「儒教・仏教・道教」の紹介をした時に、
シンクレティズムとは「ごたまぜ」である、
と著者の言葉を借りて申し上げたのだが、
このシンクレティズムという言葉の響きがすごく気に入っている。
意味がもともと好きなのであるが、何回も読んで、話しているうちに
すっかり語源もわからないのにはまってしまった。
毎日意味もなくシンクレティズムと口に出している、
というのは嘘であるが、
「ああ、美しい言葉。口にするだけで気持ちよくなる」
と思っているのは本当。
辞書で引くと混合主義、文化的重層構造という訳語が出てくるが、
「ごたまぜ」のほうがいいですね。
日本で神道、仏教、儒教、道教、さらにあえていえば山岳信仰が
ごたまぜになって平和に暮らしているのは
普段から皆さん違和感のないところだと思うが、
他国に行ってごたまぜを目撃したり体験したりすると、
あらららら、と感じてしまう。
多分、外国では宗教は個人によってきちんと信仰が確立していて、
揺るぎないものだと思い込んでいるからであろう。
杏ちゃんまでインドに一度は行ってみたい、とおっしゃるくらい
BOOK BARでは私と杏ちゃんだけインドづいているのだが、
バラモン教へのアンチテーゼとして生まれた仏教もいつの間にか
ブッダはヒンズー教の三大最高神のひとつ
ヴィシュヌの化身にされてしまっている。
これもシンクレティズムなのだろうが、
必ずしも仏教とごたまぜということではなく、
あくまでもヒンズー教の中に取り込まれているということである。
アウトカーストの人々の仏教への集団改宗が続いているが、
やはり差別が存在しているため起こることで、
あまり好ましい例ではないね。
ネパールに行くとこれぞシンクレティズムと思える場面、
神様によく出くわす。
ネパールは王室亡き後どうなったか定かではないが、
ヒンズー教を国教と定めていた。
インドでも出来ないことをこの国ではやっていたのである。
他宗教を信じる国民が多数いるにもかかわらずである。
しかし、ここからが不思議なところ。
カトマンズ周辺には初潮を迎えるまでの間、
クマリという少女の生き神様が存在する。
このクマリはヒンズー教の女神の生まれ変わりと信じられているが、
選ばれ方が面白い。
ネワール族の仏教徒から選ばれるのである。
それがヒンズー教の生き神様になるのだから謎である。
このことを何度もネパール人に正すのだが、
納得のいく説明を聞いたことがない。
これぞ究極のシンクレティズムであろう。
そのくせ、ネパール最大のヒンズー教寺院、
パシュパティナートへ行くと入り口でガキの番人に
「お前はヒンズー教徒か」
と詰問され
「仏教徒だ」と答えると入れてくんないのである。
そのことを友人に話すと、
「いやー絶対入れる。ヒンズー教と仏教って同じジャン」
とお気楽に胸を叩くのである。
実際、チベット仏教徒は格好からして入れてくれないようであるが、
ネワール仏教とはするする入っている風に見えるのである。
美しいマチェンドラナート寺院にはヒンズー教徒も仏教徒もお参りに来る。

上の写真は基本的にはシヴァ神を表すものなのだが、
下部の受け皿のようなものはヨニといい女陰を表し、
通常はリンガという男性器を象徴する円柱がその中に立っているのだが、
この写真ではリンガの代わりに紛れもない仏像が乗っかっている。
これを「おっかしーなあ」と思うか、「まあ、そういうことで」、
と飲み込むのかということである。
同じくネパールのポカラでチベット仏教の寺の世話をしている
女性に付いて行って、寺で和んでいる時に交わされた会話。
「あーた、シータという名前がついているくらいだからヒンズー教徒でしょ、
そういう人がチベット仏教のお寺で働いてていいの?」
「けっ!私たちみたいな貧乏人にヒンズー教も仏教もあるか、
少しでも幸せにしてくれるんなら、何だって拝むわいな」
これはよーくわかった。
ネパールにはヒンズー教徒、ネワール仏教徒、チベット仏教徒、
イスラム教徒、キラット教徒(これはいくら調べても正体がわからない)、
キリスト教徒、そのほかにもアニミズム、シャーマニズム等が混在している。
しかし、この国では宗教対立でどうにもならん
という事態は聞いたことがない。
議会がまともに機能しないのは、民族的、政治的要因によるものである。
困ったものであるが、宗教対立がないのはなにより。
ネパールに行き始めた頃は、なんじゃこりゃ状態だったのだが、
今はネパール的シンクレティズムに気持ちよく酔って毎回酩酊している。
大倉