、
背筋が寒くなる、といっても恐いわけではなく、
スーと何かが脊髄に沿って流れて行ったような感覚である。

村上春樹の小説ではそんな特別な場所から
別の世界へ移動しているわけではないが、
(少なくとも私は首都高池尻大橋周辺でそんな感覚を覚えたことはない)
巧妙に仕組まれた「特異点」は存在している。
あれは私のように実際に感じたことをうまく使っているのか、
計算しつくして、その「ねじれ」感を作り出しているのか、
どちらなのだろう。

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あまりにも観光客が押し寄せる世俗的な場所で申し訳ないが、
私は光がギリギリ刺す、タイのパタヤ沖のラン島で
この溶けるような風景の中に浮かんでいる船はどこに行くのだろうと、
熱中症寸前になるまで見入っていたことがある。
あの舟はやはりパタヤに戻ったのだろうか。

                         大倉眞一郎

BOOK BAR staff| 11:10 | カテゴリー:

2009年05月29日

日常の憂鬱と僥倖

前回の放送では杏ちゃんと「日常」というコトバに潜む
怪しげな罠のようなものについて話をした。してない?

日常という価値観もすべての価値と同様に主観的、相対的なもので、
「これこそ誰も文句のつけようのない日常だ」
なんてものは存在しない。
「サザエさん」の世界だって見ようによっては相当日常じゃないよ。

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とは言いつつ、日々暮らしていると別の日常に飛び込みたくなり、
私は旅にでる。ダレダレ、ダラダラの旅なので
気が付くと日常化したりしている。
でも、そっちのほうが見えないものが
見えてきたりするから不思議なものである。

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インドのバナナ市場に紛れ込んだときは
あまりにも「日常」口にするものが、
こんな普通のインド人でも入ってこない、
紛れ込んだ人間には「非日常」に見える所で
取引されているのに驚いた。
でも、そこで働く彼らには
「毎日毎日がバナナ」の日常である。
バナナな日常。

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ロンドンでは7年間、毎週土日、必ず近くのリージェンツ・パークへ行って、
アヒルやリスに餌をやっていたが、
これぞ究極の日常。
イギリス人は変わらない日々を愛する、
というかあきらめている。
そんな日常にふと意外な光が差す瞬間があったりする。
私は小さな感動を喜んでいた。

「自分に負けるな」
「あなたは時間を無駄にしている」
「夢を持て」
「走り続けること」

こんな言葉を聞かされ続けると、息苦しくて仕方がない。
私の生き方は波乱万丈のように言われることがあるが、
実際は小さな日常の積み重ねである。

                       大倉眞一郎

BOOK BAR staff| 04:13 | カテゴリー:

2009年05月19日

水子地蔵

私事ながら、ロンドン時代から続いている異業種の勉強会に参加して、
もう16年になる。ロンドンに赴任している会社員、役人の会だったので
帰国してからいきなり無職、無所属となった私は
居座ってよいものかどうか迷ったが、会員の励ましというか、
無関心に助けられて、いまだに出席している。
16年も毎月集まってはへべれけになるまで飲んで、
ちょっと勉強するのである。
普通、仲のいい友人とでも月一回会うのは難しいのに、
よく続いているものである。

夏は毎年、勉強がわりにみんなで旅行に行く。
説明すればするほどどういう会なのか、わからなくなるなぁ。

昨年は山形に出かけた。
目的は非常にわかりやすく、「うまいイタリア料理屋がある」
それだけである。
鶴岡市にある「情熱大陸」でも取り上げられ、
全国から客が押し寄せる奥田政行氏のアル・ケッチャーノである。
ここで昼食をとるために飛行機で行った。
この店、マジでヤバイっすよ。
無農薬野菜はもちろん、あらゆるものがうまい。安い。
すっかり波に乗った我々は昼の暑い最中、
一人ワインを一本以上飲むわ、際限なく食うわ、
満喫を超えて、晩飯が食えなくなるまで堪能した。
その飲み食いは異常だったらしく、
お店の方々も好きにさせとかないと、
暴れられては困ると思ったのであろう、
大変やさしく接してくださって、
「皆さん、健啖家でいらっしゃいますね」
と驚きつつ、あまり刺激を加えないようご配慮くださった。
私が最年少なのに真昼間から一人ワイン一本以上である。
問題ある団体である。

「奇蹟のテーブル 雨の日にはアル・ケッチャーノへ行こう。」
という本まで出版されている。
いろんな方が執筆されている。
アル・ケッチャーノのホームページから購入可能である。
また、先月末に銀座一丁目に「おいしい山形プラザ」が開店したが、
その中にアル・ケッチャーノが出店している。
山形まで行く必要がなくなった。
さらに、ちなみに、アル・ケッチャーノはイタリア語ではない。
山形弁である。
詳しくは「おいしい山形プラザ」へお問い合わせください。
迷惑がられても私は知りません。

アル・ケッチャーノのホームページはこちら

さて、いきなり本筋から外れっぱなしで、
本筋が付け足しのようなことになってしまったが、
やはり勉強が本分の私たちは歴史的建造物等にも積極的に足を運ぶ。
なんせ皆さんいい歳なので、何でも良くご存知で、
誰かが何かを解説しているから、退屈しない。

出羽三山、月山、湯殿山、羽黒山のうち羽黒山山頂の出羽神社に参拝した。
立派な神社で祭殿のほかにも樹齢最高600年にもなる杉の大木が連なり、
荘厳な空気に満ちている。

広場には立派な土俵が作られ、子供相撲が催されていて、
心和む一時であった。

そこで、大体私は旅の勘とでも言いますか、
外れたところに入り込みたくなる。

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ぐっと裏手に入ったところで唖然とした。
数限りない卒塔婆、風車が一寸の隙もなく、
なだらかな坂を埋め尽くしている。
「これは...」と振り向くと

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こちらは卒塔婆より数は少ないが水子地蔵がずらり並んでいる。

羽黒神社は修験道の神社なので神仏混淆しており、
卒塔婆、地蔵があっても不思議ではない。
が、この数は。
何故ここが水子供養の盛んな場所になっているのかは、
説明もなかったので未だに分からないでいる。

ただ、私は卒塔婆と地蔵にはさまれて、
生まれる前に子供を失った母親たちの悲しみが、
羽黒山の一部の空間の色を変えていたのを見て、
情けないことに驚くばかりであった。

                         大倉眞一郎

BOOK BAR staff| 08:21 | カテゴリー:

2009年05月18日

黄泉の国の入り口

黄泉の国はどこにある。
「女神記」ではどこか海の中のさらに海底より地中深く、
というイメージであるが、
地底ではないという説もある。
古事記が書かれた頃の日本人の死生観を読み取るには
面白い材料である。

とは言いつつ、私は文学部出身である上に中国語も多少理解するが、
漢文はからきしダメである。
数学の問題と同じくらい、見ただけで気分が悪くなる。
だもんで、この問題については解説書しか読んだことがない。
詳しくご存知の方がいたら是非ご教授いただきたい。

ただ、なーんとなくのイメージは持っている、
というよりは勝手に作り上げている。

ネパールのナガルコットという2100メートルの山の上に
日の出とそこに浮かび上がるヒマラヤ山脈を拝みに行ったときに
黄泉の国への入り口とおぼしき場所を発見した。

前の晩に
「朝は日の出前にちゃんと起こすからね」
と言われていたので、さすが日の出が売り物の安宿だと感心していた。
朝5時前にいきなりドアがバンバンバンと激しく叩かれた。
「火事か!」
飛び起きたら、それがモーニングコールであった。
屋上に上がるとまだ真っ暗であるが、
霧で周囲一面覆われており、
日の出もヒマラヤも見えるわけないのがまるわかりである。
しかし、一度起きて、寒い中わざわざ屋上で手をこすり合わせているのである。
部屋に戻った隙に霧が晴れたら一生後悔する。
すると、時間が経つにつれ霧は晴れる気配がないのだが、
ヒマラヤ方面の空がうっすらピンク色に色付き始め、
だんだん手前の山が認識できるようになると、
なんともいえぬ風情のある絵が出現した。
どうせ写らないと思いながら開放、1/8秒くらいでシャッターを切ったら、
目が眩むくらい幻想的な写真になっていた。
一度年賀状で使ってしまったし、拙著「漂漂」でも発表したので、
ここでは紹介しない。
見たい方は本を買ってくださいな、といってももう売っていません。
恐ろしく売れなかったので処分されたものと思われます。
切ないですね。
気が向いたらこのブログでもう一度公開します。

0518okura.jpg

そういえば表に花畑があったことを思い出し、
どんな具合か眺めておこうと一人抜け出し、
霧の中を進むと「こは如何に」。
そこには濃い霧の中に小さくも色とりどりの花が
タナトスの香りを漂わせながら、
「こっちへ来い」
と誘っている。
何故こんなところに黄泉の国の入り口が?
帰れなくなってもいいからと半ば本気で花の中を
地中への穴を探してまわった。

そのうちに霧が消えてなくなり、直射日光が当たり始めると
黄泉の国の入り口は閉ざされ、
しょぼくれた花が所在なげにたたずんでいた。

                         大倉眞一郎

BOOK BAR staff| 06:09 | カテゴリー:

2009年05月07日

ネパールでイスラム教徒の祭りへたどり着く その2

私を案内して自分の家まで連れて来てくれたのは、
アルンという背は低いががっちりした体格の30代のいい男である。

名前もわからない駅で降りるとアルンは歩いてもほんのすぐのところだと
私をグイグイ先導してくれる。
歩いてもといってもリキシャも何もないので駅で降りれば、
貧富の差別なく歩くしかない。
道は当然舗装などされておらず、一歩進むたびに微小の土煙が立つ。
こういう土は雨が降ると始末に悪い。
雨でなくてもカメラには嬉しくない。
どんなに注意していてもどこからか粒子が入り込んでくる。
それは仕方がないが、歩けども歩けども、「すぐそこ」の距離は変わらない。
どこまで行くんだろうと思っている時は、時間も距離も長く感じる。
面白いね。

30分ほど歩いてようやく彼の家に着いた。
周囲の家に比べると際立って造りが良い。
屋上には馬鹿でかいパラボロアンテナが設置されている。
ちょっと見てくれよと引き入れられた部屋には、
10台以上のなんだかさっぱりわからない機械が並べてある。
2ヶ月前まではこの村には電気が引かれていなかったが、
ようやくこれでテレビが見られるようになったそうで、
彼がアンテナで受信してケーブルで村中に配信しているのだそうだ。
個人ケーブル会社である。
免許とか持っているのかどうか知らないが、
村人が喜んでいるのなら良いことなのだろう。
受信料を取っているのかどうかは不明。
で、テレビはというと停電中で映らない。
しょうがないね、なのである。

カトマンズでさえ冬は8時間近く、夏は半日近く停電するのである。
この国の人は親切でやさしいのだが、
同時にバイタリティに欠けるところがある。
お金もないし、産業を興すにもそのきっかけとなるもの(たとえば鉱物資源とか)
がないので、観光以外これといった産業が発達しない。
その観光も国王家一家惨殺事件やマオイストとの戦いで、
観光客が一時は激減したため青息吐息状態である。
まあ、これからだということで、アラブ諸国へみんな出稼ぎに行ったが、
その砂上の楼閣は崩れ落ちる寸前である。
ヒマラヤはいつ見ても、背筋が寒くなるくらい美しいが、
産業を興すのに地の利に恵まれているとはなかなか言えない。
どうしたもんだろう。

横道にそれた。
「祭りに行くか?」
そのために来たんだろうが。
「この祭りは『ムハッラム』というイスラム教徒の祭りだ」
「え、ヒンズー教じゃないの?でどんな内容なの?スンニ派?シーア派?」
「そんなこと知るわけないじゃん。俺、ヒンズー教徒だもん。
とにかくこの周辺の村からもイスラム教徒がみんなやって来て大騒ぎになるんだよ」

0507okura-1.jpg

確かに家の数も見たところ限られている村にすごい数の人間が集結している。
さらに続々集まりつつある。
祭りはモスクを中心に行われているわけではない。
モスクなんか影も形もない。
ただの広場に10数メートルの高さの
金色のビラビラで飾られた塔が建てられている。
どうもそれが祭りの中心らしい。
この塔の意味がさっぱりわからない。
どことなく南インドのヒンズー教寺院に形が似ている気がしたが、多分偶然であろう。
その塔の下では男たちが太鼓を叩いて踊っている。
「これ、もしかしてアーシューラーじゃないの?」
しかし、私の知っているアーシューラーはシーア派の人々が
殺された第三代イマームであったフサインの死を追悼する殉教祭で、
身体に鞭を打ったり、傷つけ血を流しながら泣き叫ぶという
壮絶なものであったはずだが、どうも様子が違う。
「アーシューラー?これはムハッラム!」
どうもそうみたいね。
みんな泣いてないしね。
ヒンズー教徒も見物に来ているようだが、あまり関心はなさそうで
早々に引き上げていく。
私を連れてきたアルンも
「まっ、こんなとこかな」
で家に戻ろうとするので、
「いやいや、もう少し。
それから彼らはスンニ派かシーア派か聞いてくんないかな」
「スンニ派だってさ」
これ以上尋ねても真面目に調べてくれそうになかったので、
あきらめて、祭りには関心なさそうに服の仕立てで忙しそうにしている
アルンの友人ととりとめも無い話をしていたら群集が動いた。
濃い霧にも見える土煙の中に見え隠れするのは
棍棒を手にした若い女性たちである。
大声を上げながら走ってくる。
怯んだが、カメラを構えて前に出るとアルンに腕を引かれた。
「興奮しているから、下がっていたほうがいい」
確かに私を見つけると笑顔も見せながらではあるが、
立ち止まり、棒を振り上げている。
恐くはなかったが、何がなんだかわからないので誰か教えて欲しい。
でも、聞ける相手がいない。
そんな集団がいくつか通り過ぎる。
中には目がうつろになって、明らかに半トランス状態の少女もいる。

0507okura-2.jpg

接近しての撮影はやめて、望遠で激しく動き回る彼女たちを追った。

まさか、ネパールにこんなに多くのムスリムが集まって
住んでいるところがあるとは思わなかった。
どこで誰が何を信じていようと全く問題はないのだが、
意外であったというのが私の正直な感想である。

それにしてもおかしい。
あの祭りはいったい何だったのか。
帰国して調べてみたら、やはりアーシューラーじゃないの。
ただ、ヒジュラ暦のムハッラム月に行われているので
ムハッラムとも呼ぶらしいので間違いではない。
スンニ派だと誰が教えてくれたのかは忘れたが、
これは恐らく間違い。
スンニ派にもアーシューラーは特別な日であるが、
シーア派のアーシューラーはもっともっと特別である。
全く意味が違う。
あの、思いもよらなかったいきなりの騒ぎは
どう考えてもシーア派のもの思えるが、
もしかしたら、もろもろの宗教、宗派が混じって
ああいう形のものになったのかもしれない。

喧騒から離れたところで是非イスラム教徒の方に話を聞いてみたかったが、
残念ながら諸事情によりそれはかなわなかった。

前述したが、ジャナクプールは非常に興味深い場所である。
再訪することを考えている。

ちなみに私が離れてから1週間後に暴動が起きて、警官が一人死亡している。
ジャナキ寺院で私に話しかけてきた人なつこい若い彼でないように祈った。

                         大倉眞一郎

BOOK BAR staff| 02:36 | カテゴリー:

2009年05月06日

ネパールでイスラム教徒の祭りへたどり着く その1

ネパールのカトマンズ盆地ではイスラム教モスクを見たことがない。
全くイスラム教徒がいないわけはないと思ってはいたが、
宗教はヒンズー教、それからネワール仏教、チベット仏教、
そして、それらが混交したもの以外認識できなかった。

今回は妙なことで「イスラム世界おもしろ見聞録」を書いた
宮田さんでも行ったことのないであろうネパール南部の
ジャナクプルという小さな町からさらに奥に入った
名も無き村というか、名前を聞くのを忘れていた村で
イスラム教徒の祭りへいざなわれた話である。
ただ、話の前後がないと何故そんなところにいったのかわからないので、
一見関係ない普通の旅話から入らざるを得ない。
一回目の今日はその村へたどり着くまでにさせてください。

2008年1月は1ヵ月間ネパールにいた。
ほとんどネパール盆地の中で馴染みのある場所を
ぶらいていただけであったが、
一度インドの影響の強い東ネパールのタライ平原へ行ってみたかった。
どこかいいとこないかと探していたら、
ネパールで唯一鉄道が走っている場所があった。
ジャナクプルである。ジャナクプル鉄道が走っている。
現在はジャナクプルダム駅からインド、ビハール州のジャイナガル駅間、
29キロだけしか通じていないが、乗ってみたいじゃない?
また、そんなにインドに近い場所がどのくらい
カトマンズあたりの文化と異なっているのかも見てみたかった。
さらにここはラーマーヤナの主要舞台となった場所のひとつで、
シータ王女を祀るジャニキ寺院もあり、
ヒンズー教の聖地となっているため、インドからの巡礼者も多い。
その上にだ、リキシャで20分くらい走るだけで、民家の壁をキャンバスにした
独特のミティラー・アートで著名なクワ村、ランプー村を訪ねることができる。
すごく面白いのだが、この話は別の機会に譲る。
小さな町なのに盛りだくさんである。
一度ジャナクプル特集をやります。

0506okura-yagi.jpg

時代の寵児となっているインドでさえ鉄道は相変わらずいい加減なので、
鉄道が一本きりのネパールでちゃんと動いているとは思えん。
偏見の塊ですな。
とりあえず運行状況を確かめようと駅に向かった。
時間はわかったが、あまりにもだらけたムードの駅で
だらだらと人が集まり、座り込んでやる気なし。
何をもってやる気があるなしを判断するか
書いている本人もわかっていないが、
普通、駅って「行くぞ」、「帰るぞ」の勢いがあると思う。
ないんですよ。
牛は散歩しているし、婆さんたちは線路に座り込んでいるし。

しかし、そのうち列車がやって来て、ざわめき始める。
自転車を窓にくくりつけている。
ひとつふたつではなく、たくさん。
ジャナクプルまで来て、買った自転車なのか、
それともそれぞれの駅からの足代わりにしているものなのかは不明。
列車へ我先に乗り込んで、席を確保するという雰囲気でもなく、
最初から屋根に座り込んでいる連中がやたら多い。
金は払わんという意思表示なんだろうな。
屋根はただと決まっているのか?

10数年前、同じネパールでチトワン国立公園から帰るのに
バラトプルから飛行機を使ったが、その飛行場、一面に草が生えている。
不思議なのは着陸に支障のない程度まで、いい感じで短くなっていた。
牛が草を食んでいるからである。
飛行機は一日2便か3便なので、離着陸以外の時間は放牧場なのである。
離着陸の際はサイレンが鳴って外に追い出される。
考えてそうなったのかどうか知らないが、共生である。
そんなところもあるのだから、田舎の鉄道の駅がどんなでもおかしくはない。

あんまり面白いんで、皆さんと一緒に座り込んでいたら
男が怪しげな英語で話しかけてくる。
これがインドの観光地なら要注意であるが、
インドはすぐそこと言っても、ネパール人である。
そのあたり、この地では揉め事の種になっているのだが、
これも別の機会に譲ろう。
ヒントはこのジャナクプルではネパール語は話されておらず、
インドのビハール州でも使用されているマイティリー語を使用している。

「俺の村で今日は大きな祭りがあるから一緒に見に行こう」
「行こう。行こう」
で、連れて行ってもらうことになった。
でもチケットも買ってないし、もう列車の中はぎっしり人で埋まってるぜ。
「問題ないから」
偉そうな顔をして、私を引っ張っていく。
列車の中でも我が物顔である。
人を押しのけ、私と自分の席を空けさせる。

0506okura-children.jpg

「俺はジャナクプルのラジオ局で歌を歌っているんで、有名人なんだ」
ラジオで歌って有名人?
意味が良くわからないが、コマーシャルソングも歌うし、
宗教歌も歌うという。
なんとなく同じ仕事っぽいね、てな感じで仲良くなった。
車掌がやって来て一言二言、話をするとあっさり金も取らずに行ってしまった。
無賃乗車である。
周りの人たちも有名人に笑顔で接している。
儲けた。
他の乗客もむやみに私にやさしい。
「今日は俺んちに泊まるといいよ」
と決まっていることのように握手してきたり、
食い物も分けてくれる。
列車はトロントロンやる気がなさそうに走る。
確か三つ目の駅で降りた。

その2へ続く。

                         大倉眞一郎

BOOK BAR staff| 03:57 | カテゴリー:

2009年03月19日

ヘブリディーズ諸島、ルイス島 その3

いよいよ地獄編である。

取り立ててこの絵を撮ろうというカンプなんてものはなかったので
ロケハンで絵になりそうなところを見つくろっておいて
撮影の段でごつい男たちをあっちに置いたり、歩かせたり、
集団で火を囲ませたり、と何の撮影だったかわからなくなるような
香盤表なき香盤(撮影の段取り、役者の入り等)であった。

荒野があって、男たちさえいればいいじゃないか。
実に緩い。
しかし、この荒野は確かに行ったものでしかわからないので、
そういう撮り方しかできなかった。
雪も霙も横殴りの強風も計算はしていなかったけど、
ウェルカムである。
雪よ降れ、嵐となれ。
スコットランドの男たちは怯まない。
絵の方はそれでかまわないのだが、
こちらの身体がついていかない。
目だけを出す帽子を持っているのだが、
それでは指示を出す声が届かない、聞こえないので
ほとんどかぶっていられない。

馬鹿でかい素晴らしい岩を見つけて、
その前に男たちを集合させ気勢を上げさせ、
撮影を始めた。
しかし、車から出された男たちはやはり寒がる。
寒がられると絵になんないじゃないか。
「大倉!酒飲ませろ」
なるほど。一理あるな。
一本持って行き、
「これで身体を温めて、元気出してくれや」
と渡すと俄然みんな元気になる。
「よーし、大倉、はけろ」
カメラまで戻ると男たちはあっという間にボトルを回して
空にしてしまっており、
「もうねえぞ、もう一本寄越せ」
「しょうがねえな。大倉、持って行け」
また走る。

そんなことを繰り返し、撮影を続けた。
とにかく寒い。
カメラマンは勢いのあるうちに撮りたいので
早押しである。
それにアシスタントが追いつかない。
「何やってんだよ。すぐに用意しとけよ」
「はい、すみません」
という状態なのだが、アシスタントは小声で私に愚痴をこぼす。
「精一杯やってんだけど、手がしびれて動かないんだよね」
わかる。
わかるが私は手袋をした手をポケットの奥深くから
引っ張り出し手袋も脱ぎ捨てて手伝う気にはならない。
こっちも一杯一杯なのである。
「大倉!酒が切れたぞ」
「大倉!笑わせろ」
「大倉!焚き火を作れ」
「大倉!脚立ないのか」
メチャ言うなよ。と泣いていたら
「大倉!飲みすぎて倒れた奴がいるぞ」
えー!それは困るね。
駆け寄って
“Are you alright?”
そのくらいしか言うこともないので、
立ち上がれるよう手を貸しながらもそれを連発していたら
「こいつ同じことしか言わねえぞ」
と大笑いしやがる。
それにしても手を貸してやるといっても
向こうのほうが倍くらい重いのである。
役に立っていないことはカメラマンからは一目瞭然である。
「大倉!ちゃんとさせろよ!」
先生方、お前らもやってみろよ。

場所を変えて男たちを強風の中、なんでもないという顔をさせて
荒野の中を歩かせる。
「大倉!止まらせろ」
“Hold!”
「大倉!ゆっくり歩かせろ」
“Slowly move forward!”
「大倉!ばらけさせろ」
“Spread out!”
いかなる場合も私だけフルヴォリュームで叫び続ける。
声が枯れた。
ごつい男たちも「やんなっちゃたなもう」オーラを出し始めたので
ロケ場所を変えることにした。

0319okura.jpg

車の中で最年長のいい感じのおじいさんが怒り始めた。
「俺は第2次世界大戦中、日本軍の捕虜になってとんでもない思いをした」
と杖でコーディネーターの使えない坊やを殴る。
ベロンベロンであるが、本人がそういうのだからそうなのだろう。
なんやかんや言ってなだめるのだが、聞く耳持たんし、
本日自分が何をしているのかもよくわかっていない様子なので
爺さんはあきらめた。

その心配事からか、腹が冷えたのか急におなかに差込が、
早い話、激しい便意が私を襲う。
周りはというと360度果てしない荒野。
小高い丘もない。
我慢かな?我慢できる状態はとうに超えたな。
車の中で粗相をすると先生たちにどんなお仕置きを受けるかわからない。
「すみません。車止めてください」
車は止まったが先生が
「何だよこんなとこで」
「うんこです」
一言叫んで荒野を走った。
メチャクチャ走ったが、遠くから
「大倉!どこまで行っても同じだぞ。丸見え」
米粒くらいになれば何をやってるかわからないだろうと思っていたが、
足場は最悪。我慢も限界。
どちら向きになるかで迷った。
顔を連中に向けるのか、ケツを向けるのか。
ケツを向けてやった。ざまをみろ。
一息ついて戻るとみんなが和んでいる。
「大倉!普通、顔向けないか」
「俺の300ミリでケツ撮っといてやったから焼いてやるよ」
俺のうんこでこんなに喜んだか。プロデューサー冥利に尽きるな。

この後も大変だったのだが、もう面倒臭くなってしまった。
後は想像してください。

今でもこのときの大御所アートディレクターとお会いすることがあるが、
その度に
「大倉、お前、ルイス島の荒野でクソしたよな、な」
と挨拶代わりに声をかけてくれる。
30年もたってんだ。いい加減に忘れろよ。

                              大倉眞一郎

BOOK BAR staff| 10:10 | カテゴリー:

2009年03月18日

ヘブリディース諸島、ルイス島 その2

地獄のロケのことを書く前にそもそもモルトウィスキーの本を
紹介したところからこの島の話を書くことにしたのだから、
ウイスキーの小話をまずひとつ。

ロイヤル・ハウス・ホールドという偉そうな名前の
ウイスキーがある。英国王室御用達であったので
このような名前がついているから、
偉そうにしているのも仕方ないかもしれない。
このウイスキーはバブルで浮かれまくって、
日本全国お伊勢参り状態の頃どえらく流行っていた。
ごく普通のバーでもボトルを置くと
一本5万円くらいは取られていたはずである。
どんな人間が飲むんだろうと不思議で仕方なかった。
テイストはブレンデッド・ウィスキーなのでバランスが取れた
大変口当たりも香りも良い日本人に好まれる酒である。
今はどうなっているのかな、とネットで調べてみたら
いまだに根強い人気を誇っているようで
いくつものブログでとりあげられていた。
お値段は「THE」が付いているとかいないとかで
いろいろあるが2万円の下から上までの間。
うまい酒ではあるがそこまでして飲むか、
と個人的には思っている。

このウイスキー、ネタが多い。
生産本数が少ないということが大きな理由と推測されるが、
めったなことでは手に入らない。
何しろロンドンのどんなウイスキーでも揃えているという
ソーホーの酒屋でも扱っていない。
興味のある人は詳しいことがネットで簡単に調べられるので
そちらでお願いしたいが、
「バッキンガム宮殿」、ヘブリディース諸島のハリス島にある
「ローデル・ホテルのバー」、そして日本でしか飲めないとされていた。
日本の皇室との関係で...とか説明されている。
間違いじゃないだろうが、そんな高い酒をありがたがって飲むのは
日本人くらいしかいなかったからだろうと私は思っている。

イギリスで手に入れるのはほとんど不可能であったのは事実であるが、
ハリス島のバーでしか飲めないというのは嘘である。
30年位前のこの地獄のロケでルイス島を這い回っていた頃、
腹が減って小さなパブ兼酒屋でパンをかじっていたら
アートディレクターがこの酒が置いてあるのを見つけた。
「お、綺麗なボトルだな」
と手を伸ばしたら、「ちょっと飲んでみるか」と
店の親父がみんなに振舞ってくれた。
「うまい」
当たり前だ。
そこで親父がこのウイスキーのいわれを教えてくれた。
それが何故こんなとこにあるのかを尋ねると、
王室の人間が航海に出るときにこの島によって大量に仕入れていくから、
この店にはダンボール単位でいつも置いてあると言う。
「へーへーへー」
「で、これ売ってくれるの?」
「売るからおいてあるんだよ」
ということになり、アートディレクターはダンボール一箱、
私は2本、他のスタッフも何本か買っていた。
値段は忘れたが、日本で買うよりはるかに安かった記憶がある。

それくらいかな。
このロケで楽しかったことって。

もうひとつあったか。
この島の荒野はほとんどの地面がぶよぶよした
やや固まりかけた泥のようなものでできている。
これがピートである。
泥炭と呼ばれる石炭になるずーっと前のものくらいに
思っていただければいいのではなかろうか。
モルトウイスキー作りには欠かせない。
工程の中に濡らした麦芽を乾かすという、
香り付けで一番重要な作業があるのだが、
そこでこのピートを燃やして麦芽を乾かす。
燃える泥なのである。
ちょっとインドの牛糞で作った燃料に
似た感じを受ける方もいるかもしれないが、
全然違う。

0318okura.jpg

写真ではわかりにくいかもしれないが、
地面をただL字型の変形スコップのようなもので
上から押して掘り出していくのである。
写真の地面に段ができているところはその跡である。
あんまり羊羹を切るように軽々と作業をこなしているので、
どうしてもやってみたくなり、シャベルを借りたのだが、
日本で育ったヒョロヒョロのもやし男では
体重が乗らず、サクッ、サクッとリズミカルに
掘るのはとても無理で何本かいびつな塊を作っただけで
断念してしまった。
しかし、このルイス島にはウイスキーの蒸留所なんかないのに
どうしてこんな重労働をといぶかると、燃料にするのだと言う。
そりゃそうだ。

ピートが燃えるところをみたいかと聞かれ、
「ハイッ!ハイッ!」と手を上げたら自宅に連れて行ってくれた。
いきなり汚い格好の日本人がドシャドシャ乱入してきたんだから
家族は驚いただろうなあ。
テレビじゃないんだから事前の打ち合わせゼロだもん。
ピートはまずカチカチに乾かされる。
で、それにいきなり火をつけるんじゃなくて
木や石炭で火を作り、その上に乗せて燃やす。
家に入ったときにハムのいい匂いがするなあ。
ハム食いてえ、食いてえと願っていた。
「ハムを焼いてるの」
「ハム?」
いきなり乱入したあげく「ハム食いてえ」である。
俺ってどういう人間だ。
ハムの匂いがピートの香りであった。
ありゃ意外な展開だったな。

地獄の話を書くつもりが、ためになる話になってしまった。
地獄はその3で。

                              大倉眞一郎

BOOK BAR staff| 09:57 | カテゴリー:

2009年03月17日

ヘブリディーズ諸島、ルイス島 その1

またあの地獄のロケを思い出すことになる。
書けないことがいくつもあるくらい辛かった。

しかし、モルトウィスキーの本を紹介したからには
書かない訳にはいかんだろう。

スコットランドの中でも僻地と言われても仕方ない
ヘブリディース諸島の一番北の大きな島、ルイス島でのことである。

この撮影はグラフィックのみでCMはなかった。
その上極端に経費がない。
そういう場合どうなるかというと当時はメチャクチャである。
入社3年目くらいの私が誰とは書けないが
いずれも大御所のアートディレクター、コピーライター、カメラマン
それにカメラマンのアシスタントだけを連れてロケに行くことになった。
「いいか、金をかけるな。ないんだから」
金がないんだったらやめりゃいいじゃん、
という私の実に真っ当な意見には耳を貸さず、
「得意がそう言ってんだから、行きゃいいんだよ」
ケツをガンガン蹴られて
私は代理店の営業兼プロデューサー兼プロダクションマネージャー
となり10日ばかり出かけることになった。
初めての海外ロケ。
ありえない。
おかしいでしょ、代理店にお勤めの皆さん、わかりますよね。
つまりこれロケに関すること全部私一人でやるということである。
仕方ないのでいつも仕事でお世話になっていた
CM制作会社の方に海外ロケのいろはを教えてもらい、
たった一人で小さいけれど面倒な人しかいない
ロケ隊の代表者となったのである。
ロンドンからコーディネーターには手伝ってもらったが、
大きく状況が変わることはなかった。

この後も海外ロケは何度か行ったが、
CM中心のロケは代理店の営業の立場で行くのでいい気なもんである。
こちらは地獄を見たことがあったのでチョロイ仕事だと思っていたぜ。

そんなわけで本当は細々したり、非常に面倒だったりする仕事は
一通りできるのだが、自分の会社をやっていたときは
そういうことは何もわからないアホな社長で通していた。
いまや「面倒なことには手を出さない」、が私のモットーである。

そもそも何故そんな誰も知らないルイス島に行くことになったかと言えば、
アートディレクター、コピーライター、カメラマンが
荒野を撮りたいと言い出したからである。
「半端じゃない荒野でなきゃダメ。いいとこがあるんだよ、大倉」
お金の心配をしなくてすむ人はいいなあ。

ともあれロンドンからグラスゴーまで飛んで、
小さなチャーター機に機材を積んでルイス島の
まあ中心地みたいな場所ストーノウェイに降り立った。
飛行機の上から眺めていてわかってはいたのだが、
本当の荒野。
本当の荒野には何もない。
一部のみ家のある場所がある。
人が住んでいるところ以外は荒野なのである。
荒野に出れば荒野しかない。
果てしなく荒野である。
そこには風が吹いていいるだけ、どころではなく、
雪、霙が立っていられないほどの横殴りの強風に煽られ
寒いを通り越してしびれっぱなし。

0317okura-1.jpg

道路はある。
頼りないがルイス島を一周する道路がある。
が、荒野に分け入るには歩くしかない。
一片のぬくもりは羊である。
何を考えているのかさっぱりわからない羊。
村上春樹が好きだと思われる羊。
どこにでもいる。

0317okura-2.jpg

ここでロケを決行するのである。
まずモデルから集めなければならない。
お金がないので現地の酒場で探すことにしていた。
「大倉、あいつなんかごつくていいんじゃないか」
ってスコットランド人はそもそもごついのである。
その中でもごついということはとてつもなくごついのである。
本当に泣きたくなった。
私の体重はその頃まだ65キロくらいであった。
モデルについては私の泣きながらのスカウトと現地の劇団の人間でそろった。
何でこんなところに劇団が、と今でも思う。
誰にどこで見せるんだろう。

ロケハンに二日かかった。
ルイス島のほとんどを回ったような気がする。
それだけで疲れ果てていた。
会社からルイス島に一軒しかない宿に電話が入った。
「大倉、撮影終わったか?こっちも大変なんですぐ帰ってきてくれ」
「まだ一本も撮ってません」
ふざけた上司がいると苦労しますね、皆さん。

本当に大変だったのはこれから。
その2に続く。

                               大倉眞一郎

BOOK BAR staff| 09:01 | カテゴリー:

2009年03月11日

ウドゥムサイ、路上の死闘

前回紹介した「東天の獅子」の戦いの表現は、
夢枕獏が渾身の力を絞りきって書いたもので、
息苦しくなるほどのものである。
あれは文章で追って自分の中にイメージを作っているので
余計に迫力を感じるのかもしれない。

私は生のガチンコの戦いは初期のUWFでしか見たことがなかった。
しかし、あれはあくまでもマットの上の試合だからな。
試合が終われば
「ウォー!両方ともよく頑張った」
みたいな事になるので、どこかに安心感はある。
しかし、本当の喧嘩は恐いよー。

何度かこのブログにも登場するウドゥムサイであるが、
本当に小さな町でマーケットも拍子抜けするほど
人がいないし、平和を絵に描いたような場所である。
町の中心には小高いプータートの丘があり、
そこにボロボロの小さな僧院とストゥーパが建てられている。
ここは夕景を見るには絶好のポイントで
毎夕10人くらいの町民がブーラブーラと集まってくる。
少年僧もすることがないので、所在なげにぼんやり夕日を見ている。
みんなほどよい距離をとりながら、自分の時間が持てる。

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夕陽に当たるとすべてのものは柔らかく、切なくなるが、
同時に生命の息吹があぶりだされる。

0310okura.jpg

あー、このウドゥムサイは何もないけど幸せで、
平和に暮らせる町だ、はずみとはいえ
ここで何泊かすることにした私には霊感は備わっていないが
すごい勘は身についているなあ、
と自分自慢を自分にしながら宿に向かっていたら
何やらただならぬ雰囲気が。
しかも私の宿のまん前で。

一人の長髪の若い男を二人のごつい兄ちゃん達がボコボコにしている。
誰も止めに入らない。
私も状況がつかめていないせいもあるが、
とても止めに入る勇気はない。
呆然と皆と一緒に眺めていると入る、入る。
顎に鋭いストレートが、顔の真ん中に膝が、側頭部には回し蹴りが、
倒れると腹に蹴りが踊り、再び髪をつかんで立たせると
若い男は隙を突いて逃げ出そうとするが、
そうは問屋がおろさない。
再びサンドバック状態。

殴られている男は何故かどこかふてぶてしい面構えである。
殴っている男たちは「この野郎いい加減にせいよ」の顔つきである。
そういえば周りの見物人も
「しょうもないやっちゃ」
と呆れ顔である。
何か倒れているバイクを指差して男たちが叫んでいる。
そのうち若い男は男二人に腕をとられていずこへか連れて行かれた。
様子から察するに警察に向かったのであろう。
そういえばこの町では警官を見たことがなかった。
全員私服とは思えない。
どこかに隠れているのだろうか、
人が足らないのか、
電話がないから知らなかったのか、
きっとそのうちのどれかだろうな。

私が後に勝手に総括したところによれば、
白昼堂々とバイクを持って逃げようとしたところを
店のあんちゃんたちがそれを見つけて
てめえこのやろう状態になったものと思われる。
たいした推理でもないか。

いやー、すごい迫力だったわ。
いつも優しい顔をしているラオス人も怒らせると恐いね。
それにしても驚いた。
あのストレート、蹴りは
訓練をつんでいないと簡単に出るものではない。
大体喧嘩の経験のない人間は猫パンチをへっぴり腰で
繰り出すのが精一杯である。
映画「ブリジッド・ジョーンズの日記」を見た方、
あのヒュー・グラントとコリン・ファースの
喧嘩のシーンを覚えているだろうか。
あんな感じである。

東南アジアではムエタイ、
いわゆるタイ式キックボクシングが有名だが、
カンボジアでは川沿いに毎日リングが張られて
カンボジアボクシングの興業を行っていた。
ラオスに同様のものがあっても不思議ではない。
あのボコボコにした側の男たちは何らかの練習、
あるいは訓練を受けている。
前回のカンボジア、ラオス、ベトナムの旅で
喧嘩を見たのはそれ一度きりである。
普段はみんな心優しい男たちばかりである。
口喧嘩も記憶がない。

ウドゥムサイの死闘を見て、
俺もやってみるかとはやはり全然思わなかった。

                              大倉眞一郎

BOOK BAR staff| 03:50 | カテゴリー:

2009年03月09日

アプサラ

舞踏と武道には共通するものがあるような気がしてならない。
発音も酷似している。
「と」が濁音かどうかだけである。
実は両者は平安の時代にまでさかのぼると...
という風に展開すれば半村良みたいになるのだが、
どう考えても無理な話なのでやめておきます。

ただ、身体の細部に神が降りるような繊細かつ大胆な動きは
やはり似ている。

私が高校生の頃「燃えよドラゴン」が公開された。
この映画は今見ればハチャハチャ叫んでいる
妙なものに思える人もいるかもしれないが、
初めて見た時には自分の殻が二枚くらい割れたかと
思うくらいの衝撃であった。
自分の前に黄金の道が開けたと思った。
身体の奥がうずいて「バーン」とか大声を上げそうになったので、
香港に行って拳法を学ぼうと思った。
極真は痛かったり、きつかったりしそうだったので断念した。
香港に行けばみんな太極拳、酔拳、蟷螂拳、
その他よくわからいない拳法を使う人間が、
年がら年中路上対決をしていると思ったのである。
「片腕ドラゴン」なんてのもあったな、
どういうわけか悪いラマ僧が空から飛んできて
善玉と戦うなんてとんでもない設定のものもあった。
とんでもない話ですぜ。

香港行きは誰も止めなかったが、
なんとなく話が消えてしまい、
仕方なく学校で鮎川という私と同じ落ちこぼれと
休み時間には必ず廊下でお互いの突きをかわし合う特訓を行っていた。
かっこいいと思っていたんだろうな。
女子学生が10%の学校だったので
どうやってアピールすればいいのかわからなかったのである。
後に私の所属する弁論部に入ってきた下級生のかわい娘ちゃんに
どう思ってたかたずねて見たら、
「どうって...、アホだと思いました」
と正直に語ってくれた。
言っておいて欲しかったな。

心を入れ替えて太極拳に取り組むことにした。
当時太極拳で不良学生をやっつける漫画が大変な人気だったのである。
その主人公は一般の中国人のおじさん、おばさんが毎朝公園でやっている
楊家太極拳でなく、より実践的な陳家太極拳の使い手であった。
当然私は陳家にあこがれたのだが、
楊家も陳家もそんなもの下関に教えてくれる教室なんてなくて、
私はあのアマゾンのない時代に本屋に行って
教習本を調べようやく見つかった楊家太極拳の分厚い本を取り寄せ、
購入したのである。
ただ、あれ先生がちゃんと教えてくれないと
呼吸という重要な課題については訳がわからんし、
型が載ってはいるものの、本当に自分の解釈で動いているものが
正しいかどうかはもはや神のみぞ知るの領域のことであった。
ただ、その本を見様見真似で何度も繰り返しめくっていると
ある程度は最後まで通せるようにはなった。
それがこれは舞踏に似ていると思ったきっかけである。

0309okura.jpg

カンボジアではアプサラという舞踊を見ることができる。
シュムリアップにそういうお店が多い。
観光客が多いからここに集中しているものと思われる。
現在のカンボジアは仏教国といっていいほど
仏教徒が多いがこのアプサラはヒンズー教の物語が
題材になっていることが多い。
実に動きの微妙な優雅な舞である。
それを馬鹿でかい会場に観光客を押し込み、
ビュッフェで腹一杯食わせた後に舞台が始まる。
私は一番乗りでしかも一人だったので、
逆に珍しがられ一番前の団体客からは隔離された
最高の条件の場所に案内してくれた。
それはまさに神に捧げられる天使の舞であった。
男も時々民謡のようないい加減な踊りには出てくるのであるが、
あくまでもアプサラは女性中心で展開していく舞踊である。
その美しさにすっかり心を奪われてしまった。
その微笑み、所作はバリやタイのものと似ていなくもないが、
私には最も純粋で美しいものであった。

ところが舞踊が終わるとドカドカ観光客は舞台に上がり、
誠に腹立たしいことに記念写真撮影会を始めている。
肩を抱いたりして調子こいている。
特に私が一番美しいと思った娘には
蝿のように馬鹿共がたかっており、
悲しくなった私はすぐにそこを後にした。
帰りに乗ったバイクタクシーの運転手に
「どうだった」
と聞かれ、素晴らしい、あの舞踊は私が見たものの中で
最も美しかった、と答えると、大きくうなづきながらも、
「あれはあのような場所で見世物にするものではない」
と悲しげに語っていた。

太極拳の話はどうでもよくなってしまった。

                              大倉眞一郎

BOOK BAR staff| 06:47 | カテゴリー:

2009年03月02日

ニャタポラ寺院

ネパール、カトマンズ盆地の中にある3大都市というか町バクタプルは
あまりにも居心地がいいので、つい長居をしてしまう。
私のように「あれをしなきゃ」とか、
「これも押さえとかなきゃ」とかいう向上心に欠ける人間には
最適の場所である。
私の場合、今やカトマンズでさえうるさいと感じてしまうのだから
どのくらいのんびりしたところか少しくらい想像つきますでしょうか。
カトマンズからせいぜいタクシーでも30分くらいなんだけど、
恐ろしいくらい町の規模が違う。
カトマンズは一応都市であるが、バクタプルは町に近い村のイメージ。

入り口までタクシーを着けると、町の入場料を払わねばならない。
$10。
西洋人は何で町に入るのに何故金を払うんだと揉めているが、
私は3回も来ているのであっさり支払って入る。
実際に中に入るとこの町を維持していくには
相当のお金が必要であろうことはすぐにわかる。
ほとんどかつての町並みを残している。
しかし、1934年の大地震で大変な被害を受けているので、
立て直されたものも多いが、
民家はひん曲がったまま、
いつ倒壊するかを待っているような有様である。

この町については書くことがあまりにも多いので、
今回は前回紹介した「あ・うん」関連のことにとどめておく。

阿吽は掘り下げればさまざまな意味が出てきて収拾がつかないが、
とりあえず、日本の神社、寺院に置かれている
一対の狛犬ということにして、話を進めよう。
日本には仏教とともに入ってきたということになっているが、
さまざまな起源が提示されているので、
これも面倒である。
要は大事なものの近くに守り神を置いた
というのが正しいのであろう。

日本では狛犬と呼ばれているが、
だれが見てもあれは犬じゃないだろう。
恐そうなよくわからない獣である。
事実、中国では石獅子とされているらしい。
仏教起源説で解説されることが多いが、
じゃ、下の写真はどうであろうか。

okura0302.jpg

私が泊まっていた宿から徒歩1分の場所にある
ヒンズー教のニャタポラ寺院である。
全景を見せると守護像が良く見えないので
今回は階段部分が良く見えるものをアップしているが、
階段から上は五重塔になっており、
毎朝見上げるたびにありがたくて涙こぼれそうであった。
これ、口を開けている像、開けていない像の対ではないが、
どう見ても狛犬と同じ考え方で作られたものでしょう。
この寺院は18世紀初めに作られたものなので、
ドーンとサービスのつもりでずらっと揃えたのかもしれない。
一番下が戦士で、通常の男の10倍の力を持つという。
順に象、獅子、グリフィン
(と現地で買った英語の解説書には記されているが、
もともとギリシャ神話の怪獣なのでおかしい。
強い怪獣と解釈しておけばいいだろう)、女神像と続いており、
一段上がるごとに下の像の10倍の力を持つとされている。
祀られているのはタントラの女神らしく、
中に入れるのは王だけとなっているのだが、
王なき現在はどうなっているのか調べようもない。

規模はもっと小さいが、
こんなものがカトマンズ盆地のヒンズー教、ネワール仏教の
寺にはごまんとある。

私には楽しくて仕方がない。

                              大倉眞一郎

BOOK BAR staff| 06:41 | カテゴリー:

2009年02月23日

ラオスの「カオ・ピヤック・セン」

勝谷氏の「イケ麺!」では海外ものは韓国止まりである。
私はアジア関連の麺には顔が利くし、
ヨーロッパの知らない国でも中華料理屋は
ほぼ迷うことなしに到着できるという不思議な
技能を持っているので重宝しますよ。
もし海外編をお考えなら是非。

ラオスの麺はベトナムのフォーに極めて近い。
カンボジアの麺のように甘くしてない。
食い物に関しては僅差ではあるが、
私はラオスに一票である。
ただし、屋台か大衆食堂での話なので、
お金を持っている人は参考にしないように。

ラオスの北部へ行くと急にカオ・ソーイという肉味噌のかかった
特徴のある麺が増える。
どこでも食える。
ただし、ほとんどは米から作った平打ち麺。

そんなもんだと思っていたら、ウドゥムサイという町でながーい散歩の途中
小さな食堂を見つけて
「ちゅるちゅる食わせてくださーい」
とお願いしたら、どれにするという。
どれってどれよ。
若い学生がたまたまいて、
「これはお米から作ったやつ、これはもち米から作ったやつ」
と英語で教えてくれた。
もち米の麺は切ったという麺ではなく
押し出したという感じの丸い麺。
そりゃもち米の麺だろう。
食ったことないもん。
これが、予想をはるかに裏切るくらいうまい。
だし汁は普通のものよりやや煮出した感じのとろみがある。
麺も粘りがありながら、腰もしっかりしている。
もうこれしかないね。
という訳で、それ以来丸いもち米の麺があれば必ず頼んだ。

こんな風に食べる。

麺が出てくる。

0223okura-1.jpg

無料の野菜数種を恥ずかしくなるくらいちぎって麺の上に山を作る。

0223okura-2.jpg

ぐるぐるにかき回して、麺とスープと野菜を馴染ませる。

0223okura-3.jpg

野菜が残っていればどんどん追加で乗せても誰も文句は言わない。
肉もちゃんとついているので究極のバランス栄養食である。

タイトルには「カオ・ピヤック・セン」と書いたが、
実はこのもち米麺本当にそう呼んでいいのかどうかわからない。
そう頼んでも米の平打ち麺が出てくることもある。
食べたい時は指先確認が重要である。

                              大倉眞一郎

BOOK BAR staff| 06:14 | カテゴリー:

2009年02月17日

鳥を放つ

某カード会社のCMでこの行為が取り上げられていたので
「あのことね」と理解される方もいらっしゃると思うが、
仏教圏、特に上座部仏教の国々では
良い行いを重ねることで、生まれ変わる時にはよりよい生活が得られる、
ということから、生き物を買って、
そのまま鳥は空に返し、亀は河に戻すことが行われている。
因果応報の応用ですな。
最初はペットでも売っているのかと思った。

私もどこでだったか思い出せないが、
一度だけ無理やり押し付けられて、
小さな鳥を放してやったことがある。

okura0217.jpg

鳥や亀を売るというか、善行を行わせることで
生活している人々がいるということは、
鳥、亀をガンガン取ってきて、
籠に押し込める連中もいるということである。
そのことについては皆さん誠におおらかに受け止めているようで、
そんな商売やめろ、と詰め寄る人は見たことがない。
取ってくる人間がいなきゃ、良いこともできないのだから
ごく自然にその状況を受け止めているようである。
善行のリサイクルである。

しかし、そりゃあまりにも露骨でやりすぎじゃないか、
と偽善的であることはわかりつつも思ってしまったことがあった。

プノンペンのトンレサップ河沿いにシソワット・キーという
観光客も集まるが、朝、夕、地元の方も勢ぞろいする楽しい場所がある。

okura0217-2.jpg

どう見ても仏様には見えない不思議な顔をした神様が
祀られた極小の寺院があるのだが、それがどういうわけか
夕方には大人気で、花売り、屋台も、男も、女も、
半ケツでしゃがみこんでいる若い娘も
(とにかくウルトラローライズのジーパンの娘が多い。
神様もすぐそばにいらっしゃるのだから
ローライズでもかまわないからしゃがむな、
ケツを見せるなと私は鋭い非難の視線を浴びせるのだが
周りの方々は気にしていない)
カップルも、親子もどっさり集まってくる。
お祈りに来ている人が三分の一といったところか。

そこに多数「善行を積みなよ」の鳥屋が並んでいる。
大繁盛という様子ではないが、客がいるから店を出しているわけで
ちゃんと「それー」と大空に鳥を放つ善男善女もいる。
とりあえず「えーことしてはる」と眺めていたのだが、
鳥を放すたびに大騒ぎする連中がいることに気が付いた。
放された鳥は弱っていて、その上暗くなってきているので
実は大空には舞い上がれず、すぐそばの木にもぐりこんでしまうのである。
それをめがけて竹竿を思った若い男たちが殺到する。
竹竿の先には強力な鳥もちがべったりと塗られており、
それをコソーっと伸ばして逃げたばかりの鳥をゲットしていく。
「ウヒョー、ウヒョー」と奇声を上げ真っ暗になるまで
走り回っている。
あの鳥は...食ったって肉なんかほとんどついていないので
きっと鳥屋が回収するのであろう。
あれだけ鳥もち塗られりゃ弱るし、うまく飛べんわな。

こうして善行のリサイクルも劣化していくのであった。

                              大倉眞一郎

BOOK BAR staff| 11:31 | カテゴリー:

2009年02月02日

極彩色の寺院

0202okura.jpg

日本の寺にはなかなか長居できない。
というよりも、建物の中に勝手に入っていいものかどうかさえわからない。
「喝!」
って怒られるのは絶対に嫌だ。

ネパール、タイ、ラオス、ミャンマー、カンボジア、ベトナムの
仏教寺院には数え切れないくらい訪れたが、
お金払うところ、ここはさすがに遠慮したほうがいいだろうと
感じられるところ等あるが、
基本的にはカメラぶら下げてフラーっと入り込んで、
「出て行け」
と追い出されたところはない。
逆にミャンマーでは坊さんの暮らしている大広間に上がれ上がれと
歓迎されたこともある。

ガンボジアのコンポンチャムで見つけた小さなお寺では
近所の人かしら、と思われる方々が、暇そうにダラーンとしていた。
極彩色の寺の中で。
飽きないですな。
少なくとも通りすがりの旅行者には。

黄金に輝くパコダ、仏像は数知れない。
日本では日光東照宮が例外的に色彩鮮やかであるが、
全部がああいうのだと、日本人にはやはり抵抗があるかもしれない。
妙にストイックに鄙びた感じが好きですね。

                              大倉眞一郎

BOOK BAR staff| 04:24 | カテゴリー:

2009年01月30日

バイヨン

年末のブログで勝手にブックバー大賞を決めていきましたが、
「すごいもん見ちゃったな大賞」でバイヨンを選出していたのに
写真のスキャンを忘れていたので、
そのうちご報告いたします、と言い逃れていたら一月下旬になっていた。
申し訳ありません。

バイヨンはアンコール遺跡群の中のアンコールトムの中にある
仏教遺跡ということになっている。
建てられた時は東南アジアでは珍しく
大乗仏教のお寺であった。
仏教が大きくふたつに分裂した時に主にチベット経由で
伝わったのが大乗仏教。簡単に言ってしまうと、
広く衆生を救済する趣旨のもので、
インドから現在のスリランカから東南アジアに伝わったのが
上座部仏教(小乗仏教)で、出家してそれぞれが
悟りの道を求める、という途方もなく単純な説明で
とりあえずご納得ください。

okura0130.jpg

大乗仏教であるから馬鹿でかい観世音菩薩の顔が
117もいたるところに建てられており、
その慈悲の視線に圧倒されて、思わずひれ伏したくなる。

しかし、小乗仏教の像も残っていることから
後に混交したものと思われ、
また、ヒンズー教のリンガ等もおいてあり、
ある時期に仏教寺院からヒンズー寺院へ変わって行った
と推測される。
しかし、ヒンズー教寺院に変わったところで
作られたものを壊すこともできないので
今も仏教寺院としか見えない。

面白いのは須弥山(しゅみせん)という仏教独特とされる
世界の中心にそびえ立つ山を模して造られたことになっているが、
実は須弥山は仏教だけのものではない。
バラモン教(ヒンズー教の元となった古代宗教)、ジャイナ教、
恐らくチベットで発生したボン教も同様のものを想定している。
チベットにあるカイラス山がその須弥山と言われているが、
その山を回る巡礼は上記の宗教を信じるすべての人が含まれている。
宗教によって歩いてまわったり、五体倒地で超スローだったり、
逆回転したり、それぞれであるが、喧嘩もない平和な巡礼である。

さらに面白いのは須弥山はサンスクリット語ではスメールである。
発音が似ているから不思議ではない。
しかし、スメールは古代メソポタミアに栄えたシュメールとも
発音が極めて近い。
シュメール文化とのつながりを指摘する学者もいる。
クー!たまんなくないですか?

ということで、アンコールワットを見るなら
必ずバイヨンにも行くように。

                              大倉眞一郎

BOOK BAR staff| 04:18 | カテゴリー:

2009年01月29日

学校

学校には通った。
高校まで公立で大学は私立であったが、
いずれも一応滞りなく。
が、親しい友人ができても、
実は学校が楽しいと思ったことは一度もない。
単純に言えば勉強が嫌いだったというもあるが、
多分、毎日同じことの繰り返しに
あきやすい私は耐えられなかったのだと思う。
「延々この長いトンネルから抜け出させない」
中学のころから学校のことを考えると憂鬱の塊となっていた。
トンネルの先に光が全然見えなかったのだ。
今考えてみれば中学、高校、大学、全部合わせてもたったの10年。
私は最近1年を1ヶ月くらいに感じているので
直近の感覚で言えば10ヶ月である。
若い時は新しいことに常に触れるので、
時を長く感じるのだろう。
そんなギャップが大人にはわからなくて、
子供が何を考えているのかわからなくなるのであろう。
「違う」と思われる方もいるだろうが、
少なくとも私は親や先生たちは何もわかっていないと決め付け、
表には出さなかったが、強烈な閉塞感の中にいた。

妙なたとえでわからない人はわからないままになるが、
長く広告の世界にいた私は最初に見たCMは
15秒のものでも30秒に感じてしまう。
細部まで気になるので見るとこ満載で長く感じるのだ。
優れたものほどその傾向は強い。
2度目見る時は、すぐに15秒だとわかるので不思議である。

似たような原体験があって湊かなえさんは
「告白」を書かれたのかどうか知る由もないが、
学校がバラ色の世界だと思ってはいないだろうことは
推測される。

0129okura.jpg

アジアの貧しい国でも学校に行ける子は
制服を着て笑顔満面で通学している。
本当に楽しいのか、
嫌なのに楽しい顔をしているのかわからないが、
傍からカメラを構えていても、笑顔が見れるのは心和むものである。
ただ、学校に行ける子供だけを見ていれば楽しそうだね、
ですむのであるが、どの国にも明らかに学校に通えていない子供が、
平日の昼間から、物乞いをしたり、
ボーっとしていたり、遊んでいたりする。

私はさすがに5回も行っているので、
ネパールには知り合いが多い。
話を聞くと、日本をはじめ各国の政府、NGOの努力で
学校の建設は進んでいるのだが、
問題は学校に行くお金がなくて、ドロップアウト率が
極めて高いことである。
行かせてやれないということもあるのだが、
子供が働き手として必要だという事情もある。
学校を作る援助は立派なことで、頭が下がるが、
食えないことには、勉強どころではない。
その基本インフラというか、人間としての最低限の生活保障は
各国に任せますでは、根本的解決にはならんのう、
と唸る私である。
ネパールで親しげに近づいてくる人は
本当に親しくなりたい人がインドと比べれば相対的に多い。
話してみると驚くのが、その語学力である。
さすがに日本語ペラペラという人は少ないが、
英語なら日常会話+αのレベルまで安心して会話ができる人が多い。
もちろん必要に迫られてという環境が
大きく作用しているのだが、
学校には1年だけ行ったことがあるとか、
全く行っていない、という人が大変多い。
旅行者を捕まえて話をしていたら、このくらいは話せる、
とこともなげに言い放つ。
ちゃんとした教育を受ければこういう人たちは
どういうことになるのだろう。

学校作りだけでは駄目なら、何をすれば良いのか一年以上悩んでいる。

私は学校嫌いだったため、完全な勘違いの可能性もあるが、
現在の不登校の子供たちの気持ちがわかるような気がする。

いま、最貧国と言われる国に住む子供たちのことを知ると
考え方が変わったりするだろうか。

どうも日本の事情とうまくクロスさせて書けないのだが、
必死に旅行者をだまして教科書を買わせ、
売り払うというマニュアル化された
金儲けの手段を覚えたネパール、バクタプルの
ガキ共のことを思うと、どうにも切なくなってしまう。

写真はカンボジアで撮ったもの。

                              大倉眞一郎

BOOK BAR staff| 03:42 | カテゴリー:

2009年01月27日

デリーで地震

2007年11月26日。
忘れもしない、1ヶ月以上にわたるインドの旅、
最後の日の早朝のこと。
その日の夜の便で北京を経由し、日本に帰る予定であった。

4時くらいに小用で目がさめ、またベッドでウトウトしていたら
ゴゴゴゴゴゴゴという地鳴りが聞こえてきた。
デリーの前にいたバラーナスでは滞在中に裁判所爆破のテロがあり
何人かが亡くなっていたので、すわ、またテロか!
と跳ね起きたのだが、地響きだけで爆発音が聞こえない。
すると揺れ始めた。
日本ではあまりない感じの揺れ。
ゆーらゆら、じゃなくて、ビリビリビリという小刻みな振動。
それで地震だと気が付いた。
地震の前に本当に地響きを聞いたのは初めてのことであった。

その程度の地震では日本人はパニックになりようがないが、
急に不安になったのは、ここは日本ではなくてインド、
しかも、泊まっているのは貧乏旅行者用の積み上げたレンガの上に
セメントを塗っただけの建物である。
これ以上でかくなると崩壊の危険はないのか、
と悩んでいたら終わってしまった。
震度はせいぜい1か、それ以下で心配無用とわかってはいたが、
インドで地震に出くわすことは全く頭になかった。
しかし良く考えてみれば近隣諸国のパキスタン、アフガニスタンでは
大きな地震がかなりの頻度で起こっている。
どんなもんかいと、受付のアンチャンに聞いてみようかと部屋を出たら
同じフロアの外国人がみんな出てきて
「どうすりゃいいんだよ、死ぬのか?」状態で
震えている。
ここは地震大国から来た人間が英雄になるチャンスである。
「大丈夫、大丈夫、これくらいじゃ全然平気。
東京だと週に2、3回はもっと大きな地震が起きてるぜ。
でも一応、俺が下で様子を聞いてくるから待っててくんな」
と若干の嘘を交えながら落ち着かせ、
みんなの尊敬のまなざしを一身に受けながら
階段を駆け下りた。

「どうなのよ。デリーで地震って結構あるのかい」
「珍しいけど、そんなに珍しくない」
「余震は来ると思う?」
「これで終わりです」
やや、難解な会話になったが、大丈夫そうである。
外でまだ騒いでいる連中もいたが、
上で待っている奴らを寝かしつけてやんないとかわいそうなので
軽いステップで戻ると、本当にみんなが待っていた。

考えてみれば私が偉そうに
「皆の衆、静まれ。危機は去った。
もう安心してベッドに戻り好きなことをしたければしなされ」
と宣言することもなかったのだが、
本当にそんなことを言ったら、ほっとした表情を浮かべ
部屋に入っていった。
若い女の子たちがもう少し怯えて、
「本当に大丈夫なの?私、怖いわ。
一緒にいていただけないかしら」
と擦り寄ってくるはずだったのだが、
インドを旅している若い女性にそんなやわな人間がいるはずもなく
「寝よ、寝よ」
といなくなり、私一人取り残されたのであった。

数時間後受付に下りていくと、テレビではトップニュースで
地震のことばかり繰り返し流している。
ただ、被害が皆無であったため、
ただ、霧のかかった道路を移しているだけで見る価値なし。
とにかく驚いたんだなあ、ということだけわかった。
やっぱり珍しいんじゃん。
昼に届く朝刊でもトップニュースであったが、
「地震でデリーはびっくりして寝られず!」
なのだが、あんまり書くことがないので
「びっくりしたけど、小さくてよかったわ」
くらいのインタビューしかない。
しかし、やはり私が危惧した通り、
高層ビルが集中している地域で大きな地震が起きた場合の
懸念が示されていた。
本当は高層ビルもそうだけど、レンガを積んだだけと思われる
地区の心配もして欲しい。
ちなみにその時の地震はマグニチュード4.3であったらしい。

0127okura.jpg

オールドデリーの路地は幅3メートルくらいなのだが、
その両側は各種店舗と住居が密集しており、
また、あらゆるものが何が反対側から来ようが突っ込んで行く。
そこいら中で団子ができて、動きが取れなくなっている。
そんなときに大きな地震が来たらどんなことになるんだろうか。

インドで一番最近起こった大地震は2001年インド西部のグジャラート州で
起きたマグニチュード7.9のものである。
2万人ともいわれる人が亡くなっている。
ほとんどレンガ造りの建物の崩壊によるもので、
かえって伝統的な土で固めた家はひびが入ったくらいで
倒れていない。
まさか、今のインドで土の家を作ろうということになるはずもないが、
耐震性がどこまで考慮されて、
ビルが建設されているのか極めて疑問である。
とにかく人の多い国である。
ビルだけでなく交通インフラの耐久性も考えなければならない。
頭が痛い問題だろうが、放っておけることではない。
もちろんの日本の学校の耐震補強が驚くほど進んでいないのだから
他人事ではないのだが。

杏ちゃんが前々回紹介した地震の本の話を聞いて、
このデリーの地震を思い出した。
少々とぼけた文章になったが本気で心配している。

                              大倉眞一郎

BOOK BAR staff| 01:20 | カテゴリー:

2009年01月22日

この人の場合の閾

0122okura.jpg

インドのトリヴァンドラムという
日本人が何日も滞在することはまずない
インド亜大陸南端すぐそばの町に数日間いたことがある。
ここには、これは!というものは何もないのだが、
何にもないなりにわびさびの動物園があったり、
カーニャクマリというまさにインド最南端の
ヒンズー教聖地まで日帰り観光バスがあったりして、
それなりに忙しかったりする。

動物園からの帰り、
ぶらぶら歩いて宿のある町の中心部に向かっていたら
こじんまりしたマーケットがあった。
そういうものがあれば必ず覗く。
この小さなマーケットにも一通りのものは置いてあるのだが、
やはり、食品が中心である。
インドの八百屋さんは、皆さんなんとなく雑然としているように
想像しているような気がするのだが、
これが正反対でそこまでどうして綺麗に並べたいのか
疑問に思うほど、野菜ごとに整然と積み上げられている。
ここの八百屋さんもイキが良くて、
「よう!写真一発とってくんな。そんでここに送ってくれ」
と住所を書いてよこした。
インドでは珍しいことではない。
そういう場合は撮影させていただく。
で、必ずプリントして郵送している。
お金がかかって意外と大変なのだが、礼儀である。

で、保坂和志の「この人の閾」を紹介しながら
あー、あのおじさん(といっても私より一回り以上は若いに違いない)
の「閾」とはあの野菜に囲まれたほんの1メートル四方の場所なのか、
マーケットなのか、トリヴァンドラムという町なのか、
いろいろ考えてしまった。
別に日常の範囲が狭いとか、そういう問題ではなく
あくまで「閾」のことである。
ここからがわたしの「閾」、と言える場所。

考えたってわからないし、
わかったところでということになるのだろうが、
そんなことで一週間悩んでいたら、
急に保坂和志の伝えたかったことが
ほのかに香ってきたような気がした。

                              大倉眞一郎

BOOK BAR staff| 03:25 | カテゴリー:

2009年01月20日

チェに関わるか関わらないか瀬戸際の話 第二部

チェはボリビアで惨めとも言える
敗北を味わい、39歳の若さで殺されてしまう。
映画「チェ」もそこで終わりとなる。

アルゼンチンからキューバ革命に参加し、
工業相にまでなったにもかかわらず、
チェは革命成功後6年で姿を消してしまう。
映画ではボリビアに向かうことになっているが、
その前にコンゴに渡り、革命を目指し1年間滞在している。
こりゃ駄目だ、で帰ってきてからボリビアに向かうのである。
コンゴでのことは詳しい資料を読んだことがないが、
理想主義だけでは片がつかないことが
人間の内側に常に隠されていることに気が付いていたら、
ボリビアでのようなことにはなっていなかったのではいかと思う。
共産主義が現在に至るまで完成されたことがないのは
システムの問題というよりは人間の本質の問題に根ざしている、
と私は考えている。

チェがボリビアで処刑されたことは皮肉なことである。
ボリビアという国名はシモン・ボリバルという
ラテンアメリカをスペインから解放した英雄の名前に由来している。
チェもボリバルに対して尊敬の念を抱いていたことは想像に難くない。
19世紀初頭、中南米北部はいずこもスペインの植民地で
ボリバルはベネズエラ出身ということになっているが、
実態はグチャグチャで各地でスペインからの独立運動が起こっていた。
ただ、すんなり連戦連勝とは行かず、勝ったり負けたり分割されたり
よくわからない状態であった。
それでもボリバルの行動範囲は広く、
現在のベネズエラ、コロンビア、パナマ、エクアドル、ペルー、ボリビア
にまでまたがる。ベネズエラから東のガイアナ、スリナム、ギアナは
スペイン以外の国が統治していたため活動範囲には入っていない。

ボリバルは独立戦争を戦っただけでソビエトの
影も形もなかった時代であるから、
社会主義とは何の関係もない。
ただ、スペインの搾取からの自由を獲得するための
戦いであったことは確かであるから、
本質的にはチェの目指したものと大きくは異なっていないだろう。
実際、ベネズエラの現在の大統領チャベスは99年、
正式国名をベネズエラ・ボリバル共和国と変えている。

ボリバルは各地での内乱、
分離独立に接し失意のうちに47歳で病死している。
ボリバルの最後の様子は
ガルシア・マルケスの「迷宮の将軍」に詳しいが、
ボリバルがどういう人間であったかを知らないまま読むと
何のことだかわからない。
私がそうであった。

南米はボリバル死後、部下だった将軍たちが勝手に独立して
ただの独裁者に見事に変身し、
私財を肥やす腐敗した国への道をたどっていく。
そこに力強い手を貸したのがアメリカである。
どんなことがあっても裏庭の共産化を避けたかったアメリカは
腐敗政権を支持し続け、
さまざまな小説、映画でその正体が明らかになってきている。
チャベス大統領がどんな無茶苦茶なことを言っても
私が一理あると感じてしまうのは、そんなところに理由がある。

                              大倉眞一郎

BOOK BAR staff| 08:06 | カテゴリー:

2009年01月19日

チェに関わるか関わらないか瀬戸際の話 第一部

「ねぇ、君」と呼びかける言葉があだ名になるとは、
よほど多用していたのだろう。
「チェ・ゲバラ」のチェは本名ではない。

私の友人で冗談ではあるが、誰を呼ぶにも「山ちゃん」
と言っていた奴がいるが、チェ・ゲバラのケースに当てはめると
「山ちゃん・大倉」ということになるのであろうか。

どんどん外れていくが、私が就職してまだ数年の頃、
電話を取るといきなり野太いゴーマンな声で
「シゲ」
とだけ言われた。
このオッサン危ない人やなあ、と思いながらも
「はあ、すみません。もう一度お願いします」
と丁寧にお願いしたら、
「シゲを出せっちゅーとるんじゃ」
と怒鳴る。
世の中おかしなことになってきている、
としか思えなくて当然であろう。
しかし、イヤーな予感がしたので、一応まわりに
「シゲを出せ、と言っているんですが」
と聞いてみると他部の部長がすっ飛んできて
電話に向かってペコペコ頭を下げ始めた。
電話をかけてきたのは私の所属していた局の局長で
シゲはその部長のあだ名であった。
ただ、シゲは局長が部長にだけ使っていたあだ名で、
他の誰も使っていなかった。
当たり前だわな。
私が「シゲ、電話だよ」と呼んでいたらぶん殴られていたはずである。

チェはキューバ反乱軍に身を投じてわずかの期間で
ナンバー2にまで昇格している。
部下にもチェと呼ぶことを許していたのだろうか、
最初からだとすごい。
調べてみても、いつからそう呼ばれていたのかわからない。
どなたか教えてください。

一度書いたが、ちなみに私は前の会社ではすぐに否も応もなく
おっちゃんと呼ばれていた。
今でも「おっちゃん」と電話がかかってくる。

チェが大人気である。
今に始まったことではなく、
ずいぶん昔から世界中でチェは愛されている。
日本でも同様であるが、
みんな何をした人か正確に知っているのであろうか。
ここではそれはほんのちょっとしか説明しないので、
調べるか、映画を見に行ってください。
2部に分けられた映画で、丁寧に追いかけてはいるが、
それでも全貌は明らかにできないでいるように思った。

ともあれ、共産主義者でなくてもチェのTシャツを着ている人は
麻生首相のTシャツを着ている人より多いと思うな。
やはり、彼の失敗の原因ともなった妥協のない理想主義が
ロマンティックに受け取られているのと、
あとはやはりルックスであろうか。
たしかに男でもぐっとくる。
ベニチオ・デル・トロが体重を落としていい味を出している。
それでも、本物のほうがハンサムだったような気がする。

彼はキューバ人ではない。
裕福な家庭に育ったアルゼンチン人である。
南米放浪の旅の後、社会主義に目覚め、革命に身を投じることになる。

そのアルゼンチンである。
番組でも話したことがあるが、私は南米はアルゼンチンにだけ
ラジオ番組の取材で行ったことがある。
一人で取材相手を探して、録音して、写真を撮った。
日本に帰るのに乗り継ぎの時間も含めると48時間かかった。
帰った翌日、打ち合わせをして、番宣を録ったのだが、
「声が出てないねぇ」
と鬼のプロデューサーに怒られて、
「当たり前だろう」と
口の中だけでつぶやいた記憶が今でも鮮明に残っている。

アルゼンチンが他の中南米諸国と少し異なるのは
移民の割合である。
ブラジルを除けばどの国も
スペインからの移民がずば抜けて多いのであるが、
アルゼンチンはスペイン系移民とイタリア系移民がほぼ同数。
言葉はスペイン語でもイタリア語の訛りがあり、
リズミカルかつ抑揚があり、耳に楽しい。
ブエノスアイレスは撮ってきた写真を見ると、
一瞬ヨーロッパのどこの国だったかと思うくらい
石造りの巨大なビルが立ち並び、その整然とした街並みに驚かされる。

0119-2okura.jpg

そんな粋な通りに大小のカフェがどこにでもある。
どこもアール・デコの造りで見ているだけでうっとりする。
昼間でも照明はあくまで抑えてあり、
ひそひそ話やいちゃいちゃ話にはうってつけである。
そこの給仕がまたいかしている。
大部分が40代から60代の男性で、身のこなしが颯爽としている。
どんなに太っていてもそれは同じ。

0119okura.jpg

映画の中でチェがタンゴを踊るシーンは出てこない。
いいとこの坊ちゃんだったので多少は
たしなんでいたのではないかと想像するが、
ゲリラ戦やってる中でそんな余裕はなかろう。

ブエノスアイレスでの取材中、向こうでタンゴのプロダンサーになった
日本人女性に話を聞く機会があったのだが、
「ここではすべてがタンゴなんです。
人の歩き方、靴磨きの仕方、食器の並べ方、全部です」
と言っていたのが大変印象深かった。
タンゴはもともとサッカーの強いボカ地区で始まったのだが、
ボカ地区がさびれていくのと期を同じくして、タンゴも下火となった。
現在再びボカ地区は町全体が芸術作品と化していて、
壁という壁は派手な色でペイントされており、
観光客も集まる場所に変わった。
それに伴い、打ち捨てられていた倉庫が
大タンゴショウを見せるレストラン兼劇場となっていて、
なかなか予約を取るのも難しかった。
そこで見たタンゴは最新式の照明が備えられており、
360度の舞台で繰り広げられるきらびやかなダンスに目を見張ったものの
どうもあのバンドネオンの悲しげな音色に合わない感じで、
首をひねってしまった。

その話をしたら前述の日本人ダンサーから
「サンテルモ地区に行けば、
大倉さんが見たいようなタンゴを踊っていますよ」
と教えられて、
「夜は危ないから本当に気をつけてくださいね」
と注意されながらも、真夜中に出かけて行った。
本当に人影がない。たまに車が通り過ぎるくらい。
石畳の通りの一角に100年前と同じに違いないと思わせる
小さなダンスホール、バーがいくつか並んでいる。
客は私を含め6、7人といったところか。
5人くらいの構成のバンドがタンゴを奏でる中、
ペアが狭い店内を最大限生かし、切れの良い、
しかもタナトスを感じさせる情念のステップを見せてくれた。

率直に言って、こちらの寂しいホールの踊りに感動した。

この話はここまでだが、一応第二部に続く。

                              大倉眞一郎

BOOK BAR staff| 07:59 | カテゴリー:

2009年01月04日

お正月

皆様、明けましておめでとうございます。
よき一年となりますよう祈念いたします。
皆様も我々の今後につきどうにかなるように
祈っていただければ幸いです。
催促がましくてすみません。

さて、我々日本人にはお正月は一年の門出であるが、
全然何の日なのか気にしていない人も世界中にたくさんいる。
使用している暦が違うからである。
ご存知のように中国文化圏では旧正月が
西暦の新年1月1日よりはるかに大切である。
ただ、この旧正月という言い方、なんか変だ。
「我々進んだ国から見ると、まだあんな暦で新年を祝ってるのだね」的な
ニュアンスが感じられてならない。
中国文化圏では確かに西暦(グレゴリオ暦)を
利用しているところがほとんどであるが、
大切な行事を「旧」とされるのはどんな気分であろうか。
実際、ほとんどの場所で彼らは「旧正月」とは呼ばず
(一部使用している場合もある)
「春節」あるいはそのまま「新年」と呼んでいる。
毎年グレゴリオ暦の1月下旬から2月中旬の間を移動する。
今年は1月26日である。

私はいくつかの国で新年を迎えたことがあるが、
何も知らなかった若い頃、ネパールで正月にあたったことがある。
無知とは恐ろしいもので、
きっと何かそれなりの派手なイベントでもあるのではないか
と期待していたのだが、
大晦日にネパール人の行動に変化が起きていなかったので
不思議に思っていたら、1月1日はいつものように始まり、
いつものように終わってしまった。
間抜けな話である。
それくらい調べとけや。

といってもこれが意外にややこしい。
基本的には正式な暦はヴィグラム暦という太陽太陰暦が使用されている。
新年は4月中旬で大きく移動することはない。
その時期にネパールに居たことはないので、
どんなことになっているのかよくわからないが、
大掛かりな祭りが催される場所もあるようである。

ややこしいのはここからで、
ネパールの中心部はカトマンズ盆地であるが、
その中でカトマンズが町としては群を抜いてでかい。
パタン、バクタプルという町もこの盆地の中である。
そのカトマンズ盆地はもともとネパールという国の名前の由来となった
ネワール族が多く住んでいたところで、
ここではヴィクラム暦とはまた違うネパール暦も並行して使用されている。
こちらの新年は秋にやってくる。

私はカトマンズ盆地に張り付いていることが多いのだが、
正直申し上げて、何暦が使用されているのかよくわかっていない。
何暦であっても飛行機等の予約はグレゴリオ暦でなされるので
生活する上でドヒャー困ったということはないのだが、
「おっと、それはいかがなもんでしょうねえ」
ということはある。
領収書(といっても数百円程度のことではあるが)をもらう時に
注意していないと
「何なのこの数字は?」
という紙を渡されてしまう。
ご自分で使用されている暦の日付が書き込まれるのである。
「2008年でお願いね」
と頼むと、そいつは面倒いなあ、という顔をされながらも
カレンダーを照らし合わせながら、
グレゴリオ暦でちゃんと書いてくれる。

昨年末はカトマンズの友人から
「Merry X’mas and Happy New Year」
とメールが届いた。
だんだん変わっていくのだろう。
個人的には面白い事が減った気がするが、
これから国際基準に合わせて経済的自立を果たすには、
そういうことも必要なのかもしれない。

okura0104-1.jpg

ネパールではグレゴリオ暦的新年の行事は今のところ何もないが、
1月中旬あたりにそれとは何の関係もない
目が覚めるような光景にぶち当たりことがある。
写真はあちこちの寺院で行われているようだが、
大勢の少女が着飾り、儀式が執り行われる、その様子である。
何の儀式か聞いてみたのだが、どうも要領を得ない。
英語の問題なのか、日本の端午の節句を説明するのが面倒なように
彼らもはしょって適当に説明したのか、よくわからない。
ともあれ、これからネパールに旅立つ方、お見逃しのないように。

                              大倉眞一郎

BOOK BAR staff| 05:52 | カテゴリー:

2008年12月19日

悲しい愛

「愛のひだりがわ」は大好きな小説だが、
愛は常に思いを寄せている人、大事な人に届くとは限らない。
届かなかった愛のことを思うと
この間まで胸が張り裂けそうになっていたのだが、
最近はそうでもない。
どうしてでしょうね。

こちらから発信する愛は受け止めてもらえたり、
跳ね返ってきたりするが、ストレイト、ゲイに関係なく普通の人間は、
「よかった」または「がっかり」とけりをつけることができるのだが、
けりをつけない輩が存在する。
ストーカーであったり、極端な例、愛とは何の関係もない痴漢行為、
さらに卑劣な行為に及ぶ犯罪者もいる。

私はストレイトなので女性から好意を寄せていただくのは
大変光栄であり、本当はスキップしたくなるくらい嬉しい。
ゲイの方から好かれるのも素直に嬉しいのだが、
気持ちだけいただくことにしている。
若い頃、撮影スタジオでヘアーメイクの方に
「え・く・ぼ」といたずらっぽく笑われながら、
私の自慢のえくぼを指先で突っつかれたことがある。
ちょっと照れくさかったが、懐かしくも楽しい思い出である。

ただ、そんなこともそれっきりで、
基本的にはどうもゲイの方々の好みではないようで、
それ以来そんなからかいの対象になったこともなかった。
ロンドンで私の部下であったゲイの男の子とこんなことを話したことがある。
「シンはゲイじゃないのがはっきりわかるけど、
今出張で来ているあのハゲの人はゲイだよ。
ぼくらにはそういうことってすぐにわかるんだ」
「へー、俺もこっちに来てかなりわかるようになったけど、
あの人はわからなかったな。ただ、彼は奥さんも子供もいるよ」
「自分で気がついてない人もいるんだよね」
少し淋しそうだった。

ということで、部下にお墨付きをもらって
ゲイの人にはもてないと思い込んでいた。

舞台は再びカンボジアに飛ぶ。

プノンペンからアンコール遺跡を見るための町
シェムリアップに移動するのにスピードボートを利用した。
バスはつまらないし、
飛行機は高いので旅行者には人気のある交通機関である。
トンレサップ川から馬鹿でかいトンレサップ湖に入り、湖の北の端に着く。
雨季は5、6時間で着くらしいが3月の乾期は場所によっては
水が減って、のろのろボートになるので7時間かかってしまった。

朝の7時に出発である。
カンボジアはほとんどいつも暑いのだが、この季節、朝、晩は涼しくなる。
スピードボートはスピードが命であるから、
それを味わうとなると屋根が一番よろしい。
他の旅行者もよどんだ船の中の空気より、さわやかな朝の風を期待して
当たり前のように屋根に陣取る。
私も当然屋根派である。
ところがボートが動き、すっ飛ばし始めると気持ちよかった朝の空気は
凍てつくような厳しい寒気と変わる。
そのうち陽が出りゃ暖かくなる、ほんの少しの辛抱と耐えていたのだが、
根性なしどもが次々にボートの中に引っ込んでいくのを見て、
気持ちが萎え、「無理して風引くのは馬鹿」とすぐに主張を変え、
ボートの入り口へとよろよろ近づいたら、遅い。
すでにボートの中の席は一杯で、「詰めてやろうか?」
と気を利かすような顔は見当たらない。
みんな目を合わさない。
困っちゃったな、と機を見るに鈍な連中が
入り口付近で立ちんぼ状態で固まっていた。
仕方ないね、でもそのうち暖かくなったら絶対屋根の
ベストポジションは俺のもんだからな、今に見とけ、
と復讐を誓っていたら、ボートの従業員らしい優しい顔をした青年が
女性も金のありそうな旅行者も無視して私を指差し、従業員席といいますか、
ともあれ座れるところにわずかな隙間を作ってくれ、ここ、ここと合図を送る。
皆さん、申し訳ない。
カーゴパンツにTシャツ一枚という若い格好をしてはいますが、
実は50を過ぎた爺さんなんですよ、と心の中でお詫び申し上げ、
あー暖ったけー、やれやれ人心地。
どうもありがとね、若い船員さん。

若い船員さんはいいからもっともっと寄れよ、とひどく親切なのだが、
いやあ、もうこれで充分ですよ、窮屈なのもね、ちょっとね。
すると彼は読んでいた新聞を大きく広げた。
私は彼の左側に座っていたのだが、その広げた新聞を持った右ひじを
私の右太腿に置いた。
あらららら、どうしちゃったのかしら。
そのほうが読みやすいの?
しかし、カンボジア語の新聞なので私は読んでもわからないし、
誰がどう見てもその姿勢には無理があるでげすよ。
しかし、彼はかたくなである。
そのうち彼の右ひじが私の太腿の付け根に尺取虫のように
移動しているように思えた。
勘違いだといいなあ。
私はケツが痛い振りをして、足の位置を変えたが、
彼の右ひじは強力接着剤でくっついたように離れない。
彼も位置を変え追いかけてくる。
おかしいよ、君。
周りにはたくさんの人がいるし、いなくてもおかしい。
いかん。
足を組もう。左足を右足の上に乗せ、さらに本を取り出し、
両腕でがっちり局部をガードした。
これでひと安心と思ったら急に眠くなってきた。
朝5時に起きたから仕方ない。
念のため身体を折って、ウトウトしてたら尋常でない感触に目が覚めた。
いつの間にかほとんど船員さんの手は股の間に入り込んでしまっている。
痴漢船員に変身していた。
「おっ!陽が出てきた!」
とあえて声を出し、これを待っていたんだとばかりにすくっと立ち上がった。
「よし、屋根に上がろう。ありがとうね」
と不届き者に一応お礼を言って、そそくさとその場を後にした。

何故その時に相手の手をつかんで大声を上げなかったのか、
といぶかしく思われる方もいるかもしれないが、
実は度胸がなかったのではない。
カンボジアでゲイがどういう扱いを受けているのかわからなかったから、
あえてそういう行為には及ばなかったのである。
国によってゲイは厳罰を下されることがある。
東南アジアはタイのようにゲイに寛容な国もあれば、
ゲイは罪に問われるマレーシアのような国もある。
それまでのカンボジアではゲイと一目でわかる格好の人間がいなかったので
判断がつかなかった。
あの場面で大声を上げていたら、彼は職を失っていたかもしれない。
もっとひどいことになっていた可能性もある。
格好を付ける気はないが、万が一にもそんなことにはなって欲しくなかった。
痴漢行為はやめて欲しいが、彼は私もゲイだと思っていた節がある。
だから、私を指名して隣に座らせたのである。
痴漢と間違えられるほうが彼には不本意かもしれない。

1216okura.jpg

屋根の上は快適であった。
照り返しもあるので暑いが、今度はボートの中のほうが苦しいはずである。

先ほどの青年はジュースを売って回る。
隣に座ってタバコを吸うかと差し出されたが断った。
しきりに話しかけてきて、ひょいと股間に手を回そうとするのを今度は
「これはだめ」
と腕を取って払いのけると、カンボジア語で恨めしい口調で話し続ける。
「お前はゲイじゃないのか?」
と聞いていたのかもしれない。

それから何度もジュースを売りに回ってきたが無視をした。
そのたびに悲しそうな視線を送ってきた。

今は素晴らしいパートナーと出会えて、
幸せに暮らしていることを切に願っている。

全然関係ない話で恐縮だが、
電車の中で男が男に痴漢行為を働いた場合は罪に問われるのだろうか?
日本に帰ってきて、それが気になって仕方がない。

                              大倉眞一郎

BOOK BAR staff| 02:19 | カテゴリー:

2008年12月04日

シアヌークビル

昨日の原稿を読んで
「たかが麺ひとつで生涯忘れ得ぬとはチャンチャラおかしい」
と思ったあなた。
麺を笑うものは麺に泣くから、覚悟しとけ。

しかし、予告したようにこの地が忘れられなくなりそうなのは
確かに麺のせいだけではない。

私はカンボジア、ラオス、ベトナムを40日くらいでまわるつもりだったので、
何か不測の事態が起こったときのために
ホットメールアドレスを取得しておいた。
ただし、賢明にも前の仕事の不愉快そうな話だったら、
絶対にアドレスを教えることは相成らん、
と家族に厳命を下す事も忘れてはいなかった。
おかげさまで心安らかに旅が続けられていたのであるが、
なーんとなくその日は夕食前にたまにはメールチェックしとくか、
心乱すものであれば見なかったことにしよう、
と決め、ネットカフェに向かった。

このネットカフェなるもの
いつからインド、ネパール、カンボジアに出現したのかわからないが、
カフェではない。店によってはInternetとしか書いてないところもあり、
ただコンピューターが並べられているだけである。
飲み物なんてない。
日本語の環境があったりなかったり、あると言ってなかったり、
ないと言ってあったりと自分でチェックしてみるまで使えるかどうかわからない。
英語、イスラエル語、韓国語はほぼどこに行ってもある。
日本人の貧乏旅行者が減ったということでもあるなあ、と感慨深かった。

全く関係ないが、
私はコンピューターで作業を始めるとたちまちにして便意を催す。
会社をやっていたときはトイレがすぐそばだったので自分でもよく出るもんだ、
俺の腹には宿便はない、と自慢していたのだが、
それがコンピューターのせいだとは気が付かなかった。
自宅でもそうだった。
やはりコンピューターをいじっていると深夜でもトイレに行っていた。
うかつであった。
まさかコンピューターが原因であるとは誰も信じてくれまい。
わたしもそうですよ、という人がいたら是非教えてください。
一人じゃないんだと安心すると思います。

どこで気が付いたかといえば、インドである。
会社畳んで最初に行ったインドの最初の夜に気が付いた。
その時は長いメールを友人に書いていて、
我慢できなくなり途中でいったん放り出さざるを得なくなり、
宿に戻ったのだが、単純に時差のせいだと思っていた。
しかし、用を済ませて再び作業を始めるとまた同じことが起こったのである。
それ以来、ネットカフェに行く際は一度軽くネット上で新聞記事をチェックして、
催すと宿に帰り、絞りに絞り、またネットカフェに戻るようにした。
どえらく面倒な男である。

えー、これは決して汚い話ではなく切実なる訴えである。
本当に困っています。
誰か助けてください。

話は一体どこへ行くんだろう?

えーっと、シアヌークビルのネットカフェの話であった。
案の定ホットメールを開いたあたりから苦しくなってきたのだが、
なんだか知らないが、やたらメールがたまっている。
絶対に嫌なことが書いてあるに違いない、
見ないことにしようかと迷ったが、
根が真面目にできている私はつい家族からのメールを開いてみた。
「J−WAVEの〇〇さんから電話あり。すぐに電話をくれとのこと」
〇〇さんはずいぶん可愛がってあげた人なのだが、
もしかしたらいじめられたと思っていたかもしれない。
どうしたもんかと悩んだら、〇〇さんからもメールが入っている。
「急な話ですが、番組やりませんか?
やりたいんだったらすぐに電話をください」
おー、会社を畳んだはいいが先のことは何にも考えず、
インドだ、ネパールだとうろついていたが、
本当は歳も歳だしまともな仕事にはありつけんなあ、
くらいのことはわかっていた。
しかし、嫌なことは忘れるに限るという私オリジナルの人生訓のもとに
本当に忘れていた。
しかし、このメールで思い出した。危機なのである。
地獄に蜘蛛の糸である。
もうトイレに行きたくて仕方がないのだが、ここは締めていかねば。
電話はかけられるか店のお姉さんに聞くとスカイプでなら大丈夫とのこと。
旅の最中の私には「うげげげげ」とうなるくらい高いが
電話をしないわけにもいくまい。
ぷつぷつ途切れる異常に通信状況の悪い中、何とか〇〇さんにたどり着いた。
「で、どんな番組なのよ」
もったいぶってみた。ぷつぷつ途切れるのでなんだか良くわからない。
やる気満々であるが、途切れる合間を縫って電話が高くてかけられないし、
そもそも電話が通じるような宿に泊まっていないことを理解してもらい、
メールのやり取りで詰めていくことにした。

翌日からはすごく素直な普段の私に戻り、
ケツの穴を締めて内容を納得した上で
しばらくはまだ日本には帰らないけど「やらせていただきます」とお答えした。
「で、いつ帰って来るんですか?」
「4月1日」
「何言ってんですか、番組は5日からですよ。
本当はすぐに帰ってきてもらいたいくらいなのに」
「いや、俺も帰りたいんだけど、
脳みそがもうラオス奥地に飛んでいて無理なんだよ」
という問答の末、3月25日の朝、帰国した。

翌日スッタフ会議で杏ちゃん、ディレクター、スタッフと初めての対面。
俺が代理店にいたら許さんなあ、こんなメチャクチャなスケジュール。

というわけで、現在楽しく番組をやらせていただいている。

シアヌークビルが生涯忘れ得ぬ場所になったのには
うまい麺を見つけたのとこんな出来事があったからである。


                             大倉眞一郎

BOOK BAR staff| 14:04 | カテゴリー:

2008年12月03日

カンボジアのシアヌークビルのマーケットの屋台の麺のうまいこと

タイトルだけでもう何も書くことはなくなったのだが、
まあ、もう少し、丁寧に。

昨年2月にプノンペンに入り、
コンポンチャムという何にもない小さな町に移動し、
「お前何しに来た?」と不思議な顔をされつつも
つつがなく散歩をして毎日を送っていた。
すると、ある日、カンボジア女性と結婚したという日本人が
奥さんの実家にやってきて、子供と夕方メコン川沿いの公園みたいなところへ
散歩にでてみれば怪しい東洋人がいるので「日本の方ですか」と声をかけてみました、
と親しげに話しかけて来たりする。
「何でまたこんなところへ」と聞かれても
そもそも当てがなくうろついているので、答えようもない。

別の日には急に雨が降ってきたので同じ公園みたいなところへ逃げ込んだら、
私と同じくらい汚い格好の若者が追いかけてきて「日本人ですか」と尋ねる。
「いやー、昨日も見かけたんですが、とても日本人には見えませんでした。
でも、カメラを持っていたのでもしかしたらと思って」
だそうである。
日本のオヤジはバックパッカーやんないのか?
確かにそういえば見ないね。

しかし、こちらも日本人と会うためにこんな所まで来ていたわけではないので、
向こうが驚くくらいこちらもびっくりである。

別に嫌なことがあったわけでもなく、
実際若者とは晩飯を食いに行って大盤振る舞いをしてあげた。

妙なことが続くのでどうせ旅行者が多いのなら、いっそリゾートに行っちまうか、
とこれまた論理的必然なしに決めて、コンポンチャムからプノンペン、
プノンペンからシアヌークビルまで合計6時間半かけて一気にバスで突っ走った。

シアヌークビルは私にとっては生涯思い出深い場所となるであろう。
是非なって欲しい。
カンボジア唯一の海浜リゾートなのである。
といっても30年前のタイのパタヤよりもずっと鄙びているが、
皆さんやさしいし、安い宿も掃除が行き届いていて気分が良く、
やはり私も汚いところよりもキレイなところのほうを
好ましく思っていることに気が付いた。
ただ、キレイだ、鄙びている、で生涯の思い出になるわけがない。

麺である。
カンボジアの麺はベトナム、ラオス、タイと同じく
基本的には米から作った麺を使用している。
どこでも食べられるのだが、唯一その他諸国と違うのはスープがほんのりと甘い。
糖分はお酒から補給する体質になっている私にはかなり違和感がある。
仕方がないので普段はライムをギューギューに搾り、唐辛子をぶっ掛け、
ナンプラーみたいなものもドボドボ注ぎ、味を調えてようやく食らいつくのである。

シアヌークビルに着いた翌朝早々にマーケットに出かけた。
旅の朝は早起きなのである。
ここは他のカンボジアのマーケットとはかなり様子が違う。
海のものがあるからである。
河のものもおいしいのだが、やはりバリエーションに欠けることは否めない。
どーんと広いスペースに野菜、肉、それに海産物がごっそり並んでいる。
見ているだけで腹が減る。
腹が減ったところに屋台から警戒心を全く失わせる天上の香りが降ってくる。
それでも私は選ぶ。
何でもいいというわけにはいかない。
端から端まで覗いて回り、客の多い少ないを見定め、麺の質まで点検する。
人が食べているのを至近距離から観察するだけではあるが、これが大切。
そしたら思いもよらないものが。
黄色い麺である。日本のラーメンですがな、あなた。
もちろんインスタントでなくちゃんとした生麺。
それにスープ、もやし、肉団子。
混んでいてなかなか席が空かないので並ぶのだが、
こちらの方々はたかがラーメン一杯にも時間をかける。
ラーメン道の違いは認めるが、並んでいる人もいるんだから早くして頂戴。

だが、考えてみればニューヨークでもパリでもロンドンでも地元の方々は
人が並んでいようが、舌打ちしていようが長々スープをすすった後も
席を立たずおしゃべりに夢中で動こうとしない。
やはりこれは誰かが正さねばなるまい。
これを読んだ方は世界中のラーメン屋で不心得者を見かけたら
厳罰を下していただきたい。

やっと席について麺と肉団子を指差すと、あっという間にでてくる。
作るほうは恐ろしく早い。
甘くない。甘味ゼロ。しかも、スープはブタからとったと思われるこくのあるもの。
かといって日本のラーメンとは違う鼻の奥をくすぐるエキゾチックな香。

okura1202.jpg

あんまりうまくて2分で食った。
もう一杯。また2分。量が日本のものより少ないのでいくらでも入る。
が、わきまえも大事。
2杯で7000リエル。当時で200円ちょっと。
あまり安くないのが辛いが、
まわりの方も一杯3500リエル払っていたので値切るようなことはしない。

これが生涯の思い出のひとつであるが、これとセットになった思い出がもうひとつ。
でも、なんだか長くなってしまったので続きは明日。


                              大倉眞一郎

BOOK BAR staff| 07:57 | カテゴリー:

2008年12月01日

沖縄

あー、私が琉球王朝末期のジェットコースターストーリー、
「テンペスト」を紹介したら、杏ちゃんだけ沖縄に行ってしまった。
私は何度も行ったことがないと訴えたのに冷たいものである。
中身汁食べたかしら、ソーキそばは絶対食ったな。
やたら量が多いらしいから、太って帰ってくるに違いない。

私は2001年発行の「沖縄大衆食堂」という、
イラストつきの丁寧な食堂解説書を繰り返し読んでは、涎をたらしている。
インドには呼ばれる人しか行けないという、
妙ちくりんな話が若い人の間では交わされているらしいが、
私はもう3回も行った。
しかも、長い。
インドにしか呼ばれない人間になってしまったのだろうか。
どうすれば沖縄は私を呼んでくれるのだろう。

沖縄の海は世界一きれいだと言うではないか、
どのくらいきれいなのだろう。
いや、世界一を疑っているわけではないのだが、
下関も30年前に東洋一の夜景とか宣言していたので
「何とか一」というのはやはり見てからでないとな。
私がこれまで見た一番きれいな海はタイのパタヤ沖にあるラン島の浜辺。
海が空と溶けていた。

下の写真は別の海。このくらいのたそがれ時の海が好き。
大体一人でビールを飲んでいる。

okura1201.jpg

私がその他好きな河、海はどれもドロンと濁っている。
特に河はメコン、メナム、ガンジス、ヤンゴン、トンレサップ、
どれも緑と黄土色が混ざったような色。
場所によっては緑と黄土色が、きれいに分かれていて合流する場所もあった。
その濁りは豊穣のしるしである。
エビ、なまず、貝、名称不明の魚介類が
マーケットに行くとこれでもかというほど並べてある。
そんなものをおいしくいただくようなレストランに入ったことはないが、
私より少しお金を持っていれば王侯貴族の食卓のはずである。
私は基本がマーケットの中の屋台であるが、それでも肉団子につみれ、
血を固めた精のつきそうなもの、
ホルモンなどがトッピングされた麺には心から胸が躍り、
つい2杯食べてしまう。
でも太らないのがいい。
あれは量が少ないのである。
本当は麺と煮物のぶっ掛けご飯がセットになっているのだと思う。

沖縄の海がきれいで、
その上海の食い物までうまいとしたら由々しきことである。
歳とるとあまり食えなくなるから急がねば。

                              大倉眞一郎

BOOK BAR staff| 08:30 | カテゴリー:

2008年11月12日

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伊勢神宮に住む猫はこそこそ隠れない。
誰が餌をやっているのだか知らないが、
立派な体格で堂々としている。
拍手を打ちたくなる。

               大倉眞一郎

BOOK BAR staff| 07:03 | カテゴリー:

2008年11月11日

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きっとどこにでも咲いている花なのだろうが、
下関に帰ったときにしか目に入らない。
何故だか私の家の墓のそばに多い。
咲くとすぐに萎びてしまう。
下関の墓に入る気はないのだが、この花はちょっといい。


               大倉眞一郎

BOOK BAR staff| 06:00 | カテゴリー:

2008年11月10日

田麦俣

前回紹介した「日本浄土」へのオマージュとして、
何回かに分けて、日本で撮った写真を見ていただこうと思う。
オマージュだというだけで私の写真が素晴らしいという意味ではないので、
怒らないよう、お願い申し上げるしだいである。


1980年2月、大学を紙一重ではあったが、卒業できることになった。
そうなるとこれといって心配することもなくなり、
ボケボケしていたら天啓を受けた。
東北に行けと。
それまで足を踏み入れたことがなかった東北を一人で旅することに決めた。
金があるわけではないので、普通列車主体で動き、
旅先で一番安い民宿に泊まる今でも変わらない私の旅スタイルである。
20歳でインドに行った時に買ったバックパック(現在も元気に活躍中)を
背負い、カメラバッグを肩にかけ出かけた。

東北と決めたはいいが、どこに行けばいいのか見当がつかない。
まず、一度も見たことのないものがある場所に行こうと決めた。

慶応卒業ということで誤解されている方もいるかもしれないが、
私は夏は軽井沢でテニス、
冬は苗場でスキーとかいうちゃらいサークルとは縁がなかった。
厳格に言うなら、
大学入学時そんなサークルの勧誘ビラを撒いている学生が
果てしなく並んでいたのに、
なぜか私にだけはビラの一枚も渡してくれなかった。
サンダルか下駄で学校に行っていたのがまずかったのかもしれない。

そんなわけで雪がどっちゃり積もっている所に行ったことがなかった。
スキーに一度も行ったことがなかったのである。
豪雪地帯で雪を踏んでみたかった。
山形の山の中を最初の目的地にした。
そこに行けば後はどうしてもという場所はないので気が楽になる。
田麦俣という場所が豪雪地で、さらにすごい多層民家があるという。

鶴岡からバスに乗った。
安い民宿は豪雪のせいか簡単に予約できて、
バス停でおかみさんが待っていてくれるという。
降りろといわれたバス停まで
左右高いところでは3メーターにもなる雪の壁が続く。
胸は高鳴るが、ここで私は何をするんだっけか、と途中から不安になった。

おかみさんが迎えに来てくれて、
雪の壁を何度か曲がったところで視界が開けた。
明治、あるいは江戸時代にまで戻ったかと思った。
馬鹿でかい家、それも4層の茅葺き屋根。
そんな家がずらりと並んでいるのである。
すごいもん見ちゃったなあ。

泊まる民宿もそのうちのひとつでやはり4層になっている。
いくらだったか忘れたが、どえらく安かったように思う。
30年前のことだしね。
こんなところに泊まれることなんて二度とないと思った。
当たっていた。
それ以来見たこともない。

おかみさんは標準語を話してくれるので安心していた。
宿に着くと旦那さんとじいさまらしき二人が鉄砲を片手に
真っ赤な血で染まった真っ白い兎を私に向かって突き出し、
笑いながらなにごとか語ってくれている。
さっぱりわからない。
仕方なくエヘエヘしていた。
どうも今晩食わすと言ってくれているようであった。
ばあさまも出迎えてくれ、美しい笑顔でなにごとか話かけてくれる。
わからない。
ともあれ歓迎してくれている。
暇?と疑ったら、案の定、暇であった。
客は私一人。
スキー場が人で一杯になっていても、豪雪地帯を訪ねる人は少ないらしい。

荷物を置いて一息と思ったら、おかみさんがやって来て、
村営スキー場でスキーをしないかと誘ってくれる。
一度も経験がないことを告白すると、小学生の娘と3人だし、
長靴スキーなので怪我をすることはないと熱心に勧めてくれる。
ありがたいお話なのでご一緒させていただいた。
歩いて数分のところにゲレンデがあった。
なんせ初めてのことなので大きいのか小さいのかもわからないが、
観光客が一人もいないので、小さいものだったのだろう。
リフトなんてなくて、ゲレンデの左端に丘の上まで縄が張ってあり、
その縄をたぐりながら、かに歩きで登っていくのであった。

おかみさんは4本の紐のついたスキー板を私に渡し、
「こうやって結んでね」、と手際よく教えてくれ、
とにかく結ぶのねということくらいしか理解できなかった私を置いて、
娘と軽々滑り降りていった。
置いていかれた私はなーんもわからんもんで、
とにかく降りりゃいいんだろうと、
いきなりガーと直滑降で突っ込み、ドーンとこけた。
受けた。
「上手、上手」
おかみさんもお上手である。
娘さんも笑っている。
そのうちおかみさんが夕食の用意に帰り、
しばらくして娘さんも帰っていったが、
私は薄暗くなるまでひたすら直滑降を繰り返していた。
「スキー面白いなあ」
その時はそう思ったが、それっきりになってしまった。
これまでの人生でその長靴スキー一回きりである。

翌日は写真を撮りに、山に入ることにした。
私の履いていたスノー・トレーニング・シューズを見て
「そんなんじゃ駄目だ。貸してやるからでかい長靴を履け。
 かんじきも付けないと歩けんぞ」
という内容のことを山形弁で旦那さんが教えてくれた。
ありがたかった。
その通りにしてもひどいことになったのに、
靴のまま入って行ったら宿から100メートルも行かないうちに
挫折していたはずである。

山に入ったはいいが、かんじきさえあまり効かない。
一歩歩くごとに太股近くまで雪に埋もれてしまう。
雪も降ってきた。
新雪が積もると元の地形がわからなくなる。
場所によっては胸まで潜ってしまったり、
崖がわからなくなって転がり落ちたりした。
柔らかい雪なので怪我はしないのだが、しょぼくれてくる。
辺りの風景は木と雪だけ。
色のないモノクロームの世界である。
それでも若かったせいか、今では考えられない頑張りを見せた。
奥に進むと色が見えた。
鮮やかな朱色。

1109blog.jpg

鳥居の上の部分だけ雪から頭を出している。
白に朱。
何としてでもたどり着かねば。
たいした時間がかかったわけもなかろうが、1時間くらいに感じた。
シャッターを切って、満足した。
帰りは少々の坂でも滑ったり、転がったりして最短距離で宿に戻った。
私の格好を見て
「おーおーおー」とみんなが喜んでくれた。
東北一周の旅、最初の目的地、田麦俣で体力の八割を使ってしまったが
その価値はあった。
食事もうまく、広い部屋に贅沢にも一人だけ。
腕を入れる掛け布団でぐっすり眠った。

この原稿を書くのにまだあの民宿はあるか、と調べてみたが、
どうもそれらしいものは出て来ない。
その時のことはメモも取っていない。
ただひとつ覚えているのは半村良の写真がたくさん飾ってあったこと。
何故だろうと不思議に思ったが、聞かないで次の場所へ移動してしまった。
半村良は東京出身なので実家ということもないだろう。
私の人生、こんな小さな後悔で一杯である。


                            大倉眞一郎

BOOK BAR staff| 06:46 | カテゴリー:

2008年11月05日

香港、マカオ

先週紹介した「越境者たち」の著者、
森巣博氏は世界中のカシノで博打を打っているが、
マカオでの活躍、あるいは轟沈の話はまだ聞いたことがないように思う。
私が忘れているだけかも。

マカオでの博打といえばやはり沢木耕太郎の「深夜特急」であろう。
ろくに金も持っていないのに突撃して、
あることに気が付き勝ちを得るのだったかやっぱり負けちゃうんだったか、
調べようと思ったら本が自宅から1時間も離れた
本倉庫用に借りているアパートにあるのでチェックのしようがない。
あのやり取りも息詰まるものがあった。
読んだ方も多いはずだが、まだの方には強くお勧めする。
会社辞めて旅に出ちゃう人もいるかもしれないが、
そこんとこは自己責任ということで。

香港に2週間ボーっとしに行ったことがある。
香港に行くのを旅したとはなかなか言えないだろう。
1997年に中国に返還されてから1年後くらいのことだったと思う。
何が目的ということもなく、ただ、中国圏には行ったことがなかったので、
まず、気楽な香港あたりからということで
カメラと少々の下着を持って出かけた。
きっとなんでも安くて楽チンにやれるだろうと高をくくっていたら
物価は日本とほとんど変わらない。
私のものさしは麺である。
乱暴な店員が目立つ食堂のワンタン麺が400円くらいしたと記憶している。
計算がまるっきり狂ってしまった。

宿はこれも沢木さんが若きころ投宿したティム・サー・チョイの
ネイザン・ロードに面した、チョンキン・マンション(重慶大厦)。
でかくて汚いビルが細かく仕切られていて安ホテルがダーっと並んでいる。
とりあえずの入り口となる一階のエレベーター前には中国人姿はほとんどなく
アフリカからの方々、インド人、ネパール人、その他私と同じ謎の東洋人が
常に団子状態になって、絶対次のエレベーターに乗ると
気合充分で構えている。
40過ぎのおっさんが全く臆さなかったかといえば嘘になるが、
考えてみりゃ、人が多いだけの話で、
こっちは別の意味で過酷なところを歩きまくってきている。
平気である。

しかし、宿は一泊3000円くらい取るくせに、狭い、決してきれいではない。
虫は嫌いではないが、やたら部屋の中をゴキブリが徘徊するのがイラつく。

そんなところで2週間過ごした。

幸い前の会社で同期の人間が香港に赴任していて、
きれいな奥様と二人で絶対に一人では入らない、
高級中華をご馳走してくれた。
奢ってもらうのは大好きなので今でも大切な思い出になっている。
そんな食卓の会話の中で
「で、どこに泊まってんの?」
「チョンキン・マンション」
「えっ!」
奥様は
「大倉さん!危ないですよ。止めてください」
心から心配してくれている。
ありがたい。
こんな私を。
「でも、気になるのはゴキブリが多いことくらいで、平気ですよ」
この一言であきれられて宿についての会話は
それ以降交わされることはなかった。
哀れに思ってくださったのだろう。
二度もお世話になった。
調子に乗ってご夫妻の豪華マンションにまでお邪魔して、
高いウイスキーを吐くまでがぶ飲みした挙句、しばらく寝てしまったりもした。
山田夫妻、今でも楽しく思い出してくれればいいのだが。

地図を見りゃわかるが、
香港は島と半島に別れていてバリエーションがあるにはある。
しかし、2週間写真撮って回ったら、飽きてしまう。
しかも雨季だったので突然大雨が降る。
カメラも用心していないと使い物にならなくなる。

マカオに日帰りで出かけた。
香港からマカオに行くのにパスポートが必要というのも面白い。
マカオ返還は99年のことである。

そのころのマカオは返還まであと1年というのに
マフィア同士の抗争が頻発しており、
爆破事件なども起こっていて、ちょっとヤバイ感じであった。
一般の人の目に触れないところでは、えらい事になっていたようである。
私はロンドン駐在時代、IRAによる爆破テロやボムスケア(嘘爆破予告)が
普段の生活に組み入れられていたが、逃げるわけにも行かなかったので、
そういうことには免疫がある。

かつての同僚の話によれば、マカオは危ないといわれるけど
香港に比べると物価も安くてカシノもあるので、
週末になると香港からドバッと人が押し寄せて、
ドンちゃん騒ぎを繰り広げているという。
カシノには興味はないけどそんな雰囲気も面白いではないか。

船で行ったのだが、船着場周辺にはまるっきり何もない。
タクシー、リキシャのおじさんたちがたむろしているだけである。
特に行きたいところもなかったが、一応観光のようなことをしたくなって、
セナド広場までリキシャでのろのろ進んだ。

さすがポルトガル領。
町並みだけ見て、漢字を無視すればポルトガルの小さな町に見えなくもない。
よくまあここまでやったもんだぜと、その周辺の観光地を「ふーん」と見て周り、
ワンタンメンを食ってきれいな地区を後にした。

1105bbb.jpg

そこからが迷った。
とにかく小さな路地があれば入り込んでしまう猫のような習性を持つ私は
路地があれば曲がる、曲がる、曲がる。
そのうちどこにいるんだか全く見当がつかなくなった。
路地にいる方々に英語は通じないし、
そもそもどこに行きたいんだか自分でもわかっていない。
地図は持っていたが、意味のない状況に追い込まれていた。
マフィア抗争の地だぞここは、危ないとこに近づいてるんじゃないか?
人間どこにいるかわからなくなると、急に恐怖を覚えるものである。
それから灼熱のマカオの路地を数時間歩き続けた。
時々面白いものがあればパチリ、やけくそで面白くなくてもパチリ。
脱水症状を起こす寸前まで歩いたら、突然船着場に続く大通りに出た。
すると今はなきヤオハンが出現し、ミネラルウォーターを手に入れ、
行き倒れを免れた。

いったいどういう日だったのだろうか、帰りの船の中で反省したが、
いや、まあ、そんな日だったということで、ということで私の中では決着した。

カシノの売り上げではラスベガスを抜いたマカオ。
今行けば面白いと思うのだろうか。


                               大倉眞一郎

BOOK BAR staff| 04:41 | カテゴリー:

2008年10月27日

宿屋めぐりまくり

あまり日本で一人旅の経験がない。
ただ、たまにどうしても行ってみたい場所なのに、
誰からも相手にされず、勝手に行けば、
と突き放された時はそうすることにしている。

二度伊勢神宮には一人で行った。
一度は熊野三山回りもセットにしたので5日間くらいになった。
日本で旅するには少し長いかもしれない。
熊野の話は今回は置いておいて、
伊勢神宮の宿屋めぐりである。

町田康の「宿屋めぐり」の主人公は大権現に太刀を奉納に出かけるのだが、
私はただ、よくできた武士であった西行が、
出家して坊さんになったのに伊勢神宮に参って
「なにごとの おはしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるる」
と歌ったことが頭にこびりついてはなれないので
「どんなものか一度は見ないと死にきれん」
と気張って出かけていったのである。

伊勢神宮は「伊勢市」という駅からすぐの場所にある。
かつて、お伊勢参りという大騒ぎが会ったくらいだから
さぞにぎやかなところだと思っていたのだが、
拍子抜けするくらい伊勢市駅前には華やいだ雰囲気はない。

まずは麺達としては伊勢うどんを食べないと後で大恥をかくことになる。
伊勢といえば伊勢うどん。ロンドンにいる伊勢出身の友人から
「大倉さん。伊勢うどんを知らないようじゃ、麺好きとは言わんで欲しい」
と、きつく申し渡されていたので、伊勢市に着いて時刻表に載っていた
格安民宿・ホテルで適当に見当をつけて、
確か6千円くらいのよくここまで狭くできるな、
と感心するほどの部屋のつくりのホテルにチェックインし、
早々に伊勢うどんを食いに出た。
あれだけ言ってたのだからそこいら中、
伊勢うどん屋かと思っていたのにそうでもない。
道々御通行中の皆さんにお聞きして、
なかなか由緒ありそうな店を見つけた。
トッピングに天麩羅がいろいろあるのだが、
麺食いの私はそんなものは頼まない。
素うどんを頼んだ。

素うどんが来た。
素うどんってうどんだけ?
1.5センチくらいの太さのぶよぶよした真っ白いものが、
うどんらしいことくらいは分かる。
でも汁も何もない。
長い麺遍歴を重ねた私であるが、こんなものは見たことがない。
どうしたもんかと思案していたら
「よくかき混ぜて、お召し上がりください」
とアドバイスをいただき、うどんを一回転させて、からくりが分かった。
うどんの下にわずかではあるが濃厚などろどろの出汁というか、たれというか、
そんなものが潜んでいたのである。
真っ白いぶよぶよの麺が濃い茶色に染まっていく。
「これは...」
食うしかないのよ。
一口すするとやや甘みがあるが、のびきったとも思える麺、
「たまり」かとも思える出汁は、悪くない。
唐辛子をを大量に振り掛けて20秒で食ってしまった。
うまかったような、だまされたような、不思議な体験。
で、店を出たのだが、何かが後を引いている。
このうどんは間違いなく消化がいいが、気持ちが消化不良である。
もう一軒行こう、とすぐに町を放浪した。
今度は先ほどの店とは違って、うどん以外にもいろいろあるが、
ドローンとした濃厚な空気。
客は私だけで、なぜか犬がうろついている。
トイレを拝借すると、珍しくもポットン形式の歴史あるものである。
時代を間違えたのかもしれない。
うどんは先ほどの店よりうまくなかったが、そこはかとない納得感が得られた。
今後伊勢うどんのことは私に聞いてください。

お伊勢参りは明日なので、散歩、といっても何もないが、
気の向くまま歩いていたら神宮参道に突拍子もないものを見つけた。
三層の木造建て、まるで「宿屋めぐり」に出てきそうな旅館「山田館」。
あまりの迫力に腰を抜かした。
立派なのだが、立派で腰を抜かすというよりはそのただずまいの奇妙さである。

yadoya.jpg

ここは営業しているのか?
部屋はやはりふすまだけで仕切っているのか?
どんな人が泊まるのか?
私のような一般人かどうか分からない人間でも入れてくれるのか?
お風呂はあるのかしら?
もう、疑問だらけである。
中は薄暗く、人気を感じない。

二度伊勢に行って、二度ともこわごわ中を伺い写真を撮っただけで、
中に入る勇気がなかった。入っときゃ良かった。
調べてみたら、ちゃんとした旅館である。
明治時代はこの神宮参道は大変な賑わいで、
旅館、食堂、土産屋が軒を並べ、それに路面電車も走っていたらしい。
そんな中、大正初期にこの山田館はオープン。
以来規模も大きくし、今に至っているらしい。
よほど商売上手だったのだろう。
他の旅館、店が次々と廃業していくのにこの山田館は立派に営業中である。
まわりの旅館もきっと山田館のような立派なものだったに違いない。
ただ、残ったのがここだけだったので、
何も知らない私のような人間には奇妙に見えただけである。

伊勢神宮はご神体は隠れていて、何も見えないが、
そこに行くだけである種の宗教的体験が得られる場所である。
どんな宗教をお持ちの人も一度足を運ぶことをお勧めする。
その時は山田館に泊まり、伊勢うどんも召し上がれ。

山田館に泊まってもいないのに、
タイトルが「宿屋めぐり」はおかしいじゃないかと指摘する向きもあるであろう。
最後まで読んでいただくために、わざとそうしておいた。
ごめんなさい。

↓↓↓山田館のホームページはこちら
http://ise.ne.jp/yamadakan/


                               大倉眞一郎

BOOK BAR staff| 05:22 | カテゴリー:

2008年10月22日

シアトル、サンフランシスコ

前回の放送でリチャード・ブローティガンが自殺した状態で発見される前年、
広告の撮影で西海岸をひたすらロケハンしまくったことを話したが、
このときのことは今でも鮮明に覚えている。

入社4年目でなぜか一流どころのクリエイティブの方々をお連れしての仕事で、
そのプレッシャーたるや激烈なものがあり、疲れたったらありゃしない。
でも、今日は疲れた話ではない。

私は放送でアメリカの悪口ばかり話しているように思う方もいるに違いないが、
本当は愛憎半ばしており、大好きなところもたくさんある。

仕事では、まず、シアトルでCMの撮影を行った。
さんざん北へ行ったり南に下りたりして、
ようやく郊外に御伽噺に出てくるような美しい森を見つけた。
自然に倒れた大木を濃い緑の苔がびっしり覆いつくしていた。
深い森の中、光が射したところで、その大木におじさんを座らせて、
ウイスキーを飲んでもらった。
商品は売れなかったのでいい思い出とも言いがたいが、
あんな森はそれ以来見たことがない。
まだ海外ロケが珍しかったころなので、今思えばすごく得をした。

その後、サンフランシスコに移った。
グラフィック撮影のロケハンである。
サンフランシスコは楽しい。
ゲイが多いからではなくて、町にまとまりがあるのに、
歩くと次々と表情を変える。
さらに、町もいいのだが、郊外に出ると素晴らしい自然が広がっている。

ここでのロケハンは家である。
普通の人の家。
素朴な木の造りで、すぐそばに森があって、
ベランダにはデッキチェアがあって...
と延々、わかったような、わからないようなことを言う
アートディレクターの指令を受けて、
コーディネーターと一日中それらしき家があると
呼び鈴をピンポーンと押してダッシュするんじゃなくて、
謎の東洋人が二人
「すんません。私たちは日本から来ました。家を見せてもらえまへんか」
「いえいえ時間は取らしません」
「広告の撮影に来ていて、雰囲気に合う家を探しておるのでございます」
と勝手に喋りまくるのである。
いったいなんと思っているか、とものすごく不安に思いながら、
平身低頭お願いするのである。
ひどい差別を受けたり、ものでも投げつけられたり、
バタンとドアを閉められたりするだろう。
でも、見つかるまでは日本には帰れない、ひたすら低姿勢でいこう、
と誓っていたのだが、
何のことはない。ほとんど訪れた一般家庭では恐るべき大胆さ、寛容さで、
「おっ、そうかい。まあ入んなよ」
「お茶飲むかい」
「この家はねえ.........」
と旦那、奥様が丁寧に解説を加えてくれたりする。

日本でいきなり外人さんが変な日本語で家を見せろと言って玄関に現れて、
「はい、そうですか」と招き入れる人間がいるだろうか。

そんなことを二日間続けてようやく理想の家を見つけた。
歩いて数分のところには海があり、
野原に囲まれており、裏には森が広がっている、
木造の風格のある家である。いい感じの納屋もある。


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一日かけて家の中から外まで撮影を続けたのだが、
驚いたことに頼みもしないのに、お茶だ、お菓子だ、
お昼のホットドッグだと世話まで焼いてくれる。
場所がサンフランシスコ郊外で
外国人に寛容なところであったこともあるのだろうが、
アメリカ人の懐の深さ、やさしさに感動した。
アメリカは場所場所でかなりものの考え方が違うところがあるので
注意していただきたいが、放送中の私の発言で
アメリカ人をひとくくりにして判断するのは止めていただきたい。
私は今のアメリカで起こっている問題、矛盾について言及することが多いが、
それはアメリカという移民で成り立ったある種の実験国家が
失敗することがあってはならないと信じているからである。

撮影をさせてくれた家のご主人はスコットランドからの移民であった。
この場所を選んで住んでいるのは
あまりにも自分の育ったスコットランドの景色に似ていたからだ、
と話してくれた。

映画「ボウリング・フォー・コロンバイン」でも紹介されていたが、
カナダでは鍵をかける家はほとんどない、
泥棒が入るということを考えたこともないらしい。
銃はみんな持っているが、発砲事件は極めて少ないという。
人を受け入れる余裕のある場所は平和ということなのかもしれない。

大倉眞一郎

* 個人的連絡です。
    森君この原稿を読んだら番組宛にアドレスを送ってください。


BOOK BAR staff| 15:06 | カテゴリー:

2008年10月21日

善悪の彼岸

前回の放送では奇しくも杏ちゃん、私も
「善とは何か、悪とは何か」を問われるような作品を
選んでしまい、話している側も重くて疲れてしまった。

これは人間が地球に暮らし始めて以来、
自分たちに問い続け、同時にいまだに回答を得られていない問題、
議論である。
またそれをめぐり延々と宗教、哲学、小説、
更には科学も総動員して、答えを見つけようとしたり、
答えがないことを証明しようとしたり、
ただ、絶望に落ちていったり、と
まさに人間というのは面倒な生き物としか言いようがない。
要は人は何のために生きているのだろうと何者かに答えて欲しいのだろうが、
この世界そんなに簡単ではない。

私も答えなんかないだろうという、ぞわぞわした不安と割り切りを持ちながらも、
旅先で向かう先はどうしても宗教施設、聖地になってしまい、
自分を笑ってしまうこともある。

人は何を祈って、お願いして、最終的にどうして欲しいのだろうと、
どの場所でも祈る人たちを延々眺めている。
眺めていても分かるわけはなく、
分かろうとするならば自分も同じ宗教に入信して、
祈る以外方法はないのだということには気が付いた。
しかし、それはないので、いつも同じことの繰り返しである。

私は私で納得できる生き方を見つけるより他に方法はない。


インドのヒンズー教の聖地リシュケシはヨーガ道場が集中している場所で、
最近はあまりにも世界中からヨーガ修行に訪れる人が増えていて、
バブル状況に近いものさえ見受けられるらしい。
ヨーガ御殿と呼ばれるような家もあると聞いた。

リシュケシでヨーガを修行する気などさらさらなかった私は
毎日朝から晩までぶらぶらである。
早朝、女子学生たちが華やかなサリー姿で通学しているのが
あまりにもフォトジェニックだったので、
変態に見られないよう気を使いながらストーカーのようにあとを追った。
あくまでも写真を撮りたかっただけなので、誤解のないよう。

すると道に沿って立ててある壁に英語の文字が目に入ったのだが、
女子学生を追うのに忙しかったし、どうせまたヨーガ道場の案内か、
マッサージの呼び込みだと思い、一度通り過ぎたのだが、
妙に気になり、戻って読み直してみた。

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ヨーガの案内でもマッサージの広告でもなくそれは妙なメッセージであった。
時々日本でも変な食堂に入ったりすると
人生訓みたいなのがやたら貼られまくっていたりするが、
それに少し似ている。
正確な英語ではないが言わんとするところは分かる。

写真では読みにくいので、書き出してみよう。

ONCE UPON A TIME

AMERICAN PEOPLE ASKED ME

“MR AJAY WHICH DICTION AT TOP THESE 3 WORDS

ARE LOVE MONEY HATE

“AJAY” TOLD “HATE”

AMERICAN ASKED ME “WHY, MR AJAY”

I TOLD FRANKLY “IT’S UNDER MY HEART!”

私なりに訳してみると


ある時アメリカ人が私に聞いた。
「アジャイさん、どの言葉が一番重要でしょう.
愛 △金 Aしみ」
アジャイは憎しみだと答えた。
アメリカ人は「何故ですか。アジャイさん」と問うた。
私は率直に答えた。
「それは常に私の心の底にあるからです」

少しだけ私の解釈を加えてしまったが、そんなに違ってはいないだろう。

びっくりするようなことが書いてあったわけでもないので、
フンフンとうなずき、一枚写真を撮って、女子学生を追いかけたのだが、
その変な英語の言葉が心に残ってしまい、今でも引きずっている。

リシュケシという聖地で偽悪的とも思えるこの言葉。
もともとヒンドゥの3大神はブラフマ、シヴァ、ヴィシュヌであるが、
一応役割が振ってある。
ブラフマは宇宙の創造主、シヴァは破壊と同時に創造も同時に行い、
ヴィシュヌは守護的な役割を果たす。
ヒンドゥの三大神の役割には実は愛は登場しない。
また、さまざまな神が登場するが、どえらく残酷なことをするかと思えば
同時に慈悲深い神に変身を遂げる。
ブラフマ、シヴァ、ヴィシュヌも三位一体だとされたりもする。
ヒンドゥは私の解釈ではすべてを飲み込んでしまう。

さまざまな問題、矛盾を抱える宗教であるが、
人間はなんだかそんな感じなのかなあ、と中途半端な納得感がある。

こんなことを思いながら、私はこれからも迷い続けるのであろう。

大倉眞一郎

BOOK BAR staff| 07:33 | カテゴリー:

2008年10月06日

ムアンシンのターラオ

ラオスのムアンシンにいたのは今年の3月中旬、
この番組「ブックバー」が始まる2週間くらい前。
単純に中国国境に一番近い町に行ってみたくて、
脳みそがくずれるか、と思うほど揺れる
トラックを改造したバスのようなものでたどり着いた。
何もない。
何もないが、ぶらぶら歩いて、マーケットに毎朝出かけて、
屋台で麺食って、寝て、本読んで、写真撮っているのが楽しいんだから、
文句があるわけがない。

しかし、ラオスの山の中でこんな生活を送っていて
本当に帰っていきなりJ−WAVEの番組なんてできるのかしらと、
わりと本気で心配していたりした。
なので、できるだけ誰もいない道では
「この一本道、きれいに舗装されていますね。中国国境につながっているわけですね」
「ここはラオスナンバーより雲南省のナンバーをつけた車のほうが多いですな」
「あそこにいるのは...牛ですね。珍しくないですね」
「ラオス人も暑いんでしょうね。歩いているのは私だけですね」
閉じてしまっている声帯を開けるため大声で一人レポートをしていた。

一人旅だとどうしても最低限の会話しかしない。声を出すことがない。
すると、本当にかすれた声しか出なくなるし、
いざ話すとなった時に文章として成り立つのかも不安であった。
しかも、ここに来るまでの1週間くらい日本と全く連絡を取っていない。
避けていたわけではなくて、ラオスは奥まで入り込むとネットカフェがないのである。
ラオスの空に向かっての一本道レポートは
無駄になるのではないかという逆の不安もあった。

そんなこんなでムアンシンをゴロゴロしていたのだが、
ある日、昼過ぎから騒いでる集団がものすごく気になった。
どうも音楽を大音量で流しているようで、
大声のシャウトも隙間で聞こえたりするのだが、
スピーカーの音が割れていて要領を得ない。
ラオスの田舎の暴走族かと思ったが、
そんなメンチを切りそうなの見たことないし、どうしたことか。
そういう場合、私は即駆けつける派である。

駆けつけてみた。
大きなハートのマークをあしらったゲートができている。
一応、内と外を分けるロープが張られた内側のハレの場では
若い娘から熟女までが大音量で流れるラオス歌謡に合わせて
盆踊りからねじが5、6本抜けたようなフニャフニャダンス?を踊っている。
ダンスといっていいのかどうか。
ダンスといえばチークダンスしか経験のない私には判断がつかないが、
ともあれ両手を上下に独特のスロースピードで動かし、
輪になって回っているからダンスだと思う。
そこに唐突にDJがラオス語で割って入ってギャーギャーわめく、と聞こえる。
いったい何がどうなっているんだか。
熟女の大半は大変肉付きがよく、真っ赤になった顔で親父を引っ張り出して、
これまた大音量で「ぎゃははははははは」と笑う。
きっと楽しいのであろう。

と眺めていれば、だれでも「ああ結婚式なのだ」とわかる。
ちゃんと花嫁も花婿も見つけた。
あまりの惨状に恐れをなした様子ではあるが、
引くことは許されないのであろう。
大酔っ払いの皆さんに飲み物をついで回っている。
顔には「一体いつまで...」と書いてある。

あんまりロープにくっついて熱心に写真を撮っていたせいであろう。
いきなり腕をつかまれた。
ギョッとして腕を引こうとしたが、
さすがラオスの山の中、すごく力が強い。
なぜかその日は私はのりが悪くて、へらへら笑いを浮かべながら
「私はお昼からお酒はいただかないんですよ。情けないですねえ」
と後ずさってしまった。
場の雰囲気なんだろう。ここではないような気がしたのだ。

その日は何件か結婚式の宴会が重なっており、
狭い町であるからかなりの人は掛け持ちで、
そこいらじゅう真っ赤な顔でいい調子になっている男女がふらふらしている。
いい町だ。

しかし、結婚式が多すぎる。3月に特別な意味があるのか、よーく考えてみた。
あった。
ラオス北部でも4月から雨季に入る。
南部ほどではないにしろ雨量が跳ね上がる。
道は国境への一本道以外は舗装されていないので、
雨が降るとどろどろの状態に変わる。
結婚式は皆さんおめかししてくるので、とても困る。
で、4月前に幸せになっとけということであろう。
幸せを分けてもらいたかった。

翌日、昼過ぎから普段の大騒ぎとはレベルの違う
ウッドストック並みの一大野外イベントが始まった。
本当にヘビメタまで呼んできたかというほど、
うるさいという意味でも、うずうずするという意味でも
我慢ならない。
3時過ぎまでその騒ぎをBGMに「魔の山」を読んでいたのだが、
読み終わったので、じっとしている意味がない。
3分歩いたら会場に着いた。
うるさいわけである。

ちょいちょい写真を撮っていたら、すぐにつかまった。
今回は最初から覚悟していたところがあって、
誘われたら調子に乗るつもりであった。
「そうですか〜、そんなにおっしゃるんなら」
引っ張られるままテーブルについて行った。
座るといきなり小さなグラスを渡された。
注がれたのは透明の酒。
東南アジアではレストランには置いていないが、
要は焼酎の一種で、何かイベントがあると必ずでてくる。
杏ちゃんから借りた「タイ、ラオス、ベトナム酒紀行」にもたびたび登場する。
このお酒、めでたい席ではアジア共通の習慣でもって一気に飲み干す。
量はたいしたことないのだが、重ねるとだんだん辛くなってくる。

一通りテーブルの方々と挨拶代わりにギュンギュン呑んだら、
様子がわかってきた。
私はどうもこの結婚式で一番の上席に座らされているようなのである。
まいったね。こんな若輩者が、と思ったら一人を除いてはほとんど私と同年代。
皆さん私の微笑み返しの術にはまったのか大歓迎してくれる。
肩組まれて酒を注がれ、誰の皿、料理ということ関係なく
あれ食えこれ食えで大忙しである。
英語で通じる単語は3つくらいなのだが、
酔っ払えばテレパシーが使えるので超リラックス状態。
そこで改めて紹介されたのが村の「ターラオ」である。

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「ターラオ」って「大老」?
どうも一番尊敬されている人という意味に近いようである。
それだとやっぱり中国語の「大老」ではないか。
私はさびついた中国語を試してみた。
「ウォーウーシーイースイ、ニンナ」
おりょ、って顔になって
「リューシースー」
これでもう大親友である。
大老は64歳。一回り以上年上だが、それから私の手を握って離さない。
私も礼を尽くしながらも中国系ラオス人の大老とウォーウォー吠えながら盛り上がった。

突然大老は席を立ったかと思うとどこかに行ってしまった。
しばらくして帰ってくると大きなビニール袋を私に渡す。
何だとのぞくとビールが4本入っている。
ビールは高いのである程度飲ませると
主催者は飲み物を焼酎だけに変えてしまう。
大老は気を使って私のためにビールをわざわざ買ってきてくれたのである。
まわりのラオス人もこれは異常事態と驚いている。
もう申し訳なくてどうしようなのだが、どうしていいかわからない。
さらに盛り上がることでお返しをした。

その64歳の顔は64歳の威厳と優しさをたたえており、
長旅の中でも忘れられないものになった。
いい顔は自分だけでなく他の人の宝物にもなるのである。
大老にアメリカじゃ男も女もしわを引っ張る手術が人気らしいよ、
といってもきっと何のことだか理解できなかったであろう。

前回紹介した「ビューティー・ジャンキー」を読みながら、
いつもこの大老の顔を思い出していた。

大倉眞一郎


BOOK BAR staff| 13:55 | カテゴリー:

2008年09月30日

メコンデルタ


前回紹介した開高健の「日本三文オペラ」は
アパッチ族についての小説であったが、
通常、開高健といえば「輝ける闇」が代表作とされており、
それに加え「夏の闇」「花終わる闇」(未完)三冊で「闇三部作」などと呼ばれている。
いずれもベトナム戦争に関連したものである。

開高健はこのほかにもベトナム戦争に呪われたかのように
数多くベトナム戦争を題材にとった作品を残している。
「輝ける闇」では南ベトナム政府軍の従軍記者として戦闘取材を行った際、
生きて戻れたのが10%以下という激しい銃撃戦に巻き込まれた時のことを
小説にしている。
それ以来私が認識している限りでも、
同じ銃撃戦について小説の形、ルポルタージュの形をとって、
ほとんど同様の描写で二作品を発表している。
どの作品も息ができなくなるほど、緊迫感、恐怖、諦念に満ちたものである。
また、他の小説で直接ベトナム戦争に関する描写がなくとも、
その大きな衝撃の痕跡を残したものがほとんどである。
どの作品も重量感のある文体、経験に裏打ちされたリアリティにあふれ、
私の人生の愛読書である。

その後、ベトナム戦争という強烈な体験から抜け出すのに
開高健は積極的に外に出始め、
「オーパ!」に代表されるエピキュリアン的ルポルタージュを発表し続けた。
胸躍り、外の世界へいざなうものであった。
しかし、それは同時に私には大変残念なことであった。

私は開高健がベトナム従軍する以前に書いたような
骨の太い堂々たる小説を心待ちにしていたのだが、
それはかなわなかった。

「日本三文オペラ」(1959年発表)、「ロビンソンの末裔」(1960年発表)
こんな小説がもっと読みたかった。

今ここでいうベトナム戦争とは南北ベトナム政府軍による戦争に
アメリカが介入したもののことである。
この戦争は1960年に始まり、1975年まで続いている。

1887年、フランスに植民地化されて以来、1940年には日本軍による占領。
日本軍が負けて出て行ったかと思えばまたフランスが占領に来て、
1946年から1954年まで独立戦争(第一次インドシナ戦争)。
南北に引き裂かれた後にまた戦争。
ベトナムはずっと戦火の中で苦しみぬいた国である。
そんな歴史の重みも開高健は背負ってしまったのかもしれない。

ベトナム戦争は南北ベトナムの戦争であったのだから、
北が北ベトナム軍の本拠地と思いがちだが、
サイゴン(現ホーチオミン)より南のメコン川が海に流れ込むデルタ地帯、
(数え切れないほどメコン川が枝分かれしている豊穣の地である)
は南ベトナム解放戦線(ベトコン)の拠点のひとつで、
激しい戦闘も繰り広げられていた。


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10年前、ホーチミンからバスでメコンデルタの最大級の町、カントーに行った。
最大級といっても限度があり、町自体は1時間で回れてしまう。
朝早くからボートを借りて入り組んだメコン川の支流を走らせた。
炎天下、延々と10時間近く寝たり、どす黒くなるまで日焼けしたり、
写真を撮ったりして過ごした。
ボートの操作をするあんちゃんがベトナム語以外一切受け付けてくれなかったので、
逆に気持ちも割り切れて気の向くままの半日であった。

岸の子供たちは何をくれでもなく、外人である私を見つけると歓声を上げて
後を追ってきた。照れくさかった。
ほんの二日間だけの滞在だったのにいまだ鮮明にこの町のことを覚えている。

大倉眞一郎

BOOK BAR staff| 15:28 | カテゴリー:

2008年09月22日

チャイナ・チャイナ

前回紹介した「メディア買収の野望」ではイギリスも舞台のひとつとなる。
著者のジェフリー・アーチャーは、
イギリスの超高級レストランから監獄の臭い飯まで知り尽くしている生粋のイギリス人である。
私は彼と直接話したことはないが、
彼の日本での代理人をやっていた人間はよく知っている。
勤めていた会社のリテーナーをしばらくやってもらったことがあるからである。
ああいう階級社会ではどうしてもそういう人間のコネが必要になることがある。

そのピーター(仮名)の詳細な出自は知らないが、
彼が話すのはいわゆるオックスブリッジ・イングリッシュと呼ばれる、
いかにもインテリ然とした発音が特徴である英語であった。

普段出くわすことは少ないが、
上流階級出身をうかがわせるイギリス英語の特徴にもうひとつかわったものがある。
「吃音」である。
わざとどもるのか、自然と身につくのかわからないが、
話始めに必ずつっかかる。
“Shin, I, I, I want you to understand the current situation.”
てな感じである。
あまり知られていない不思議な習慣である。
まねをしていただけかもしれないが、ピーターはそんな具合に話していた。
彼は打ち合わせというと必ずザ・ドチェスターという
アラブの富豪が持つ高級ホテルを指定してきて、
「そんなもん売れるわけないだろうが」という千三話を熱心に説明していた。
基本的におかしな人間であった。

さて、本題。
本日はあのジェフリー・アーチャーでも絶対に行ったことがないと100%自信を持って言い切れる
私自慢の行きつけレストランを紹介しよう。

中華だ。
ロンドンは中華料理が充実している。
香港からの中国人が多いせいである。
接遇で高級中華はすべて食べつくした。
が、ひっくり返るほどの値段に見合う料理を味わったことがない。
やたら頻繁に酒をついでくれたりするサービスは充実しているのだが、
私の舌には全然合わない。
たくさんお金を使いたい人は好きなだけフカヒレでもあわびでも食べればよろしいと思うが、
そうでない方は私の指示に従うことを強くお勧めする。


ひとつは地下鉄クィーンズウェイ駅の斜向かいにある「マンダリン・キッチン」。
ここのロブスター・ヌードルという焼きそばは絶品である。
食わずに死ぬな。
ただ、現在のレートだとやはり夕食で一人8000円から1万円くらいにはなってしまう。
毎日通う店ではない。

本命が「チャイナ・チャイナ」である。
ピカデリーサーカスからシャフツベリ・アベニューに沿って
3分くらい歩くと右側がチャイナ・タウンになっている。
小さな中華レストラン街である。
そのメイン通り、ジェラード・ストリートの東端にある小さな大衆食堂が私の一押しである。
全面ガラス張りでいつも不機嫌そうな店員の顔、
態度が丸見えなので躊躇する人もいるだろうが、
委細かまわず偉そうに「一人だ」と入店するなり宣言するとよろしかろう。
(平日から昼飯を一人でよく食いに来た)
店員はよほど親しい同じ中国人以外には笑顔は見せないので、
どんなに無愛想だろうが気にすることはない。
すぐに「そこ座れ」と空いている席を指差すか、
「2階へ行け」「3階へ行け」と命令する。
私は1階の端にある一人がけの席が好きなのだが、
店が開くなり飛び込まないとまず占領されている。


店内は客は静かなのだが、店員同士が常に怒鳴りあっている。
どんな喧嘩か、と興味を持つが、やがて普段の会話であることに気が付く。
広東語はいつも喧嘩腰に聞こえる。

オーダーを迷っているとしばらく放って置かれるので、
できれば外に張り出してある大きなメニューで
食べたいものを決めてから、席に着くなり「あれとこれ」と注文しよう。
「なかなか、やるな」という目で見てくれる。

小さい割にはメニューが充実しているが、
必ず食べていただかねばならないのは「ワンタンミエン」である。
そのまま発音すれば通じる。

香港で麺を頼むと必ず細くて黄色く、
初めての人には輪ゴムのように感じられるのが出てくるが、
ロンドンも同じである。広東料理の麺はみんなそうである。
中国ではその他の場所は全く違う麺を出すので間違いのないように。

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ワンタンミエンにはやたらでかいワンタンが5つくらい乗っかっている。
店ごとに味が違う。
ここのが一番。味、歯ごたえ、茹で具合三拍子そろっている。
スープ、麺との相性も抜群である。
私はあまりにもうまいので大体3分くらいで完食してしまう。
であるから、もう一品頼む。
「スクランブルド・エッグ・アンド・シュリンプス・ライス」
なんだ?と思われるであろうが、
でかいプリプリのエビがあん状になったどろどろの卵炒めに混じって出てくる。
部下であった日本人の男の子が
「大倉さん好きですね、それ。ぼくら鼻水ご飯って呼んでるんですよ」
とアホなことを言っていたが、鼻水は入っていないと推測されるので
気にしないようにしよう。
あと、「豚肉ザーサイ細切り炒めぶっ掛けご飯」
「カレーライス」なんかもお勧めである。

絶対に後悔させない。
まずかったらいつか金は返す。
ロンドンでここに行かず、
ナショナル・ギャラリーやテイト・ミュージアムをまわる奴は、
人生における重要な機会損失をしていると覚悟していただきたい。

ひとつ忘れていた。
「チリ・オイル」を頼むとラー油を持ってきてくれるが、
一般の方には口から火を噴くくらい辛く感じられるはずである。
充分注意して少しずつ試してみよう。


大倉眞一郎


BOOK BAR staff| 10:17 | カテゴリー:

2008年09月17日

カンヌ

放送で紹介したかつての「オクシタニア」には当然カンヌも含まれている。
南フランスがオクシタニアであったと考えてもらって間違ってはいないだろう。

イメージだけからすれば、私ほどカンヌに似合わない人間はいないであろうが、
実は私はここにはかなり詳しい。
へへん、と威張る理由はまったくないが、
ちょっと違う一面をお知りになってはいかがであろう。

もしかしたら杏ちゃんのお父さんも映画祭のメイン会場
「パレー・ドゥ・フェスティヴァル」前の赤じゅうたんを踏んだことがあったかしら。
私、実は何度もあそこにはお邪魔してるんざんすよ。

私の場合は広告祭なので業界の人間ならば金さえ払えば、
どんなに無名であれ入場できるし、タキシードを着て表彰式にも出席できたのであるが。

カンヌはとにかく映画祭のイメージが強く、
やたらセレブリティが集まって、
キューブリックの「アイズ・ワイド・シャット」のような淫靡な催しが、
そこかしこで毎夜営まれていると思っている方々もいるかもしれないが、
少なくとも広告祭ではそんなことは聞いたことがない。
知り合いの広告業界紙の方は昼は取材、夜執筆、送稿という毎日で
毎回げっそりして帰ってくる。

ともあれ、カンヌは何か催し物があるときは全世界から人が集まり、
メインの通りに面したとんでもない宿泊料のホテルまで満員御礼となる。
ここのビーチはある意味貧乏臭い。
ビーチは狭いくせに前に立ち並ぶ高級ホテルがプライベートビーチにしており、
一般の人間は立ち入ることも許してもらえない。
昼間はすべてのパラソルが全開となるので道沿いからは砂すら見ることができない。
楽しいのだろうか。

食い物はお世辞にもうまいとはいえない。
行き場所のない観光客がうまくてもまずくても入るから手抜きをしていやがる。
特に高級ホテル近くの店は全滅と思ってよい。
ホテル群から離れれば離れるほど、ましな店が多くなる。
パレー・ドゥ・フェスティヴァルを越して、
しばらく行くと右側に丘へ向かう小さな路地がある。
ここも観光客が集まるレストラン街であるが、
坂に沿って可愛いお店が一杯なのよ。
ムール貝を頼むとバケツのような容器に食いきれないほど出してくれる。
カレー味のものもあるが、逆にすぐに飽きるので、
私は普通のニンニク白ワイン味をお勧めする。
そんなものにも飽きてくるとお金持ちの代理店の方々は山を越えて、
高級フランス料理屋に出向くようであるが、
私はフランス料理が基本的にだめなので全然羨ましくない。

で、何が言いたかったかというと、高級ホテル、ブティックの並ぶカンヌは嘘カンヌである。
裏通りに入れば田舎のフランスを見ることができる。
常連の通う立ち飲みのバーもあるし、
私にはとても美しく見える入り組んだ狭い路地が心落ち着かせてくれる。
プロヴァンスの片鱗を見ることができる。

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カンヌにはほとんど仕事だが4、5回行った。
すごーく面白かったことはほとんどない。

ちょっと面白かったことは私の本に書いたので参考にしてください。
漂漂(ふわふわ)」木楽舎
意に反して、結局はこれが目的の原稿になってしまった。

ごめんなさい。

大倉眞一郎

BOOK BAR staff| 08:14 | カテゴリー:

2008年09月15日

NYに来ています。

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NYの街は区画整理されているから、道がまっすぐ。
道がまっすぐだから、空もまっすぐ。
見上げると空に一筋の河が流れているような錯覚に囚われます。
どういう訳か、NYの空は高い。
この感覚はビルの高さから来るのでしょうか。


そんなNYの空を、先日巨大ハリケーン「ハンナ」が襲来。
これでもか、これでもか、と雷様に言われているように、
叩きつけてくる雨粒。

バッドタイミングが重なって傘が手に入らず、
ええい、タクシーだ!と道端に立ってタクシーを拾おうとしても、
べちょべちょの濡れネズミを乗せたいと思うタクシーはあまりおらず、
乗車拒否の連続。濡れネズミはズブ濡れネズミに進化し、
益々乗車拒否に遭う、悪循環。
日中曇っていたからと、珍しく帽子を被っていない所為で、
ビショビショ度は目に見えて判る。
悪い事は重なるもんです。

後でニュースを見ると、物凄い被害。
こちらの台風(大西洋になるとハリケーンになるそうで)は規模が違います・・・
べちょべちょの濡れネズミになっても、無事なだけラッキーでした。

東京も雷雨が続いているようで、
一体全体気象はどうなってしまったのでしょう?

ちなみに、外国では傘を差す人が少ない様に感じます。
皆、雨が降ってもギリギリまで傘を差さず。
晴れのときに日傘なんか差した日にゃ「何やってんだ?!」と訝られる程。
そして何故か帽子も被らず。サングラス率は多いけれど・・・謎です。

にほんは単に、梅雨で雨が多く傘との馴染みが深いからなのでしょうか?
日焼けと冷房対策で長袖、帽子の私は常に突っ込みの対象の的。


「ヘイ、何でそんなに寒そうなんだい!」

寒いんです。

NYで一人ボーッとしながら歩いている、厚着で帽子のアジア人が居たら、
それは私です。


BOOK BAR staff| 02:24 | カテゴリー:

2008年09月09日

月を愛でるなかれ

「今日は月がきれいだねえ」と女性に語りかけることが、
その女性への恋心を伝えている、てなことがかつての日本人のメンタリティ、
ゆかしさであったと聞かされてきて、そんなもんか、
と思ってきたが、改めて考えてみると、
ホンマかいなという疑問で頭が一杯になる。

「このラーメンはおいしいねえ」で恋心は伝わらない、
ということくらいわかるが、月を誉めてもねえ。

なぜか室町時代が舞台の「日と月と刀」に関連した話にしようとするのだが、
どうしてもインドに流れてしまう。お許しを。

オールドデリーのチャンドニー・チョークという通りは、
訳せば「月光大通り」である。
オールドデリーの真ん中を走るムガール帝国時代の都大路で、
かつては運河も走る威厳のある通りだったようだが、
今は実にインドらしい混沌とした世界が現出している。

なぜ「月光」かといえば、かつて走っていた運河に月の光が反射していたからだそうだ。
どのくらいきれいだったかは今は誰にもわからない。

話をやはりバナーラスに戻そう。
夕方になると巡礼にやってきた人々、観光客はガンジス河に船を浮かべる。
毎晩いくつかのガートで行われる大きなプージャ(礼拝)を見るのだ。
あくまでもガンジス河に対するプージャなので、
ガートからでは正面がどんな感じになっているかわからないからである。

ほとんどの小さなボートはプージャが終われば岸に戻ってくるが、
いくつかの大きな船は巡礼のおばさんたちを鈴なりに乗せて、
遅くまでドンちゃん騒ぎを繰り広げる。
ただ、歌っているだけなのだが、
あんまり楽しそうなので大酒食らっているのかと疑ってしまうこともある。
もちろん呑んでいるはずがない。
月があってもなくても同じなのだろうが、
やはり月の気配は人を狂わせるのかもしれない。

ディオニュソス的祭礼は夜に行われることが多いが、
あれもやはり月のなせる技であろうか。

「日と月と刀」の中で行脚僧の言った
「月を愛でるでない」
という意味はこういうことなのか。

やはり天野山金剛寺の「日月山水図屏風」を見に行かねばならぬ。


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私は30年前、夕方のガンジス河から小船に乗って、
カーペット屋に拉致されたことがあるが、
それはまたの機会に。


大倉眞一郎

BOOK BAR staff| 04:30 | カテゴリー:

2008年09月08日

日を崇めるなかれ

私は写真を撮るがいい光を狙うとなると朝か夕方になる。
かといって、日の出、日の入りが特に好きなわけでもない。
あくまで光が欲しいのである。
しかし、タイミングを逃すとパーであるから、
旅の間はほとんど日の出前に起きて、宿を出て行き、
日が沈む2時間くらい前から、狙いどころで座り込む。

そんなことをしていると、どこに行ってもちょっといいところには、
住民、旅行者を問わず人が集まってくることがわかる。
ちょっといいところの三強は、
海、河、山の上、である。
日の出の時間は旅行者はあまりいないか。

いずれにせよみんな昇るにしろ、沈むにしろ太陽が大好きである。
これはあまり宗教には関係ないようで、
ヒンドゥもブディストもムスリムもクリスチャンも
幸せそうに眺めている。
そして、私は幸せそうな人たちを写真に撮るのが好きである。

前回紹介した「日と月と刀」では

日を直視するでない

月を愛でるでない

刀を信ずるでない

と行脚僧が主人公に言い残して消えていくのであるが、
本の帯には

日を崇めるなかれ

月を愛でるなかれ

刀を信ずるなかれ

となっている。
ややニュアンスが異なるが、一応同義としておこう。

この言葉は物語すべての伏線となるのだが、
文字通り受け取ると、すべての否定と聞こえてしまう。
この三行が数ヶ月間、私の頭の中で鳴り響いている。

何度か読みなおして胸のつかえが取れるのか、
更に混乱をきたすのかわからないが、
自分で納得いくまで読んで、考えてみよう。

バラーナスでは夜明け前から大きなガートには人が押し寄せ、
太陽が昇ると押し合いへし合いの混雑となる。
ガンガで身体を清め、太陽に手を合わせる。
彼らにとっては寸分も疑う余地のない行為である。

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祈りは私にはどれだけ本を読んでも、
どんな宗教施設、寺、神社、教会、道観、モスクに行っても、
理解できたとはいえないものであるが、
祈る人の心を乱すようなことは絶対にない。
旅する人間が守る最低のマナーであろう。

最後に話がずれるが、
「ガンジス河でバタフライ」という本が一時話題になり、ドラマ化もされたが、
ガンジス河で泳ぐことは決して誉められた行動ではない。
ガンジス川はヒンドゥにとっては河であると同時に神そのものでもある。
自分が変わりたい時には何をやっても許されるというわけではない。
誰にも迷惑をかけていない、という一見もっともらしい理屈は、
私には
「神様の前ですごく臭い屁をこきましたが、
全部一人で吸い込みましたから問題ありません」
と聞こえる。

実際あの本を読んでか、日本人何人かがガンジス河の中洲まで泳いできた、
と自慢げに話しているのを聞いた。
屁をこいたのを自慢しているように聞こえた。

ガンジス川の急流に流されて死んだ日本人の若者もいる。
旅をする人間はすべてのことから自由である、というのは傲慢極まりない。
もちろん自戒をこめてこの文章を書いている。

大倉眞一郎

BOOK BAR staff| 04:23 | カテゴリー:

2008年08月27日

北京以外

オリンピックも終わってしまった。

あまり興味ないといっていたのに、結構見入ってしまった。
なんだか少し恥ずかしい。

それにしてもやはりメダルを取れる可能性のある
日本選手が出場する競技以外は放送しないね。

視聴率というのは今の状況では、
ますます神様のようなものになっているのだろうが、
これが本当のオリンピックの楽しみ方なのだろうか。

また、ある程度まで日本選手頑張れという気持ちは理解できるが、
「日本の期待を一身に担った」○○選手のほうはどうなんだろう。

「ずっとオリンピック目指して頑張ってきました」
というのはよくわかるのだが、
国のために頑張ってきたのではないんじゃなかろうか。

そのあたりアスリートとは程遠い私には理解できない領域なのかもしれないが、
万が一自分に「君に日本人全員が期待している」といわれたら困るなあ。

あくまで「私があって国がある」派の私だから、
「愛国心はないのか」「じゃ、日本出て行け」といわれても平気である。

私なりの日本の愛し方があるし、
私なりにインドやネパールやイギリスを愛している。

マスコミは中国の露骨な自国民に対する応援に顔をしかめたりするが、
日本のテレビスタジオでやっていることも大して違わないのではないか。

さて、中国では北京以外はあまり盛り上がっていない、
という報道がオリンピック前に流れたことがあったが、
多分始まってしまえば、それなりに盛り上がったことであろう。

私は、仕事で上海によく出張していたのだが、
上海の人間の北京に対する対抗意識は強烈なものがある。

ついこの間までは中央政府は上海閥が牛耳っていたのだが、
今では上海人脈の力はそがれた気配である。

北京オリンピックの後は上海万博である。
彼らにはこちらのほうが重大事かもしれない。

上海は楽しい。

私はオシャレでないが、
日本にもないようなオシャレなバーに連れて行かれたりすると
素直に感動したりしていた。

たまに健全なカラオケバー
(健全でないところもあるということかも)に行っていたが、
美しい女性がお相手をしてくれる。
お相手といっても特にすることはない。
水割りを作ってくれて、しきりにカラオケを歌えと強要するくらいである。

「日本語、少し、大丈夫」といっていたのにさっぱりだめだから、
コミュニケーションを他にとりようがないのである。

03-0806.jpg

私は少し中国語ができたので、
たいした話はしないがそれなりに楽しく過ごせた。

面白かったのは肩を出したユニフォームなのだが、
時々部屋の天井に貼り付けてある赤いランプが、
点滅し、サイレンが鳴る。

「公安だ」というので、逃げなきゃと粟を食うのだが、
のんびり肩が隠れる小さな上着を着けると、もう落ち着いたものである。

肩の露出は禁止らしい。いろいろある。

上海出身の女性も美人だと思うのだが、
安徽省の女性は中国一だといわれたことがある。

安徽省行ってみるか。

大倉眞一郎

BOOK BAR staff| 01:15 | カテゴリー:

2008年08月17日

文化大革命

前回紹介した「大地の子」では、
2000万人もの餓死者を出したといわれる「大躍進政策」、
いまだに総括が終わっているとは言いがたい「文化大革命」に
主人公は翻弄される。


私は文化大革命のころは中学生から高校生の時期にあたり、
何も知らないまま、毛沢東に憧れ人民帽をかぶり、
毛沢東語録をアルバイト先で毎日職場の大人に混じって、
唱和していた。

下関は超保守的な土地柄でありながら、
高杉晋作に代表されるような極端な人間が出がちなところで、
当時日本で唯一の中国共産党寄りの党派、
日本共産党左派の拠点であった。
おかしな町である。

大学に入ってからも文革の余波は残っており、
毛沢東崇拝は私から抜け切れておらず、
「東方紅」のような毛沢東賛歌や、
その他にも文革をたたえる歌を酒を呑むと歌っていた。

第二外国語の中国語はかなり上達して、教師からは
「君は中国にいたのかね」などとトンチンカンなことを聞かれたりもした。
実際に中国で何が起こっていたのかも知らず、
いい気なものである。

文革は社会主義への継続革命、
走資派と呼ばれる人間の打倒運動ということになっていたが、
結局は毛沢東が大躍進政策によって失いつつあった権力を維持するための、
メチャクチャな権力闘争であったことはほぼ歴史的事実と認められつつある。

この文革で亡くなった人の数はよくわからない。
当時の出来事を扱った中国映画も最近は数多く作られるようになったが、
詳細は明らかにされていない。

知識人への弾圧は熾烈を極め、
自殺者が多く出たことも文革の特徴である。
その弾圧の中心にいたのは
いわずと知れた何もわかっていない10代の紅衛兵で、
とにかく何もかもぶち壊していった。
いったい日本のマスコミ・知識人は何を見ていたのだろう。


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写真は上海の表通りから少し入ればどこにでもある庶民のアパートで、
恐らく文革時代にもこんな路地にまで紅衛兵があふれかえり、
悲惨な光景が繰り返されていたのだろう。
ただ、撮影したのが5年くらい前で、
当時すべて新しいビルに立て替える方針だと聞いていたので
すでに取り壊されているかもしれない。
高いビルから見下ろすと町並みの美しさに息を呑んだものだが、
耐震性の問題もあるから、
やめてくれというのも余計なお世話なのかもしれない。

私が歌っていた「東方紅」を上海のカラオケ屋で歌おうとしても、
まず、曲が入ってなかったり、
一緒に歌ってくれることになっているお嬢さん方が、
全く知らなかったり、知っていたとしてもイヤーな顔をされたりしたものである。

ちなみに、で書く話ではないのだが、やはり5年くらい前、
ある企業の中国進出の手伝いをした時に、
中国人のマーケティング専門家に
「文革で教育を受けていない40代以上の人間は
 お金も教養もありませんから、ターゲットにはなりません」
と断言された時はさすがに落ち込んだ。

天安門広場にいまだ掲げられている毛沢東の肖像画を降ろせないところに
中国の苦悩が象徴的にあらわされているように思われてならない。


当時のことをもっと知りたい方には、
わたしが読んだものの中では以下の本が参考になると思います。

ワイルド・スワン」ユン・チアン

マオ 誰も知らなかった毛沢東」ユン・チアン/ジョン・ハリディ

周恩来秘録」高文謙


大倉眞一郎


BOOK BAR staff| 13:51 | カテゴリー:

2008年08月13日

帰省

13日にもなると毎年東京はガラガラになり、
電車はすくし、飲食店は軒並み店を閉めるので、
去年まではずいぶん健康になっていたものである。
今年は皆さんどうされるのでしょう。

そういえば試写は盆の週はやめというところが多かったのだが、
今年はやるところがあるのは、どんな心境の変化であろうか。
ガソリン?

実は私は7月下旬に福岡で用事があって、
それに合わせて数日下関に帰っていたので、
お盆は東京です。

「下関では魚がおいしいでしょう」と言われるのが普通で、
実際その通りなので「東京の魚なんて、食えませんよ」
と答えていたのだが、ちょっとそれも飽きた。
実はもっとうまいものがある。

麺である。

あまりというか、全然知られていないのだが、
下関はラーメンがとんこつでありながら、
麺が九州のものと大きく異なるものが多く、
「大倉さん、下関のラーメンはまずくて食べられないねえ」
とあるCMプロダクションのプロデューサーが偉そうに言っていたが、
そいつはアホである。
「のびててグチャグチャしている」と言う。
アホだ。

桂花ラーメンだって、東京に出てきたばかりのころは、
くさい、麺が太すぎる、濃すぎて調子が悪い時には下痢をする、
とさんざんこき下ろされたものだが、桂花ファンは増え続け、
いまでは、東京のとんこつラーメン屋があるのは桂花のおかげだと
断言できるほどの相変わらずの存在感である。

話がずれたが、下関ラーメンもせっかく行った人は心して味わって欲しい。
麺はのびているのではない。
小麦粉の他に普通のラーメンには絶対に入らないあるものが
練りこんであるのである。
じっくり噛みしめて欲しい。
一見べったりした麺の芯にはしっかりとした腰があり、
他の地のとんこつラーメンとは比較にならないくらい
ねっとりとしたスープと相乗効果を生んで、たまらん。
これ以上はよだれが出てきて書けなくなった。

下関の皆さん、いろいろ好みがあると思うが、
私のお勧めは、山の田の「太平楽」、唐戸の「一龍軒」、
新下関駅近くの「満潮」。
機会があって下関を訪れることのある方、絶対行くこと。

ラーメンだけではない。讃岐うどんと対称的な腰のまるでない、
駅のうどん。
昔はこのうどんを食いたいがためだけに
下関駅で降りた人間がいるほどである。
今もうまい。
これからまた下関を離れる人でいつも大賑わいである。

最近下関と合併した菊川町のそうめん。「菊川の糸」。
私は全国のそうめんを取り寄せて食いまくったそうめん専門家でもあるが、
最近はこのそうめんしか食さない。
取り寄せて買ってください。


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写真は実家の近くの戦場ヶ原(かつて陸軍の要塞地で、兵士であふれていた)、
からのもの。私が通った生野(いくの)小学校、その先にはかすかに海も見える。
夏の下関は光がきれいで大好きである。

下関に帰ると大学の時に原語で読まされた魯迅の「故郷」を思いだす。
半分くらいしかわからなかったが、しみじみした小説だった。
同じ思いが交錯したりする。


大倉眞一郎


BOOK BAR staff| 05:15 | カテゴリー:

2008年08月11日

グリーンランド、カンガルスワック

   

前回紹介した「国マニア」の中で
いくつか私も行ったことのある場所が取り上げられているが、
その中でなかなか皆さん出掛ける機会がないだろうと思うのが、
グリーンランド。

イギリスと日本で流すCMのロケで4日くらい滞在した。

普段ロケは担当の人にまかせる派なのだが、
これで行かなきゃ一生行かんだろうと、
やる気満々の社員を社長エゴを丸出しにして押しのけ、
イギリス、アイスランド経由でカンガルスワックという町というか、
村というか、集落というか、
そんなところに小さなチャータージェットで降り立った。
チャーターしたほうが全然安いのよ。

大変小さな空港でやっぱり北極圏はしみじみしてていいわ、
と飛行機を降りて窓の外を眺めていたら、
いきなりクリエイティブディレクターの名前を呼ぶ声あり。

何だ、荷物が消えたかと思ったら、ファックスが来ているという。
ファックス?何で空港にファックスが来てる。
意味がわからないので、放っておいた。

そんなことよりグリーンランドはデンマーク領ではあるが、
自治政府を持っているんだから、
行った証拠にスタンプを押してもらわねば。

入国審査場を探していたら数メートル歩いたところに
いきなりホテルのカウンターがあった。
カウンターの中には妙に唇が赤い男性が二人。
何故かゲイの男性が多い、というか、
ホテルのスタッフはほとんどそのようである。

クリエイティブディレクターにファックスが来ているとまたのたまう。

入国審査なんかなくて空港ほぼイコールホテルなのであった。
テロリストが入国しようとした時はどうするんだろう。
テロの対象物なんてないんだけど。

この町みたいなところで、仕事として成り立っているのは、
ホテル、お土産屋、観測研究所、バー、空港、
くらいなものであとはひたすら何もない。

寒いから外に出る用がない限り家の中ということもあるのだろうが、
人も歩いていない。
家も数えられる程度。

11月のことであったのだが、思ったほど寒くはない。
マイナス18度くらい。

着膨れはしているが何とかなるものである。

人間ほど世界のどこでも生息している生物はいない。
いいことなんだかどうだか。

撮影は凍った湖の上。そうなると風も吹くのでやはり寒い。
写真はその湖。切り立った崖は氷河である。
5年前くらいのことであるから、現在どうなっているかはわからない。
あまりの絶景にうなった。

撮影が終わって撤収にかかると、
まだ薄暗くなったくらいの空であったのだが、
長時間オーロラが出現した。

瞬時に形と色を変えていく。

感動性ではないのだが、
声を失ってただ空を眺めていた。

どこへでも行けるときに行っておかないといかん、ということです。


大倉眞一郎

BOOK BAR staff| 09:00 | カテゴリー:

2008年08月04日

1989年

私は某広告会社で働いていた時、

たまたま1989年に国内担当から海外組に回された。

英語は全く話せないわけではなかったが、

「その英語でやっていけるつもりか?」と

完全なダメ出しをされて、

とりあえずアメリカの大学で勉強をするようにと、

私の性格を知らない会社から超ラッキーな命を受け、

メリーランド大学で「研修」をすることになった。

大体メリーランド州なんていう州があることさえ知らなかった。

ご存知ですか?

ワシントンDCに一部を貸し出している州で、

つまりアメリカの首都から30分も車を走らせれば

もう私がいた町に着く。

町名カレッジパークというあまりにもわかりやすい大学町。

何もない。

でも、大学が持っている立派なゴルフコースが

車で5分の場所にあった。

当時はゴルフをやっていたので、

「研修」が終わると仲間と即ゴルフである。

あれで一応いくつかMBAの単位をくれた。

大学がいい加減だったのか、私たちがいい加減だったのか。

多分両方。


真剣に大学以外はほとんど何もない場所だったので、

よくワシントンDCへ出かけた。

今はどうだかわからないが、そのころは治安が非常に悪く、

ワシントンDC周辺では毎日のように銃撃があって、

よく人も亡くなっていた。

危ないので特に治安の悪い地域では、

子供は空の風呂の中で寝ていると聞いた。

弾を通さないんですね。

ともあれ、ワシントンDCにあるジョージタウンという

オシャレなところでよく飯を食った。

DCではいろいろなデモや集会に出くわした。

さて、ここで1989年という年がどんな年だったか、振り返っておこう。


6月4日・・・・・ 中国・・・・・・・・・ 天安門事件

6月・・・・・・・・ ポーランド ・・・・・自由選挙実施

11月9日 ・・・・ ドイツ ・・・・・・・・ ベルリンの壁崩壊

12月25日 ・・・ ルーマニア・・・・ チャウチェスク大統領、軍事裁判の後即射殺される


まだまだ書ききれないくらいいろんなことが起こっているはずだが、

すぐに思い出せるものだけでもこんな感じである。

要は共産主義国(といわれていた国々)が

次々と崩壊していく序曲の年であった。

その時にアメリカにいたというのは実に妙な偶然だと今思う。

載せている写真は恐らく夏くらいのデモの様子である。

弾圧から逃れてきた東ヨーロッパ諸国の人々、

天安門事件に抗議する中国人留学生が、

プラカードを持って延々と共産主義批判のシュプレキコールを上げていた。

私はすでに共産主義シンパから足を洗い、

資本主義の走狗たる広告代理店で働いていたので、

まあ、ノンポリであった。だもんで、

真剣な顔をしてデモをしている人の写真を撮れたのである。

okuraweb.jpg

そのデモからわずか19年である。

あらゆる国々で社会格差が大きな問題となり、

サブプライム問題が発端となってインチキ金融商品の正体がばれ、

行き場をなくしたマネーが大嵐のように

ある意味で世界を破壊し始めている。

「どうしましょう」と言ったところで、我々が選んでしまったことである。

人間のすることである。間違いは必ずある。

でも、考えましょうね。私にも結論なんかないんで、

だらだらしているように見えても、

実はいろいろ考えることはしていたりします。

大倉眞一郎

BOOK BAR staff| 14:21 | カテゴリー:

2008年07月30日

フジロック その2

呑んだ、呑んだ、今年も呑んだ。

何を飲んだかちょっと思い出してみる。

ビール

赤ワイン

焼酎お湯割り

マルガリータ

シングルモルトのロック

ラム入りのチャイ

ラム入りのチャイ

テキーラショット

テキーラトニック

テキーラショット

テキーラコーク

イェーガートニック

テキーラの赤ワイン割り

ビール

白ワイン

テキーラショット

テキーラショット

テキーラショット

白ワイン

テキーラ水鉄砲

テキーラ水鉄砲

白ワイン


会場滞在13時間。
なんとなく覚えているのはこんな感じ。
特にアルコールに強い体質ではないが、
楽しいとけっこう飲めるもんですね。

それにしてもフジロックの会場はお酒が充実している。
シングルモルトも7〜8種類置いていたし……。

ちなみに今年のベストアクトは、
最終日、Field of Heavenのトリを務めたRODRIGO Y GABRIELA
この2人は本気でヤバイ!!!
99年のPHISHに匹敵するミラクルな瞬間を味わえました。
感謝!


(番組スタッフ JD)


BOOK BAR staff| 14:49 | カテゴリー:

2008年07月29日

フジロック

今年もフジロックに行ってきた。
12回目の開催、ぼくにとっては10回目のフジロック。

いまとなっては全国各地に数多くの夏フェスが存在するが、
フジロックはその草分け的存在。
それだけに思い入れも強い。
今年は最終日の午後3時からというスポット参戦だったけど、
それでも充分過ぎるほど楽しんだ。
到着早々にバケツをひっくり返したような豪雨の洗礼。
フジロックの会場にいることを実感する瞬間だ。

今年もよく呑んだ。
    よく酔った。
    よく食べた。
    よく歩いた。
    よく濡れた。
    よく踊った。
    よく歌った。
    よく叫んだ。
    よく笑った。
そしてちょっぴり涙ぐんだ。

毎年、この繰り返し。
涙ぐむ回数だけが少しづつ増えていくだけ。

3日間だけ現われては消える音楽と自然が調和した理想郷。
ここでしか会わない友もいれば、
ここでの想い出を残して先にこの世を去った友もいた。
今年もオマエの思い出話をしてきたよ。
そしてみんなで大笑いしてきたさ。

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やるかFuji Rock
The History of Fuji Rock Festival

(番組スタッフ JD)


BOOK BAR staff| 04:38 | カテゴリー:

2008年07月28日

砂漠のビール

       

誰でも地平線まで広がる砂漠で、
夕日を見ながらビールを飲まないかといわれれば、
嫌だとはいわないだろう。

私はそんな素晴らしいことが世の中にあるのかと思った。

先週土曜日に杏ちゃんが紹介した「砂の女」は数十年読み直していないので、
細かなところが抜け落ちているのだが、
あれは暑い季節だったかしら、ビールをグイッとやる場面なんてあったかなあ、
多分なかったろうなあ、とぼんやり思っていたら、
インドのジャイサルメールでの出来事がよみがえってきた。

パキスタンにかなり近いイスラム教徒の多い町、
ラジャスタン州のジャイサルメールの近くには砂漠があり、
日帰りツアーや一泊ツアーに必ず誘われる。

私は砂漠マニアではないので、
「ちょっと夕日を見るくらいがいいなあ」と宿のパシリの少年に言ってみたら、
「行こう行こう。ビール飲む?買っていこう」ということで
車で1時間半くらいの砂漠に向けて、
まだまだどえらく暑い時間に出発した。

エアコンなんてないので、直射日光を浴びつつも窓を開けっ放しで、
それなりに気持ちよくすごしていたのだが、
車が入れない砂地に入ってから更に30分くらい歩かされ、
足がもつれるくらいになったところで「夕日ポイント」にたどり着いた。

すごく暑くて、普段の私なら頭からすねまで
シャワーを浴びたようになっているはずなのだが、
ユニクロのドライメッシュTシャツを着ているのと、
湿度ゼロと思われるほどの乾いた空気で汗が感じられない。

夕日が砂漠の地平線に落ちかけるくらいから、ビールを飲み始めた。

実はその時あまりのどが渇いていなかったことにちゃんと気付いていれば、
ひどいことにはならなかったのだが、

そんなこと今言ってもねえ。

一口飲むと、胃にドスンと来るような衝撃を感じたのだが、
雰囲気に酔って大瓶2本を飲み干した。

ますますもつれた足で宿に帰り、
宿の若い韓国人女性オーナーと更にウイスキーをなめていたころから
様子がおかしくなってきた。寒気がするのである。
「ちょっと風邪ひいたかも」と失礼してベッドに横になってうとうとしていたら
いきなり来た。

すさまじい腹痛と下痢。

私は砂漠に着いていた時からすでに脱水症状を起こしていたのであった。

アルコールは脱水症状を悪化させる。
一番やってはいけないことをやってしまった。

その晩はほとんど寝ることができず、トイレの往復。

翌朝も同じだが、もろもろの都合でバスで移動しなければならない。6時間。

朦朧とする意識の中バスに延々揺られ、
目的地に着いたときには全身異常な熱を持っていて、頭は割れるように痛い。

不整脈まで出てきて、自分の手を改めて眺めてみると、
指が普段の半分くらいまで細くなっている。

「こりゃ死ぬかも」と真剣に思った。

体調を取り戻すまで4、5日かかったが、大事には至らずに済んだ。

乾季のインドではお酒の飲み方には充分注意してくださいね。

いい歳して、おかしなことになりかけたアホな親父からのお願いです。

大量の未整理の写真を当てもなくいじっていたら、
大昔撮った鳥取砂丘の写真が出てきた。

「砂の女」はフィクションだから場所はどこでもいいのだが、
日本での話なのでやはり鳥取砂丘をイメージしていたのだろうと思っていた。

鳥取の人があの登場人物のような方々であるということではないので、
誤解の無いよう。

ややピンボケだがこんなに鳥取砂丘って大きかったかと思って
載せてみました。


                                 大倉眞一郎

BOOK BAR staff| 04:08 | カテゴリー:

2008年07月21日

ビザンティオン、コンスタンティノープル、イスタンブール

東西に分かれたローマ帝国は両者とも最盛期の面影はまるでなく、
476年には西ローマ帝国が、1453年には東ローマ帝国が滅亡しました。

東ローマ帝国の最後はもう国とは言えないような状態で、
コンスタンティノープルは都ではありましたが、
その他の領地といえば周辺の島々、現在のギリシャの一部に限られていて、
改めて地図で確かめると愕然とします。

「飛んでイスタンブール」というわけのわからない内容の曲が昔ありましたが、
イスタンブールという土地の名前は、
子供のころの私には聞いただけで異常なアドレナリンを分泌するような
興奮剤でした。

特に歴史に詳しかったわけではないので、
その言葉の響きに反応していたのでしょう。

タイトルの都市名はみな同じ場所を指しています。
そんな場所は東京が江戸だったように他でもたくさんありますが、
この3都市の名前はぐっときませんか。
やはり西洋と東洋にまたがった都市ということもあるのでしょうか。

歌で言えば私には「ウシュクダラ ギデルケン」という
イスタンブールの町を歌った曲が耳から離れません。

昔から聞いたことはあったのですが
ムーンライダースで初めて録音されたものを聞き、
16年位前の正月にイスタンブールに行った時に
カセットテープを買ってきました。

哀愁たっぷりで涙が出ますよ。

トルコはEUに入りたがっていますが、
そんなこと言わないでアジアでいいじゃん、という気分の私であります。

写真は連絡船の上から見たボスポラス海峡の夕焼け。
しびれました。
半分は寒くて。

    

                                  大倉眞一郎

BOOK BAR staff| 03:15 | カテゴリー:

2008年07月17日

アビーロードへ道

別にアビーロードスタジオで録音を!ということではなく、
どうやったら行き着けるかというつまらないけど、面白くなりそうな話です。

放送でも話しましたが、
ビートルズの最後のアルバムは録音順でいえば「アビーロード」です。
私は超ビートルズマニアで高校のころは、
ほとんどの曲をそらで歌えていました。
ですから、ロンドンに赴任した時にはいつかは行ってみようかな、
くらいには思っていましたが、
まさか自分がアビーロードスタジオの真向かいにある、
アルバムジャケットの右に写っている、
ネヴィルコートに住むことになるとは夢にも思っていませんでした。

まさにあの横断歩道の先が私の住んでいたフラットです。

といって、すごいことがあったかというとそうでもなく、
観光客が多く、みんなが横断歩道で記念写真を撮るので渋滞するし、
うるさいくらい。
一度日本のアーティストがビートルズが使ったスタジオでミックスダウンしているので、見に来ないかといわれて、「それじゃあ、まあ」とお邪魔したことがありますが、
これといった感動はありませんでした。

さて、アビーロードはロンドンに数箇所ありますから、
タクシーで行く場合はセント・ジョンズ・ウッドのと言ってください。

私は会社まで1年くらいは電車で通っていました。
セント・ジョンズ・ウッド駅からです。
この駅がイカス。名前もなんとなくいいんだけど、
駅自体がどことなくアールデコで、
エスカレーターで上がる時の照明器具の感じなんかしびれます。
写真はただの駅のホームですが柱の曲線とか、
単純なんだけど力強くて美しい駅名看板なんかどうですか。
アビーロードへはグローヴ・エンド・ロードをまっすぐ行けば2分で着きます。
観光客は皆そこを目指しますし、どえらく日本人が多いエリアですから、
わからなくなったら聞いてください。

100%行き着けます。

EMIスタジオの壁は数ヶ月に一回真っ白に塗り替えられます。
落書きで埋まってしまうからです。
一生の記念にと何か書いてきた方、あきらめてください。
とっくに消されています。

   

                                        大倉眞一郎

BOOK BAR staff| 01:40 | カテゴリー:

2008年07月06日

ネパール連邦民主主義共和国

放送でもお話しましたが、
ネパールは王国から連邦民主主義共和国へと政体が変わりました。

実は正式名称はまだネパールのままですが、
大使館の方によると「今のところは」ということです。

英語でもいくつか言い方があるようで
「Nepal」
「Federal Republic of Nepal」
「Federal Democratic Republic of Nepal」・・・
といろいろ言われています。

ネパール王国に慣れていた私にはやや違和感がありますが、
大部分のネパール人はとても喜んでいます。

元国王であったギャネンドラ一家も王宮を出ました。


さて、それで万事めでたしかというと、
そんな単純なことはなく相変わらず政治家は権力闘争に明け暮れ、
先々どう変わっていくのかさっぱりわかりません。

現在のネパールは停滞感の中に沈んでいます。
ほとんどの若者は国を出たがっています。

現在は出稼ぎでアラブ諸国へ行く人がほとんどですが、
お金持ちアラブ諸国もインフレに悩まされ、
せっかくお金を稼ぎに行ったのに給料が安すぎる、
仕送りができないという状況も出てきているようです。


私が今年1月に1ヵ月滞在していた時は選挙前ということもあって、
ほとんど毎日どこの町でもあちこちで政治集会を見かけました。

一週間以上いたバクタプルという私がネパールで一番好きな町で、
ある日女性だけの大規模なデモが催されました。

延々と町中を練り歩き、最後は大きな広場で集会となりました。

「女性の権利を主張するデモ」と聞かされていたのですが、
昼飯の焼きそばを食べながら観察していると、
ひな壇に座っているのは男性が多く、明らかに選挙のための政治集会でした。

それでも女性の皆さん、老いも若きも正装して楽しそうだったので、
パチリパチリと写真を撮りました。

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直近の状況はネパールの新聞のホームページで確認できますが、
まとまったことが知りたい方は下記の本が参考になると思います。


ネパール王制解体」小倉清子 NHKブックス

「Crisis of Identity in Nepal」 Prakash A. Raji Pilgrims Publishing

tilled earth」 Manjushree Thapa Penguin Books
(こちらは小説です。短編集で読みやすくネパールの今をうまく伝えてくれます)

                                  大倉眞一郎

BOOK BAR staff| 15:35 | カテゴリー:

2008年06月28日

パハール・ガンジ

629.jpg

よく、インドに行くとはまるくらい好きになる人と、大嫌いになって二度と行こうとは思わなくなる人がいるといわれますが、

そんなのどこの国でも同じだろうと私は思うのですが、いかがでしょうか。

確かにいろんな意味でイベントの多い国ですから、旅をしている人をより鮮明に鏡のように映す、ということはあるかもしれません。

今回紹介した「ぼくと1ルピーの神様」の主人公は、ニューデリー駅のすぐ近くにあるパハール・ガンジという通りに近いキリスト教の教会に生まれてすぐに捨てられていました。

このパハール・ガンジには普通のインド人、貧乏旅行者、牛が主として生息しており、私もニューデリーにいるときには、このパハール・ガンジの安宿に泊まります。

写真のようにウジャウジャしていて飽きません。

「一泊千円くらいのところでいいや」と宿を探すのですが、なぜか400円くらいのところになってしまします。

望んでそうなるわけではないので、不思議でしょうがありません。

インド人も見かけで程よい宿を紹介してくれるということなのかもしれません。

常宿は「Yes, Sir Guest House」なんですが、どうしてそんな名前になったのか私にとっては謎です。

ちょっと恥ずかしかった。

ちなみにリシュケシというところでは「Lucky Hotel」。

私にはどうもホテルの名前に運があるようでない。

                              大倉眞一郎

BOOK BAR staff| 17:35 | カテゴリー:

2008年06月21日

非世界同時革命的体操

今では別にもうカンボジアでは継続革命みたいなことは一切聞いたことがないのですが、1975年のベトナム解放後、カンボジアも革命軍(実はクメールルージュ)の手に落ちたときには、当時の学生はある種の高揚感を覚えたものです。

そんなことはどうでも良くて、プノンペンの朝はかなり早い。

日の出前のうす暗いうちからトンレサップ川沿いの通りには主として、熟して落ちそうになっているおばさま方が集合してラジカセからよくわからない曲を流して踊っている。

本当は体操をしているのだが、どうしても踊っているようにしか見えない。

子供たちが一緒に踊っていることはないので、日本のラジオ体操とはずいぶん違うのだが、暑くなる前に身体を動かすのは、やはり気持ちがよさそうである。

でも、私は参加せずにただ眺めていた。

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                                       大倉眞一郎

BOOK BAR staff| 14:50 | カテゴリー:

2008年06月07日

赤、オレンジ

  

インド、ネパールには何百万人もサドゥと呼ばれる、世を捨てた修行者がいます。

何十年も片手を上げたまま降ろさない人や、伸ばしっぱなしの爪が何十センチにもなってグルングルンになっているような変わった人もいますが、こちらが意味がわからなくても別に問題ではありません。

素っ裸で何も身につけないというサドゥもいますが、ほとんどのサドゥは赤かオレンジの布を身にまとっています。

杏ちゃんと私の色です。火の色を表しているとネパールで聞いたことがあります。杏ちゃんの言うとおりメラメラ燃えているんですね。

ただ、サドゥだけじゃなく、一般の人も赤、オレンジは大好きです。

写真はインド、ラジャスタン州の町、ジョドプルの市場で撮ったものです。原色であふれた町で度肝抜かれます。

大倉眞一郎

BOOK BAR staff| 14:55 | カテゴリー:


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